大阪府泉佐野市、早期健全化団体へ
読売新聞26日付記事からです。 大阪府泉佐野市に関しては、以前にも記事にしています。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-211.html 関西国際空港のお膝元であり、空港特需でさぞかし財政は潤っているのだろうと思っていたら大間違いでした。しかも、早期健全化団体になるというのは、かなりの重症と思わざるを得ません。 財政の専門的知識は持ち合わせていませんが、それでも泉佐野市の一般会計規模が約400億円であるのに対して、市債残高がその3倍以上の1350億円というのは、「借りすぎ」と言われても仕方ありません。人口増などの将来予測が余りにも甘かったのでしょうか。 早期健全化団体になると、自治体財政健全化法の適用となり、財政健全化計画の策定が義務づけられ、その計画の実施状況次第では大阪府知事の勧告を受けるということになります。勧告は法的強制力がないとはいうものの、勧告内容は公表されるため、実質的な強制力があると思ったほうがいいでしょう。 しかし、こうした事態に対して、泉佐野市「だけ」を批判するのは誤っています。大阪府の橋下知事が言われているように、根本原因は国と地方の関係や国の仕組みで、税財政基盤が脆弱である自治体としては国の指導に従うしかなかったのです。国の税財政事情で自治体の財政は振り回されます。自治体だけで制御できる部分というのは、かなり限定されているものです。部外者にはなかなか理解してもらえないのですが、民間企業のように、金儲けができなければ即撤退というわけにはいかないのであり、企業活動と同列に論じるのは誤りです。
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原告住民に厳しい水害訴訟
読売新聞2日付記事からです。 水害に関する訴訟は、個人的にはしばらくお目にかかっていませんでした。水害訴訟で住民が勝訴するのは、なかなか困難なようです。それは、最高裁が水害訴訟で原告勝訴を認めないような論理を作り上げているからです。 かつて最高裁民事局は、河川管理者に求められる安全性、つまり河川管理瑕疵の判断基準を明示し、その後にあの有名な、大東水害訴訟最高裁判決が出されています。「河川の管理についての瑕疵の有無は、・・・河川管理における財政的、技術的及び社会的諸制約の下での同種・同規模の河川の管理の一般的水準及び社会通念に照らして是認し得る安全性を備えていると認められるかどうかを基準として判断すべき」としています。この見解は、民事局見解を引き継いでいるように見えるという指摘があります(西川伸一『日本司法の逆説』(五月書房)、153頁)。
国家賠償請求訴訟というのは、行政事件訴訟の補完的な機能が求められています。しかし、水害訴訟に関して、最高裁が原告住民側に厳しい姿勢で臨んでいるのは、何故なのでしょうか。下級審の裁判官たちは、どうしても最高裁の意向を気にするので、なかなか思い切った判決は出せないようです。
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阿久根市職員給与の公開問題
毎日新聞25日付記事からです。 阿久根市のリコール問題については、以前、少し記事にしています。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-210.html 職員給与の透明性を高めることについては、賛成ですが、このやり方は余りにも極端すぎます。この市長は個人情報保護法などお構いなしという姿勢で、「法律や条例よりも、市長である自分の命令が上位にあるんだ」という態度が鮮明です。これでは政策法務ではなく、政策法無の蔓延を招きかねません。 そもそも阿久根市職員の給与は果たしてそんなにメチャクチャなのでしょうか。公務員給与は基本的には年功序列賃金ですので、年齢が高ければ年収が高くなります。行政職員の最高年収が約909万円というのも、年功序列賃金体系の中で幹部職員になればあり得る年収です。阿久根市職員の平成20年度給与平均は、44歳で約368000円。「ムチャクチャ」とは思えません。 阿久根市の平成19年度ラスパイレス指数は99.1ですから、近隣で勤務する国家公務員との均衡を考えれば、批判、非難されるいわれはありません。もっとも、独自の給与カットなどを実施すれば、下げることはできるとは思いますが、それは労使で話し合えばいいことであり、そうしたことに市民目線を入れて議論すればいいのです。また、年収700万円以上が過半数を占めているというのも、人員削減など組織の新陳代謝が進められてこなかったことの影響もあるはずで、個々の職員を批判するのは筋違いです。そもそも人口約24000人、職員数260名ほどの組織であり、小さいゆえに極端な人員削減が難しいという側面もあります。 阿久根市長のこうしたやり方は、激増している貧困層が自分たちの能力不足、努力不足は棚上げして、歪んだ妬み意識だけを増長させるだけで、建設的な意見が出てくるとは思えません。他人の懐を妬んだところで、自分が幸せになれるわけではありません。阿久根市民も冷静に見てもらいたいものです。
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自治体行政と民間感覚
朝日新聞23日付記事からです。 この59歳の男性は、公務員が「あこがれの仕事だった」とのことですが、あこがれのままで終わらせた方が良いのではないかとも思ったりするわけです。
産経新聞24日付記事からです。 どうやら昨今の経済不況の影響で、公務員人気が復活しているようです。今年の国家公務員や地方公務員の採用試験の倍率は大幅アップするでしょうね。この数年、国家公務員人気は下降の一途だったはずですが、表向き「天下り批判」をしつつ、「自分もそのおこぼれに預かりたい」と念願する人は多いはずです。いつものことですが、世の中が悪くなると、公務員への批判が高まるとともに、その批判されている側に入りたいと思う人が激増するという、おかしな現象が発生するのです。 箕面市は民間経験者の採用試験だったようです。民間企業から公務員に転身する人は比較的多いと思いますが、公務員から民間企業、あるいは、自治体から別の自治体、自治体から国、国から自治体へと転身される人というのは、果たしてどれくらいいるのでしょう。A市の職員として勤務していたが、財政難で給料も上がらないし、地域としても将来の発展が期待できないので、この際、財政状態も良好で、将来性も期待できる隣のN市に転職したいと思っても、残念ながらその途は閉ざされています。 自治体が民間経験者を採用する場合の決まり文句が、箕面市の言うように、「民間感覚を行政に取り入れたい」というもの。しかし、民間経験者が本当に民間感覚を取り入れようと思って役所に就職しているのかどうか。A市にも民間経験者は採用され、既に何年か経ちますが、何がどう変わったのか、サッパリ分かりません。そもそも民間時代のやり方などを職場で主張した途端、その民間経験者職員は、周囲からそっぽを向かれるのではないでしょうか。 民間感覚というなら、民間ならではのコンプライアンスを自治体組織に浸透させてほしいと思っているのですが、多くの自治体でそういうことが起こっているとは思えません。結局、郷に入れば郷に従えになってしまうのです。
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続・神戸市 VS ミナト神戸を守る会 続編です。
住民訴訟で敗訴した市長が、市議会で権利放棄の条例を議決してもらい、裁判所から命じられた損害賠償を支払わなくてすむようにする。この権利放棄は有効か、無効かということで、高裁判例では有効説、阿部泰隆先生の無効説、蝉川論文の限定有効説について、紹介させていただきました。 この一連の記事について、個人的にお世話になっている大学教授の方を通じて、阿部泰隆先生からご指摘をいただきました。特に、阿部先生が執筆された判例時報1955号掲載の論文「地方議会による賠償請求権の放棄の効力」についての私の記事は、誤っている、理解できていないし、誤ったことを広められるのは困るとのことです。 こんなブログで何を書いても、特に何か影響を及ぼすようなことはあり得ないでしょうし、阿部先生が困るようなことはないと思うのですが、真剣にお読みくださったことに感謝いたします。「民法帝国主義」の引用方法は、確かに誤ったものでした。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-38.html さて、あらためて、阿部説はもちろん権利放棄議決を有効とする判例に批判的であり、無効説に立脚されています。権利放棄を制限する根拠となる明文規定として、地方自治法138条の2では、首長の誠実処理義務が規定されていること、238条の3、239条2項などは利益相反の排除を定めていることなどを掲げられていますが、以前の記事では、これらの規定と権利放棄議決無効を結びつけることに違和感を覚えたのです。これらの規定が、果たして別に明文規定となっている権利放棄の議決を制約するほどの根拠となるのかという感覚です。 阿部論文の最後のほうで、権利放棄の議決が有効であるのは、「本人である自治体の利益を考えた上でなおやむを得ない場合」で、例示として「三セクが大赤字で、特定調停で債権を放棄して、再出発させようとするとき」を出され、住民訴訟で賠償責任を負った者については、「善意、軽過失の場合に責任の一部に限定すべきで」、「立法論としては、各事件毎に、株主代表訴訟のように年俸の6倍くらいにとどめるべき」とされています。しかし、「解釈論としても、首長などに払えるだけ払って貰えれば、善意、軽過失であれば、残りは免除するのもそれなりの考え方であろう」などとも述べられています。 ただ、免除となれば、根拠は自治令171条の7の債務免除規定でしょうか。この規定は、果たして、対象者に首長を想定しているのかどうか。在籍中の首長が自分に対して債務の免除をするということもあり得るわけですが、どうなのかと思うのです。また、要件として、履行期限から10年経過し、それでも無資力又はこれに近い状態というのは、首長が破産同然の状態まで追い込まれるということです。現実に破産してしまえば、免責されてしまうのでしょう。どれほどの差異があるのか、ちょっと理解しにくいです。 阿部説に対して、最高裁がどういう判断を示すのか、部外者としては待つしかありません。
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変更裁決と一部取消裁決 行政不服審査法では、処分に対する不服申立の裁決について、却下、棄却、認容の3種類あり、認容については、処分の全部又は一部取消(取消裁決)と変更(変更裁決)があります。個人的に、一部取消裁決と変更裁決の差異は一体何なのかと、今ひとつ理解できていません。
宇賀克也『行政法概説U』(有斐閣)65頁では、量的に可分なものの一部の効果を失わせるものは一部取消とされています。例として、2ヶ月間10%減給という懲戒処分を1ヶ月間5%減給にする場合を掲げられています。これに対して、減給を戒告にする場合には、質的変化を伴うので、変更に当たるとされています。しかし、これでは個々具体的にどう判断するのがいいのか、ちょっと悩んでしまうところです。 久保茂樹「行政不服審査」(磯部力他編『行政法の新構想V』(有斐閣)所収)では、変更裁決について、「数量的に不可分の処分について、これを新たな処分に置き換えるもの」と記述されています。説明の仕方の違いだけと理解してよさそうです。その上で、変更裁決が許される要件として、原処分が違法又は不当であること、行政庁の権限として変更裁決ができること、取消裁決よりも変更裁決の方が適切であること、不服申立の趣旨に反しないこと、の4点を挙げています。 やや抽象的な例示ですが、100の給付を求めて申請してきた者に対して、50の給付を認める決定が出され、これに対して不服申立がなされ、結局、100の給付を認容する場合、実務では変更裁決にしている例があるようです。しかし、久保論文では、申請拒否処分を申請認容処分に変更するケースは、変更裁決ではなく、認容説が有力であるとされています。50の給付決定処分を取消し、100の給付決定処分とするのが、明確でいいと思っていますが、どうでしょう。
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民事不介入原則の呪縛 民事不介入の原則については、法律に詳しくない人たちも一度は聞いたことがあると思います。借金の返済をめぐる紛争に警察は関わらないといった例で説明されることが多いでしょう。では、そもそも民事不介入の原則とは、どういう法原理なのかと問われると、本格的に検討されたものがとても少ないとのことです。
大橋洋一『都市空間制御の法理論』(有斐閣)238頁から「第11章 民事不介入の観念と行政型ADR」という論稿が収録されています。すでに3年ほど前に別の専門誌で発表された論文ですが、興味深く読みました。 大橋論文によると、民事不介入の観念は、古くは1913年に美濃部達吉が発表した「警察権ノ限界ヲ論ズ」という論文で示されているようです。美濃部博士は、公共の利益のために市民の自然の自由を制限し、または、これを強制する権力的作用の総称として「警察権」という用語を使われていたのです。そして、警察権の限界法理の一つとして、「警察の公共的原則」、すなわち、直接に公共に影響を及ぼさない行為については原則として警察は干渉しないということを唱えられ、私住所の自由・私生活の自由・私交通の自由の3つに区分され、3つ目の意味としては、私経済関係は警察の干渉を受けないということで、民事不介入の原則として説明されるようになったわけです。 しかし、今や、私人間の紛争をADRで処理する時代です。行政が私人間の紛争を民事不介入の原則を楯にして、拒絶するべきだと考えることは廃棄しなければなりません。とは言っても、これがなかなか難しいのです。先の大橋論文においても、この原則が持つ呪縛は予想を超えるものがあり、多くの自治体職員の意識は相当強いとされています。自治体職員にすれば、市民間での紛争対立について、どこまで関与するのがいいのか、過剰な関与で一方当事者だけの主張に与しているともう一方の当事者に思われると、自治体職員としての中立性に不信感をもたれるのではないかと危惧することが多いでしょう。行政型ADRの制度設計と運用のあり方が重要になってくるため、当然、政策法務の出番ということになるのです。 もっとも、行政型ADRに直接関わることのない、多くの自治体職員が民事不介入の原則の呪縛から脱するのは、至難の業だと思っています。
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あるNPO法人の化けの皮 今日、所用で本庁に行ったところ、かつての上司が、「お前の直感、命中していたぞ」と言われました。「はて、何のことかな?」と思ったのですが、以前、私が「これは胡散臭い」と思っていた、あるNPO法人が多額の不正請求をしていたことが発覚し、立入調査を受けているとのことでした。うまくいけば指定取消になるようです。
このNPO法人は、介護保険や障害者自立支援の事業を手がけていて、代表者が口先では「福祉は地域ですべきだ」とか、「憲法25条を尊重しろ」と偉そうに言ってたのを思い出します。あの代表者が憲法を一度でも読んだことがあるとは到底思えませんでした。「憲法25条は生存権ですか?じゃぁ、26条や27条は何権ですかね?」と尋ねてみたかったのをグッと我慢したのは、つい昨日のことのようです(笑) この代表者、とにかくカネに猛烈な執着心のある人物でした。NPO法人はそんなに金儲けになるのかと錯覚したくらいです。そんなわけで、「あぁ、これは、何かやっているな」と思っていたのですが、残念ながら当時は「証拠」を発見できなかったので、法的な対応ができなかったわけです。どういう経緯で不正が発覚したのかまでは教えてもらえませんでしたが、「それみたことか、ざまぁみろ!!」という気持ちであることは言うまでもありません。 このNPO法人との関係では、次の事件が忘れられません。生活保護を受けていた重度障害者について、同居の親族が病気で入院したため単独では生活できないことは明らかであったことから、施設入所をさせようとしました。ところが、このNPO法人の代表者やケアマネジャーが本人を巧みにてなづけ、事実上本人を軟禁状態にしたうえ、「施設入所は不要だ」と実力行使で妨害したことがありました。そして、施設入所ではなく、在宅でのサービスを受けるようにしろ、その仕事を自分たちが請け負うとして譲らなかったのです。 重度障害者ですから契約締結能力などあろうはずもなく、施設入所か在宅介護かも明確に意思表示することができません。しかし、奴等はそうした事情を悪用し、しかも、すべて公費負担であるため取りっぱぐれがない「美味い仕事」に食らいついて離そうとしなかったのです。それでいて、「障害者にも憲法25条が適用される」「施設入所は人権侵害だ」「地域で福祉をさせろ」と都合のいいゴタクをわめき叫ぶ有様でした。 結局、在宅サービスとなったのですが、当然、全額公費負担のため、その必要性はロクに検討もせず、「本人の希望だ」ということで限度額一杯のサービスを強行していたのです。夜間の訪問など、誰がどうやってその実施の有無を監視できるのか、それだけでも胡散臭かったわけです。 こういう「営利第一主義」の「NPO法人」が法律に基づいて認可を受けていたのです。前にも記事にしたと思いますが、決して金儲けが悪いと言っているのではありません。金儲けをしたければ、「NPO」だの「非営利」だの「ボランティア」だのといった、いい格好をせずに、素直に「会社」にすればいいのです。そのケジメをつけることができないNPO関係者というのは、相当存在しているはずです。そんなにボランティアがしたければ、自分のできる範囲で、自前のカネでやればいいのであり、英雄気取りで他人のカネにタカルような運動はすべきではない。解雇されて住む場所を失った派遣社員が本当に気の毒だと思うのなら、自分の家に泊めてやればいいのです。 私が、ボランティアとか社会貢献活動といった類のことに、必ずしも好意的な目線を持っていないのは、こうした経験が大きく影響しています。
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神戸市 VS ミナト神戸を守る会
朝日新聞14日付記事からです。 神戸市職員の外郭団体への派遣訴訟については、以前、記事にしています。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-202.html 確か、原告の市民団体は、神戸空港の廃止を目指して設立された団体だったのではないでしょうか。それが活動範囲を広めて、神戸市を「敵」とみなして、訴訟活動などをしているのでしょうか。神戸市にすれば、鬱陶しい存在でしょうね。 この時の記事は金額が2億5000万円となっていますが、総額48億円となると市長個人が支払える金額ではありません。神戸市側の主張にあるように、市長は破産宣告しなければなりませんし、外郭団体も破たんし、大混乱が生じるでしょう。原告である市民団体にすれば、その原因を作ったのは、神戸市そのものであり、責任は神戸市長が負えばいいという考えなのでしょう。しかし、それで問題が解決できるとは到底思えません。 先日の記事で紹介した論文からも、自治体の権利放棄は、訴訟で多額の支払を命じられたことで、かえって大きな混乱が生じるような場合に肯定できるように思います。地方自治法を改正して権利放棄を禁止する規定を導入すべきだという意見が、市民団体から出されているようですが、にわかには賛成しかねます。 何ら法的な民主的正統性を具備していない一介の市民団体が住民訴訟で勝訴したとしても、法的に民主的正統性を獲得している自治体議会が法的手続きを経て自治体として権利放棄の議決をしたり、権利放棄の条例を制定すれば、自治体の権利は消滅するとしているのが、地方自治法が採用している仕組みであり、解釈論として、全ての場合にそれが可能なのではなく、大きな混乱を防止するためなど限定して肯定するという考えは、それほど悪い議論ではないように思います。 政令市である神戸市が実践することになれば、他の自治体にも波及効果あるでしょう。引き続き関心を持ち続けたいと思います。
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文具のこだわり 四方山話をひとつ。こだわりの文具というほどではないのですが。
当然のことですが、ブログはパソコンがなければできません。勤務先でも今や決裁の起案を手書きですることは、皆無でしょう。そんなことをすれば、「非効率だ」と叱られるかもしれません。それくらい定着、普及していると思います。 有名な作家さんたちも、最近ではパソコンで原稿執筆する人が多いと聞きます。そうなると、「執筆」という言葉が時代にそぐわなくなっているような気もします。偉そうなことを言う私も、論文など執筆作業をするときはパソコンに依存しています。推敲が楽にできること、出版社に提出するときに電子メールを使えるという利点があります。欠点といえば、自分の執筆原稿としての痕跡が残りにくいことでしょうか。 川端康成の作品は「推敲の文学」と言われているそうですが、文豪が残してくれた生原稿というのは、独特の迫力があります。これは極端すぎますが、「手書き」の良さというのは、やはり忘れられません。私も、政策法務関係の原稿執筆の下書き、着想などはノートに書き留めるようにしています。2003年12月頃から特に意識的にそうしていて、政策法務研究関係のノートは10冊近くになっています。 ノートは、何と言っても「ツバメノート」。大学ノートの象徴、横綱ですね。10年ほど前から時々使っていたのですが、この数年はぞっこん状態です。近所の文具店では売っていません。デパートか専門店でしか販売していないし、1冊あたりの値段はかなり高いです。B5版30枚綴りのもので1冊150円ほどですから5割は高いのですが、重厚感のある表紙のデザインが何とも魅力的で、戦後間もなくからこのデザインは変わっていないはずです。 筆記具はやはり万年筆。生意気にも小学生の頃から万年筆が好きでしたが、もちろん、その頃は安いものしか買ってもらえませんでした。この数年、パイロット、プラチナ、パーカーといったメーカーのもので、2万円前後のものを使ってみたのですが、正直、どれも今ひとつといったところで使用中止になっています。逆に、ずっと使っている万年筆といえば、13年ほど前に購入した、モンブランの「マイシュターテック146」。マイシュターテック149が有名ですが、個人的には「146」がちょうど良い大きさだと思います。それと、3年ほど前に購入したペリカンのスーベレーンM400は軽くて使いやすいですね。やや重みのあるマイシュターテック146とは対照的です。この2本を交互に使っているわけです。 以前からボールペンはあまり使っていはいないのですが、つい最近、専門書を読むときなど、4色ボールペンで線引きしながら読むようになりました。学生時代から5色の蛍光ペンを使って色分けしながら読むことにしていたのですが、これだと時間がかかりすぎるため、改善策を案じていたところ、たまたま思いつきでやってみたら、「いける!」と思ったわけです。とりあえず近所の文具店で350円のパイロットのボールペンを買ったのですが、これでいけるとなると、奮発して「イイモノ」を買おうと思った次第です。それはまたいずれどこかで。
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地方議会法制のあり方(4) 地方自治法96条1項10号の権利放棄に関する議決について、以前に記事にしています。
http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-38.html 住民訴訟と議会の権利放棄議決について論じられたものとして、蝉川千代「住民訴訟制度と地方議会の権限−四号訴訟に対する債権放棄を中心に(上)(下)」(自治研究第82巻第五号、第七号)があります。住民訴訟制度と議会の権利放棄について、判例を素材に詳細な検討がなされており、おそらく、この問題に関しては最も詳細なものだと思われます。 この論文では、住民訴訟係属中の債権放棄については、法解釈上は一定の要件の下に適法とし、立法政策として一律に違法にすべきとされています。また、請求認容判決確定後の債権放棄については、判決確定時に想定し得なかった事情により、認容判決の内容を実現することが自治体にとって著しい不合理を招くような例外的な場合には適法としています。論理展開としては、権利放棄の規定があるため、一律「違法」と解することができず、どういう場合に「適法」になるのかを絞り込むことで、権利放棄規定を限定解釈するような構成にされているという印象です。 自治法96条1項10号の規定と242条の2以下の規定との関係について、何ら規定はなされておらず、かつ、現状この点について法整備がなされる可能性はないと思われます。自治体側としては、判例の動向から権利放棄が違法無効とされるリスクは低いため、「最後の切り札」としてこの規定をどう活用するかという観点から考えなければなりません。 それにしても、最初にこの手法に気づいた自治体が、鋸南町という人口1万ほどの自治体であったのが印象的でした。住民訴訟で散々やられっぱなしだった大規模自治体の関係者はどうお考えだったのでしょうか。
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続・続・北海道滝川市生活保護不正受給事件
読売新聞8日付記事の一部抜粋です。 滝川市の事件については、以前に記事にしています。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-9.html http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-176.html 職務遂行上のミスとは言うものの、職員労組が言うように市はあくまで被害者です。全職員がその被害額を負担するというのは、到底承服しかねるところでしょう。特に滝川市の場合、職員が650人しかいないため、1人あたりの負担は30万円にもなり、通常の給与カットなどとは次元が異なります。 しかし、市民感情からはこの論理は通用しない。最終的には負担を受け入れるしかないのでしょうが、そもそもこの問題は労組と協議するものなのかどうか。給与削減をされた職員が、公平委員会に不服申立をし、訴訟に移行した場合、給与削減の違法性が問われないのでしょうか。労組と当局が合意したことが、違法性を排除するといった理由にはならないはずです。 勤労の拒否を奨励することで、真面目な勤労者、納税者を敵視し、「弱者の脅し」を当然のものにする「生活保護法」は、やはり悪法中の悪法。即刻廃止すべきです。制度があるから依存し、いつまで経ってもも自立しようとしないし、自立できない。そこに詐欺師が跋扈する隙間ができる。制度廃止こそが最大最善の自立助長政策なのです。
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行政計画の法的意義 計画の処分性については、昨年9月10日に最高裁大法廷が土地区画整理法に基づく事業計画決定について肯定する判決を出したことは、学会、そして実務現場にも大きな影響を与えているとことです。第一法規の「政策法務Facilitator vol.21」では高橋信行「土地区画整理事業と抗告訴訟−最高裁大法廷平成20年9月10日判決に関する若干の考察」という論稿があり、わかりやすくまとめられていると思います。平成16年の統計で、自治体を施行者とするものが800近くあり、本判決を受けて相当数の訴訟が提起される可能性があると指摘されています。
しかし、最高裁の判決はあくまで土地区画整理法の事業計画決定に処分性を認めただけで、これを演繹的に用いて行政計画全般について処分性を認めることは考えられません。そうなると、行政計画の法的意義というのは一体何なのかということになります。 ここでも有斐閣の『行政法の新構想U』を参考文献としておきます。その中の、見上崇洋「行政計画」(同書51頁から70頁)という論稿です。もっとも、行政計画に関しては西谷剛『実定行政計画法』(有斐閣)という名著がありますが。 この論稿では、土地利用計画(都市計画)、福祉計画、一般廃棄物処理計画、消費生活基本計画について検討がなされており、これらの共通的な性質として、@他の処分と関わるものや制度上後続の処分が予定されているもの、A事実行為を含め他の行政作用をその計画に基づいて予定しているもの、B計画の次に何らかの行政の対応を予定しており、行政過程におけるある段階で後続の行政作用の基準なり基礎となること、の3点を挙げ、これを行政計画の前提確認・決定機能と定義されています。そして、この機能によって、行政計画の法的理論の位置を把握できると主張されています。具体的には、都市計画と一般廃棄物処理計画は、後続の行政処分の基準であり、計画の合理性を問うことで後続の行政処分の違法性を争うことができると主張されています。 しかし、果たして裁判所が行政計画の合理性を審理、判断するのかどうかということが問題なのではと思います。上述の土地区画整理事業計画についての最高裁大法廷判決は、事業計画決定のもたらす法的な建築制限や将来的に換地処分等がなされることが確実であることなどを根拠に処分性を肯定したものと解されています。計画の不合理性を真正面から認めたわけではありません。計画の処分性が肯定されても、計画そのものは裁量の逸脱濫用はないとして、計画の取消しが否定される可能性が高いのではないでしょうか。 自治体が策定する計画で、ある事業を実施することになっていて、そのために条例を制定した場合、基準なり基礎となっている計画の合理性が問題となれば、その条例も違法性を帯びるという論理もあり得ることになります。ですが、裁判所が計画の合理性まで踏み込んで判断するのでしょうか。つまり、行政計画論独自の違法性に関する法的枠組みを設定するのは、どこか無理があるように思われます。
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自治体の事務改善運動 いろいろな名称がありますが、この数年の間に流行しているのが、自治体における事務改善運動なるものです。その取組方も様々ですが、概ね、各職場レベルにおいて、何らかの課題を発見ないし設定し、それを一定期間の間に解決する、ないしは、改良してよりよいものにするといったもので、あくまで自主的な取組みであることが強調されていることです。個人的に驚いたのは、公費乱脈で市民の厳しい批判を受けている大阪市でも、そうした運動がなされるようになったことです。大阪市にそのような組織風土があるとは到底思えなかったので、以前、知人から発表会があると聞かされたときには、まさかという思いでした。
個々の取組み内容は種々雑多で、類型化することは、まず不可能なようです。ほとんどが自主的取組みとして賞賛されていますが、果たしてどうなのかと疑問を持つような事例もあります。具体的には、オークションなどによって収益をあげるような取組みは、自主的に行っていることにすれば、かえって疑義が生じるのではないかと思います。その収益を自治体の歳入にするのであれば、自主的な取組みではなく、明らかに公務だからです。逆に、その収益が自治体の歳入にならないような細工をしているのであれば、その収益はどこへ消えたのかということになります。また、特定のプロジェクトの本格実施の前に、特定の部署だけで試験的に実施するようなものは、自主的な事務改善運動とは言い難いはずです。しばしば聞かされる事例として、ゴミの分別について、学校などで子どもたちに教える活動があります。これは、本来、公務として実施すべきもので、自主的な改善運動とは思えない。窓口の景観を綺麗にし、市民に気持ちよく来ていただきたいというのも、本来、特定の部署で行うものではないはずです。 取組み内容の中には、実地調査をし、データ分析を行ったうえで、その解決策のための政策提案をするようなものもありますが、とても少ないという印象です。何よりも残念なのは、そうした本来重視されるべき政策提案的な取組みが、それほど評価されないという現実があることです。そのため、取り組む内容は、どうしても見栄えのある、目立つようなものになってしまいがちではないかと思っています。 事務改善運動を見ていて、公務と純粋な自主的取組みの境界は、かなり曖昧不透明という印象が強まります。熱心に取り組んでおられる方々には敬意を表しますが、「自主的」とか「主体的」という言葉を都合よく解釈し、利用する傾向が、他の分野に波及しなければいいと思ってしまいます。
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大阪府泉佐野市、関西空港「入島税」撤回
読売新聞3日付記事からです。 自治体の独自課税をめぐって、国と衝突し、久しぶりに国地方係争処理委員会に仕事をさせる機会が生まれるのではないかと期待していたのですが、残念。 国土交通省にすれば、独自課税が一つでも認められれば、その後の波及を懸念するのでしょう。水際でせき止めなければならないことで、実利をもたらす提案を市側に行ったのだと思います。泉佐野市も国と徹底的に争うほどの勇気も根気もないはずですから、もしかしたら「入島税」は政治的にはフェイクだったのかもしれません。 反則法制の管理人さんと同じく、「しょーもなっちゅう感じ」です。あ、反則法制のブログ記事は次のアドレスで。 http://seisaku.dip.jp:8080/BLOG/archives/2009_2_3_197.html
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リコールと不信任議決 今日は地方自治法に基づく長の解職請求と議会の長に対する不信任議決2つのニュースを素材にします。
朝日新聞6日付記事からです。 有権者の3分の1以上という厳しい要件をクリアして、リコールが成立するというのは、あまり聞いたことがありません。銚子市は人口6万人余りということですが、問題は住民投票でリコールに署名した有権者がどういう投票行動をするのかということです。リコール署名した2万6000人もの有権者が、住民投票で同じ意思表示をすれば整合性がとれるのですが、往々にして異なる結果になることもありますので、そのあたりがどうなるのか、注目したいところです。
読売新聞6日付記事を一部修正したものです。 市長と議会の対立というのは、市民派市長と守旧派議会といった構図で、しばしば発生するようですが、阿久根市のようなケースは珍しい部類なんでしょうね。一昔前、A市も市長と議会が激突していたことがあり、市長が自分の後援会の会長を教育委員として提案し、紛糾したことが思い出されます。どこも似たようなものです。阿久根市の場合、職責を全うしていないのは、議会も同じだと思うのですが、いかがでしょう。
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千代田区生活環境条例の運用に対する疑問 北村喜宣『行政法の実効性確保』(有斐閣)については、すでに紹介済みです。その第3章「条例の義務履行確保としての過料」(27頁〜34頁)を参考にしつつ、標記の点について、記事を書いてみることにします。この問題は、私も加入している政策法務研究会の主要メンバーから意見を求められたものです。
条例の義務履行確保手法として、過料を活用することに注目が集まっているようです。地方自治法14条3項では、条例違反に対して5万円以下の過料を科すことができ、かつ、255条の3に基づいて行政手続で実施できるとされています。そして、これを活用した代表作として、千代田区生活環境条例が取り上げられることが多いと思います。 この条例が注目されている理由として、北村先生は同書31頁において、
と述べられています。 千代田区条例の運用に関して疑問が生まれるのは、職員が違反を発見したら住所と氏名を申告させ、その場で2,000円徴収している点です。自治法231条、自治令154条の規定から素直に考えると、まず調定し、それから納入義務者に納入通知(納付書の送付)をしなければならないはずです。また、自治法255条の3によると、過料処分をしようとする場合は、あらかじめその旨を告知し、弁明の機会を与えなければならないと規定しています。 まず、納入の通知をしないのは、自治令154条2項「その性質上納入の通知を必要としない歳入」と解しているということでしょうか。そうだとすれば、この条例に基づく過料だけ何故そう解釈できるのでしょうか。「現行犯」であり、本人も認識しているので、不要だと解するのでしょうか。また、「あらかじめ告知」するのは、現行犯でおさえ、その場で「あらかじめ告知」し、「弁明するならどうぞ」という運用をしているということで、「適法化」しているのでしょうか。 しかし、行政手続法29条、30条の規定から、果たしてそのような運用が肯定されるのかどうか。31条では16条を準用しており、代理人の選任が可能であるにもかかわらず、そのような時間的余裕も与えられないとなれば、やっぱり疑問を覚えるところです。 田舎からたまたま東京へ出て来て、タバコをすっていて、禁止区域に入ったところで、過料処分を受けた人がいる一方、禁止区域内でタバコを吸っているのが見つかり、つかまる前に、区域外に出て逃げた人もいるでしょう。いずれも相当数いると思います。行政執行は100%完璧じゃないと言われればそれまでですが、運不運で決まるような事態は、公平性という点でひっかかります。
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行政立法の裁判規範性 磯部力・小早川光郎・芝池義一編『行政法の新構想U』(有斐閣)を、一応、読了しました。
その中で、野口貴公美「行政立法 裁判規範性の分析」という論稿があります。行政立法は法規命令と行政規則に二分されますが、いずれにも関連している仕事をしています。 まず、政省令といった法規命令の裁判規範性は肯定され、告示についても法規命令と解されるものについては、同様に肯定されていると整理されています。法規命令の裁判規範性は、ごく普通に肯定されているということです。 個人的に関心が強いのは行政規則の裁判規範性です。行政手続法が規定する審査基準・処分基準・行政指導指針(5条、12条、36条)について、審査基準は設定義務と公にする義務、処分基準は設定努力義務、行政指導指針は設定義務と公表義務を定めています。行政庁はこれらの基準を適用して処分等をすることになり、裁判規範性を肯定されると解するのは、もう当たり前という感覚でしょう。しかし、行政規則は、そもそも法律の授権がない行政内部の規範ではなかったのかという論点が浮かび上がってきます。 この論稿では、行政手続法に基づく各基準の意味について、
とされ、法規命令とは異なる裁判規範性を与えられたものとみるべきと主張されています。 行政手続法に基づく各基準は、行政規則でありながら裁判規範性があり、行政規則の外部化現象を法的な裏づけを行ったものと考えることもできそうです。
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随意契約 理想と現実の乖離 予算決算会計令も地方自治法施行令も、少額契約については、随意契約を可能としています。小額契約を競争させても非効率であったり、大した成果がないということや事務の簡素化ということが理由です。
地方自治法施行令167条の2第1項、別表5がその根拠になります。市町村に関して言えば、工事又は製造の請負130万円、財産買い入れ80万円等とされ、これらを上限に、自治体が規則で定めるとしています。自治令は上限枠を設定したものです。 金額は明確ですが、これらを適用する「契約の単位」は必ずしもはっきりしません。工事請負契約を恣意的に分割発注して随意契約にするといったことは、違法性を帯びるのはともかく、業務委託契約の中で、例えば書類作成を1枚100円とし、実施枚数分支払うといった単価契約の場合、どうなるのかということです。単価の100円とするなら随意契約は適法ですが、例えば、1枚100円の書類作成を5000枚以上となれば50万円を超えてしまいます。適法性を重視するならば随意契約は認められないと解することになります。しかし、入札事務等を所管する契約課にすれば、事務量が過重になってしまう可能性が高いでしょう。 当該契約を担当している部署にとっても、契約課に契約締結依頼をするのは、年度末に向けて多忙な時期に煩瑣になります。特に、新年度予算に基づく会計システムを稼動できるようになるのは、自治体にもよるでしょうが早くても2月半ばではないでしょうか。契約課は新年度契約事務を処理していく都合上、早く関係書類を提出するように要求するため、担当部署の職員は板ばさみ状態になってしまうわけです。おそらく、程度の差はあれ、どの自治体も同様ではないでしょうか。 自治体契約の透明性を高めるためには、できる限り競争入札に付す、あるいは、随意契約をするにしても各部署での契約ではなく、契約課に依頼して法定手続に基づいて実施することが望ましいところです。しかし、理想と現実に乖離があるため、職員たちは契約の透明性よりも事務処理の迅速性を重視してしまうのです。適法・適正な契約事務に従事したことがない自治体職員は、随意契約で要求される見積り合せを競争入札の代替手段と考えてしまうこともあるようです。
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北村喜宣著『分権政策法務と環境・景観行政』(日本評論社)
日本評論社から政策法務に関する書籍が出版されました。著者は上智大学教授で、政策法務の理論開発、そして現場での実践にも造詣の深い研究者として広く知られています。 「はしがき」によると、「本書は、地方分権配慮的ではない現行法のもとで、自治体がいかに自らの法政策を法的に実現することができるのかを模索した論文集で」、「いくつかの理論的整理をするとともに、環境行政と景観行政を素材にして、自治体法政策の可能性を検討した」とされています。 本書は、北村教授がこれまでにいくつもの専門誌や論文集などで執筆された15本の論稿を体系的に収められたもので、いわば、北村理論のエッセンスが凝縮されている逸品だと思います。政策法務の基礎理論と実際を学ぶためにも、そして、北村ファンは、必読の文献になると思います。 その中で、条例の実効性確保は、政策法務における条例論の中でも大きな論点だと認識しています。いろいろ議論できると思いますが、本書「第3章条例の実効性確保手法」を頼りに、簡潔に記事を書いておこうと思います。 まず、北村説は、自主条例を念頭に、条例目的の実現のために規定される手法全体を「行政の実効性確保手法」とされ、次の4段階に分類されています。 1 条例が直接求める内容 2 その求め方 3 求める方向に意思決定をさせる方法 4 そのように意思決定がされなかった場合の対応 1は、主に市民・事業者に対して、所定の対応を求めるもので、次の4つを典型的なものとされています。 @行政のチェックを受けること・・・所定事項の行政への提出、何らかの基準に基づく行政の判断 A行政以外との関係で所定の手続きをとること・・・周辺住民への説明会など B基準を守ること・・・建築物の高さ、緑地面積などの基準にしたがうこと C所定のことをしないこと・・・吸殻のポイ捨てをしない、駐輪禁止区域に駐輪しない 2は、1@からCをどのようにして求めるか、ということです。義務化か訓示にとどめるかの2点になります。 3は、対象者全員が自発的に求める方向に意思決定すれば問題ないところ、それはあり得ないため、これを確保するための仕組みです。 @誘導措置と制裁措置 補助金支給・低利融資、表彰、専門家派遣などが誘導措置。違反事実の好評、過料、刑罰が制裁措置であることは当然です。 ただ、条例に罰則が規定されていても、その適用事例というものが極めて限られているのが実態であり、「張子の虎」であることは広く知られています。 A調整措置 男女共同参画条例における苦情処理機関など 4については、訓示規定の場合、そのような意思決定をしなかった場合、それを法的に変更させるkとはできません。義務規定の場合は、義務の不履行が法的非難に値するため、制裁措置、違反是正措置などを規定できます。もっとも、宝塚市パチンコ店規制条例に関する最高裁判例は、自治体が提起する命令履行のための民事訴訟は、裁判所法3条1項の「法律上の争訟」ではないと判断したため、不作為・代替的作為義務を命じたりする場合は、違反に対して刑罰や過料をあわせて規定しなければならないわけです。 実効性確保の体制は、団塊世代の退職と行革による組織の縮小統合が進んでいる自治体では、かなり深刻な問題ではないかと思っています。少数精鋭の組織などと言っている自治体もありますが、少数であっても精鋭とは限らないわけです。条例の実効性確保手法としてのマンパワーをどう工夫するのか、もっと掘り下げた議論があってもいいと思います。
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北村喜宣著『行政法の実効性確保』(有斐閣)
政策法務論、条例論の中で、脚光を浴びている重要テーマの一つについて、行政法学・環境法学から精力的に研究されてきた北村喜宣先生の現時点での到達点です。 政策法務では、一般に、先駆的な条例の制定について議論が偏りがちですが、既存条例の執行が本当に実施できているのか、既存条例の趣旨目的が実現できているのかということに重要性があります。条例制定よりも条例執行の難しさは、実感できるところです。本書は、環境法分野における条例の実効性確保について、自治体現場の実情にも相当踏み込んで、詳細に論じられている労作です。
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