福祉事務所職員たちの憂鬱 この土日、A市福祉事務所職員4人と「合宿研究会」をしてきました。いつの頃から、「A市の福祉を考える会」というネーミングが定着しています。以前は、「キャンプ同好会」だったんですが・・・
車で2時間余りの山あいのキャンプ場には午後2時頃到着。メンバーの1人であるM君が持参したタープを張った後、各自持参したテントを組み立て、おもむろに四方山話が始まりました。参加者5名中4名は私と同期ですが、1人は2年目の新鋭。よくもまぁ、こんな「研究会」に参加したものです。会話の一部を紹介しましょうか。 私:Hよ、福祉事務所の仕事はどう? H君:ふん、面白いわけないだろ!毎日、どうしようもない連中を相手にするんだからな。心の中で、お前ら、早く死ねと祈っているさ I君:あぁ、それは大事なことだね。祈りは通じることもある。ともかく腹が立つこと多いからな。 私:お前は、よくケースから「死ねと言うのか」とののしられるらしいな I君:しょっちゅうだ。だから「死ねなんて言っていない。私が死ねと言ったら、あなたは死ぬんですか?死なないでしょ?死ぬかどうかを決めるのはあなた自身です」って言ってやるのさ。 私:ははは、面白いな I君:それで、大抵は黙ってしまいやがる Y君:ところで、福祉事務所にいるのがイヤだ嫌だと言っていたN君は、4月に異動になったのはいいけど、保健所の精神保健相談員だったもんな 私:え?あいつが精神保健相談員?無茶苦茶な人事異動するなぁ・・・ Y君:結局、下層市民相手には、職員も最低レベルのヤツで十分だという考えがあるんだろう 私:Y、お前、管理職だったら、そういう雰囲気は分かるだろう? Y君:あぁ、俺たちの仕事は、そういう位置づけだ。管理職は連絡網があって、深夜に何か発生すれば、呼び出しを受けることもある X君:あ、夜中に生保受給者が暴れているとか、死んだとか・・・ Y君:X君は、まだ2年目だから余り分からないだろうけど、実際にそういうことが結構ある 私:そういう地味な仕事をしていても、役所ではまったく評価をしてもらえないというのが問題だと言いたいんだろ? Y君:そう。何も評価してもらえない。モチベーションを維持するのが難しい X君:やっぱり、福祉事務所って、ダメなんですか・・・ I君:当たり前だ。こんなところにいつまでもいてはいけない。 X君:どうやったらいいんでしょうか・・・ 私:役所は、ゴマすりが出世しやすい。上司から全く同じ仕事を命令されて、君とHがまったく同じ成果物を提出したとしよう。本来、評価は同等になるべきだが、命令されたとき、君が素直に「はい、頑張ります」と返答したら、「勝ち」になる。Hは、「またですかぁ」と反抗するからな(一同爆笑) Y君:仕事ができるから出世するという法則性はない。X君を興ざめさせてしまうようだが、これが実態だ。だから、出世したければ、まず第一にゴマすり王子になるしかない。 私:まぁ、ゴマすり王子になれば必ず出世できるわけでもないけどな 私:ところで、最近、何か変わったことはなかったのか? H君:先週、面接相談室で、ケースが暴力行為をした。不正受給したから生活保護を打ち切る話をしていたら、手を出してきた。 私:おぉ、久しぶりに暴力事件か。緊急連絡システムが役立ったということか Y君:あぁ、初めて役立ったな H君:職員たちがいっせいに、相手を取り囲んだ。なかなか迫力があったな 私:それで、警察を呼んで、現行犯逮捕か? H君:警察が到着する前に、帰りやがった I君:あ、そうだったのか?機動隊とか出てきて、銃殺刑にでもすればいいんだけどな Y君:そんなことあるわけないだろ H君:だけど、不正受給をしたまま、生活保護を続けろとしゃぁしゃぁと言ってくるクソ野郎だ。感情論としては、そう思うな Y君:やっぱり、警察が来るまでとどめておいて、手錠をはめるところを周囲の連中に見せつけないと、効果がない X君:警察沙汰は多いんですか? 私:そんなにしょっちゅうあるわけじゃないけどね。とにかく治安が悪いから。警察とはいつも連携している。福祉事務所の中に駐在所を置くべきだと思っていた X君:ははは・・・ Y君:警察OBはいらない。いるのは現役警察官だな。 夜はバーベキューをしながら、深夜までこんな話で盛り上がりました。
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埼玉県の生活保護不正受給事件
またしても生活保護の事件です。毎日新聞27日付記事からです。 生活保護の中で、交通費の支給というのは、狙い目なんでしょうか。告発されたのは暴力団員のようですが、こういう不正をしているのは暴力団員だけだというのは誤りであることは付け加えておかねばなりません。 確か、埼玉県の生活保護行政は、積極型であったはずです。関係者の中には、「希望のさいたま方式」と唱えている人もいるようですが、要するに入りやすく自立しやすく運営するというくらいの意味でしょうか。しかし、今の生活保護制度で経済的自立を実現するのは、奇跡を起こせと言うのと同じくらい難しいはずです。積極型は、結局、甘い対応に傾いてしまうため、こういう輩が跳梁跋扈することになるのです。 生活保護の不正受給については、福祉関係者たちから、不正は全体のごくわずかで、大きく問題視すべきではないという類の主張がしばしばなされます。しかし、本当にごくわずかなのかは、極めて疑わしいのです。生活保護の不正は、受給者本人と行政が共に隠蔽することが多く、表向きの数字で出されるのはごく一部だと理解しています。その原因として、生活保護法が不正に甘い法的構造を有しているからで、それにかこつけている者が多いということです。福祉関係者たちは、おそらく、こうした実態を熟知しているからこそ、たまたま不正を摘発された生保受給者たちを「運が悪かった」くらいの感覚でかばおうとしているのではないかと、疑っています。この事件でも、金額が1000万円単位ということで、警察が動いているようですが、それ以下の単位での不正はとても数え切れないくらい存在するはずです。 悪銭身につかず、というのは、こうした認識をも踏まえたものです。
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生活保護老齢加算廃止は合法・合憲の当然判決
読売新聞26日付記事からです。 やっと一審判決が出されました。記憶では、平成17年4月ごろに、最初の提訴が京都地裁であったはずです。東京地裁での訴訟がいつ提訴されたのかは知りませんでしたが、他の裁判所もこれで同様の判決を出すことになるでしょう。やっぱり、何でも東京地裁なんでしょうねぇ。 判決の詳細を読んでいないので、十分正確なことは言えませんが、生活保護に「加算」という概念があることに、強い抵抗感を持っていました。その代表が老齢加算で、60年代に栄養の吸収がいい食事をするためなどを理由に導入されたようですが、当時はともかく、その後、21世紀になってからも漫然と存続させていたことが問題で、むしろ廃止は遅すぎたくらいだと思っています。生活扶助で月額75000円くらいでしょうかね、支給額は。それに住宅扶助として家賃も出る。医療費・介護保険はもちろん無料、おまけに滝川市で問題になった通院交通費も支給されるし、例えば、メガネの購入なども要件を具備すれば支給される。まさに至れり尽くせりの制度であることを、納税者はもっと知っておくべきです。 そのうえで、老齢加算が廃止されたことで生存権が侵害されるという主張自体、荒唐無稽で、到底支持できません。現実に、老齢加算が廃止されたとしても、その弊害は、スーパー銭湯にいけなくなった、高級霜降り牛肉が食べられなくなったというくらいのもので、それくらいは生活保護を受けている以上、ガマンするのが当然です。社会参加ができなくなったというのも、一種の作り話で、福祉団体関係者には、お葬式に香典を出せないから参列できないという、おかしな主張をする人もいたようです。この話は、香典を出さないなら参列はしないでくれという遺族がいるということを前提にしているわけで、そんな非常識な人が果たしているのか、亡くなった方や遺族に対して失礼千万な話です。 老齢加算廃止が生存権を侵害していない証拠として、何より、原告たち以外の圧倒的多数の高齢の生保受給者たちが相次いで死亡しているわけでもなく、元気で過ごされており、そもそも裁判などしていないわけです。つまり、「最低生活」は十二分に保障されており、生存権侵害というのは、生活保護予算を負担している納税者に対する言いがかりではないかとさえ思ってしまうのです。東京地裁の裁判官は、原告たちの言い分に辟易していたのではないでしょうか。 全国8箇所で類似訴訟がなされているようですが、原告として名を連ねている生保受給者たちが、果たして全員、本当に訴訟をする意図を持っているのかも疑問を持っています。実際、ある福祉事務所の親しい職員から、自分が担当している受給者で、生活保護団体から言われて署名している人もいるという話を聞かされました。 生存権訴訟と大それたネーミングをつけて、訴訟をしているようですが、私は以前から「生存権濫用訴訟」ではないかと思っていました。原告たちは上訴するでしょうが、高裁、最高裁とも、正常な判決を出してくれるものと確信しています。 それにしても、今の生活保護は、悪銭身につかず、という言葉があてはまっているように思えてなりません。
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死刑執行と「死に神」
22日付毎日新聞記事からです。私は朝日新聞を読み始めて、たぶん、30年くらいになると思います。中学の頃に、「天声人語」が国語の勉強にいいと言われたのがきっかけです。「硬い文章を読み、要点をまとめる」「難しい語句を理解する」という国語の勉強には役立ったと思います。小学生のときから落ちこぼれ同然でしたが、国語の成績だけは、いつも安定していましたから。 問題となったコラム「素粒子」も読んでいました。「あぁ、これは何か問題になるだろうな」と思ったら、案の定でした。 昨日の夕刊の「素粒子」では、「死刑執行の多さをチクリと刺したつもり」と「釈明」されていましたが、この認識が基本的に誤っていると思っています。死刑執行が多いのではなく、死刑不執行が多いだけです。鳩山法相は、職責を全うしているだけであり、死刑執行を行わない法相こそ職務怠慢なのです。本来、判決確定から6ヶ月以内に刑は執行されるのが、法治国として当然なわけです。 死刑廃止論者たちは、死刑制度が廃止されれば、既存の死刑確定囚の死刑執行も免除せよと主張すると思いますが、これは断じて認めるわけにはいきません。死刑廃止論者たちが、死刑執行に対して抗議する理屈が私には到底理解できないのです。 残虐な犯罪を行ったから死刑判決を受け、確定したわけで、そんな残虐な犯罪者を血税を使って生かせておこうとする朝日新聞こそ、犯罪被害者にとって「死に神」ではないでしょうか。格差社会、社会的弱者を都合の良い口実にして、犯罪行為を容認するような意見を主張する福祉や人権を旗印にする団体関係者もいるようですが、言語道断で、こんなことだから死刑廃止論への支持が広まらないのです。
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宮崎県知事、愛のムチ条例を考える
読売新聞18日付記事からです。 政策法務の推進は、東国原知事も賛同いただけるものと思いますが、「愛のムチ条例」ができるのかどうかは、いろいろ検討しなければいけないでしょう。そういう条例が可能ならば、私はあってもいいのではないかと思います。 学校教育法11条では体罰禁止が定められており、ある時期以後、主として保護者たちからこの規定を根拠に、教師による体罰を攻撃することが常態化し、今はさらにそれが奇異に変化し、平気でルール違反をする親など当たり前で、モンスターペアレントと呼ばれる親たちが激増しているわけです。 私の中学生時代は、今なら教師が懲戒処分を受けているかもしれないような体罰など、日常茶飯事だったと思います。中学時代、私の学年の前後はかなり荒れていたようですから、生徒指導は厳しかったです。それでも先生たちから叱られても、どこか納得していたのは、真剣に向き合ってくれていたからで、同級生の仲間たちもそれは同じでした。今も中学時代というのは、なぜかいい思い出ばかりが残っています。中3のときの担任の先生とは、今も年賀状のやり取りなど、交流があります。私にとっての、金八先生でしょうかね。もっとも、女の先生ですが。 「愛のムチ条例」の制定は、賛否あると思いますが、問題提起としていろいろ議論がでれば、良いのではないかと期待しています。
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新自由主義改革と政策法務(4) 新自由主義改革について考察する場合に、必ず出くわすのが格差の問題です。すでに紹介したデヴィッド・ハーヴェイも新自由主義改革には批判的であり、経済成長にそれほど結びついていないことも指摘する一方、貧富の差が拡大していることを取り上げています。そして、私も、貧富の格差が過剰に大きくなることには、警戒を要すると考えつつも、その一方で、昨今の格差社会批判論、あるいはその対策としての社会福祉の拡充論に全面的に与することにも強い抵抗を覚えています。自分の中で抱える、一種の矛盾であり、なかなかすっきりと頭の中がしないという状況が、もう何年も続いています。
福祉における新自由主義改革は、なんといっても介護保険制度でしょう。福祉の市場化・契約化・営利化を推し進める柱となっている制度です。鳴り物入りで開始された介護保険は、案の定、問題山積のようです。 最近、結城康博『介護 現場からの検証』(岩波書店)を読みました。介護現場で発生している諸々の問題を取り上げています。詳しい紹介は省きますが、現場で働く人たちの収入が余りにも低いこと、そのために介護報酬を引き上げるべきだという主張は、納得できます。
もっとも、介護事業経営者が搾取しているという話も絶えませんから、介護報酬引き上げとともに、それが確実に現場の職員の給料として反映されるような仕組みが必要だと思います。また、収入の低さとともに、福祉の仕事の評価が低いという問題もあります。福祉関係の仕事に就いても、毎年20%が辞めていきます。福祉専門学校や大学福祉系学部は定員割れが多いようですし、福祉関係の仕事を希望していても、親が反対して違う分野に就職する人が少なくないようです。 先日、私の職場に、私よりちょうど10歳年下になる男性が訪ねてきてくれました。私が、子どもの頃から過ごし、結婚を機に転居するまで住んでいた家の隣のご家族の長男坊でした。今も家族と過ごしているそうです。もう15年近く会っていませんでしたので、私は最初誰か分からなかったのですが、声をかけられ、ようやく誰かわかり、久しぶりの再会を喜びました。話をしていると、彼も大学を卒業後、定職に就いたにもかかわらず、短期間で退職し、その後は仕事を転々としていたようです。現在は、介護施設の職員として仕事をしているようですが、かなり厳しいようです。 こうしたことから、つい、「福祉の拡充」ということに飛びついてしまうのですが、私はそこでまた止まってしまうのです。マスコミは、秋葉原事件の関係で、派遣労働者の問題をまたしても取り上げており、その実態を伝えようとしています。確かに劣悪な労働条件で働いている人の処遇改善は重要だと思いますが、就職難の時でも、きちんと有名企業や官公庁などに就職している人はいるわけです。不安定雇用の労働者は、その人たちを、単に「運が良かったからだ」という目で見ているのではないかと感じることがしばしばあり、それは余りにも失礼ではないかと思うのです。今夜のニュース番組でインタビューをされていた20代の派遣労働者の男性は、曇った表情で派遣社員の厳しい状況を主張していましたが、では、この人は、そんなことになるまで果たしてどれだけ努力されてきたのかと疑問を持つわけです。テレビを見ながら、「この人は、高校、大学、就職という重要な時期を、どのように過ごされてきたのか?」、「受験生時代、この人は1日、5時間以上勉強したことはあるのか?」「この人は、今の自分の境遇に不満を持っているが、では、果たしてどのような能力、スキルを持っているのか?」「例えば法律学の専門書を1週間程度で読了し、要点を整理できるような能力はあるのか?」「具体的に何かスキルを持っているのか?」と思ってしまったのです。不安定労働者の人たちからは、そんなスキルを身につける機会はなかったと反論されるかもしれませんが、現実に身につけている人は、機会に恵まれていたことを否定しないものの、やはり自己研鑽をしているのです。 こうしたことを考えていると、左翼系団体が喧伝し、マスコミが無造作に呼応する、福祉拡充論には、どうしても抵抗を覚えてしまうのです。
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秋葉原通り魔殺人事件
読売新聞8日付記事からです。平成13年に発生した大阪教育大附属池田小学校事件を思い出します。それ以前にも、通り魔殺人というのは何度もあったと思いますが、6人の死亡とは恐ろしい。ご本人や遺族は悔しい限りでしょう。変わり果てた肉親の姿を見るのは辛いものです。 ところで、最近、「死刑になりたいから人を殺した」という供述をする殺人犯が目立っているように思います。この通り魔も「生活に疲れたから」殺人に走ったということのようですが、あまりにも論理が飛躍しすぎているように思われてなりません。生活に疲れたくらいで人殺しを自己正当化するというのは、明らかに狂っています。自殺が良いことだとは思いませんが、まったく無関係な第三者の命を奪うくらいなら、自分の命は自分で始末してもらいたいものです。貧困は自己責任ではないと主張する人たちがいます。こういう連中は、人殺しも自己責任ではないと主張するのでしょうか。せめて自分の命の始末くらい自己責任で処理すべきではないかと思ってしまいます。 秋葉原といえば休日には多くの人が集まって、賑わっている場所として知られています。この一件でしばらく賑わいが失われるのではないでしょうか。
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最高裁、国籍法違憲判決 マスコミで大きく報じられています。最高裁のHPから判決全文を読むことができます。
国籍法違憲最高裁大法廷判決全文 判旨は、次のとおりです。 1 国籍法3条1項が,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子につき,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した場合に限り日本国籍の取得を認めていることにより国籍の取得に関する区別を生じさせていることは,遅くとも平成17年当時において,憲法14条1項に違反する 2 日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子は,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分を除いた国籍法3条1項所定の国籍取得の要件が満たされるときは,日本国籍を取得する 産経新聞4日付記事から要約すると、最高裁大法廷は、「59年の法改正当時、父母の結婚を要件にしたことに一定の合理性はあった」と判断しつつ、「その後の家族関係の意識の変化などを考慮すれば、父母の結婚で子供と日本との結び付きを判断することは、家族生活の実態に適合しない」と指摘し、「遅くとも原告が国籍取得届を提出した時点で、『父母の結婚』の要件は合理的理由のない差別になっており、違憲だった」と結論付け、生後認知を受けただけで国籍を取得できるとして、原告全員の国籍を認めたわけです。 国籍法については無知同然ですので、論評することはできませんが、最高裁というところは、何か気まぐれに、忘れた頃に、何気なく違憲判決を出すという印象です。憲法施行から60年余りの間で、ようやく8件目の違憲判決ですから、7年に1回くらいの割合でしょうか。 これまでの最高裁の違憲判決は次のとおりです。うち2件は衆議院定数訴訟であり、事情判決をしているのですから、違憲判決としての価値は低いので、正味6件。となると12年に1回の割合になるので、干支1周しないと違憲判決は出さないという内規でもあるんでしょうか。最高裁の違憲判決がマスコミで大々的に報じられなくなる時代というのは、来ないようです。 刑法の尊属殺人罪規定 (昭和48年) 薬事法の薬局距離制限規定 (50年) 衆院議員定数不均衡訴訟 (51年) 衆院議員定数不均衡訴訟 (60年) 森林法の共有林分割制限規定 (62年) 郵便法の賠償責任制限規定 (平成14年) 在外邦人の選挙権制限規定 (17年)
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障害者自立支援法は憲法違反か
4日付朝日新聞記事からの抜粋です。 障害者自立支援法に基づく負担は、かなり緩和されているはずですが、それでもまだ不満があるということでしょうか。社会保障法制に関して、またしてもおかしな動きが出るようで、腹立たしい限りです。こういう左派系の集団というのは、福祉はタダ、貰えるものはもらうが、負担はしないという考えから脱却できないのでしょう。必死で働いている納税者はたまったものではありません。 福祉の専門家たちは、福祉を論じるときに、欧米福祉先進国の事情と日本の福祉事情を比較して、いかに日本の福祉が遅れているかを強調する傾向にあります。しかし、外国の福祉が、「天から降ってくるカネ」でまかなわれているわけではなく、高い税金を負担したり、あるいは、軍需物資の輸出など、その財政構造が明らかに異なるのです。こうした財政事情を綿密に明らかにしたうえで、福祉制度について比較しなければ、制度の詳細を知らない市民に対する騙まし討ち同然です。日本人は、しばしば、福祉に関わる人たちは皆「善人」だと錯覚してしまいますが、こうした手法で知らず知らずの間に誤った知識を植えつけられている可能性があり、悪く言えば、一種の「催眠商法」のようなものではないかと考えています。 消費税増税論議の際に、かならず社会保障財源に充当するためという説明を付け加えていますが、強い嫌悪感を持ちます。日本のマスコミも識者も、そして市民も、「福祉」というものに過剰な妄想を抱いているのです。福祉関係者が著した福祉関係書籍には、どうしても福祉というものを、美談を織り交ぜて表現しようとするものが目立ちます。しかし、「福祉」は、決して「ファンタジー」ではありません。「相互扶助」などと言いますが、助けられる者はいつまで経っても助けられっぱなし、助ける側はいつまで経っても助けるばかりで、しかも、それほど感謝されるわけでもないというのが、現実です。 この団体も、まさか障害者自立支援法が違憲であると裁判所が認めると本気で思っているわけではないでしょう。国への圧力をかける手段として訴訟を行うことは否定しませんが、しかし、そもそも、記事にある「免除申請」を行う障害者の人たちが、本当に、訴訟をしてでも争う意思があるのか、疑問に思います。なぜなら、生活保護の老齢加算減額訴訟が係属していますが、原告の中には、団体の人に言われるがまま署名、捺印した人も少なくないからです。やはり、福祉という名の「催眠商法」ということになるのです。こういう実態を多少なりとも知る者としては、こうした動きには到底賛同できませんし、これで事態が改善するとは思えません。
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地方議会法制のあり方(2) 2週間ほど前に参加させていただいた、政策法務に関する研究会で話題になったのが、地方自治法96条1項10号です。次のような規定になっています。
法律若しくはこれに基づく政令又は条例に特別の定めがある場合をのぞくほか、権利を放棄すること 問題になったのは、住民訴訟で自治体が敗訴し、住民が勝訴した場合などに、議会が損害賠償請求権の放棄を議決すれば、首長や職員は損害賠償責任を免れることになり、ひいては住民訴訟が骨抜きになるのではないかということです。もちろん、研究会に参加された行政法学者や弁護士など専門家の方たちも、このような主張には批判的でしたが、ではどういう法的構成で権利放棄の議決を無効化できるのかについて掘り下げた議論まではいたりませんでした。また、一般的な地方自治法の解説書にも、この論点について触れているものは見当たらないということです。 後日になって研究会の幹事をされている方からご教示いただいたのが、阿部泰隆教授(中央大学、弁護士)の「地方議会による賠償請求権の放棄の効力」(判例時報1955号 07年3月21日発行)という論文です。阿部教授の学説をご存知の方なら想像がつくと思いますが、もちろん、議会の権利放棄の議決無効説に立脚されています。 判例は、権利放棄有効が主流になりつつあります。この問題が初めて訴訟になったと思われるのが、(千葉県)鋸南町事件です。納税貯蓄組合に対して納税協力の見返りとして税額の2%を一律に補助金として交付してきたことが納税貯蓄法違反であるとして、損害賠償を町長に求める住民訴訟の係属中に、議会が町長に対して損害賠償請求権の放棄議決をしたことが問題になったのです。一審の千葉地裁は放棄無効としたのですが、二審で、東京高裁が有効としました(平成12年2月26日判決)。 このほか、新潟県安塚町(合併で現在は上越市)事件に関する一審(新潟地判平成15年7月17日)、控訴審(東京高判平成16年4月8日)とも放棄有効とされ、最高裁は上告棄却、上告不受理で住民敗訴が確定しています(平成16年11月19日第二小法廷決定) 山梨県玉穂町(合併で現在は中央市)事件も、二審の東京高裁は有効としています(平成18年7月20日)(最高裁に上告中)。 阿部教授は、放棄無効説に立脚し、その法的構成として、地方自治法138条の2、148条を根拠に、首長は自治体の利益を阻害するような行動は許されず、また、議会についてはこうした規定はないものの、住民の代表である以上同じであると主張しています。つまり、代理人たる議会・首長の誠実処理・善管注意義務として構成されているようです。また、首長が自分の負う債務を放棄させるのは、実質的には民法の双方代理であり、違法だとも主張されています。さらに、議会が権利放棄議決を行い、それに対して住民訴訟をする、原告住民が勝訴すれば、また放棄議決と、エンドレスになるようなことを自治法が予定しているはずがないとも主張されています。 阿部説をかなり大雑把にまとめてみましたが、地方自治法の解釈に民法の考え方を持ち込まれているというのは、これまで「民法帝国主義」などと批判されてきた阿部先生らしからぬ(?)構成であり、そのせいか、なんとなく脆弱なような気がしてなりません。 最高裁がどのような判断を出すかは分かりませんが、阿部説のように地方自治法の全体構造から考えるならば、もっと単純に、住民訴訟という制度をわざわざ導入していることをもっと重視するような法的構成でもよいように思います。議会は議決権として権利放棄を認めているものの、自治法が住民に住民監査、住民訴訟というシステムを提供している以上、その枠組みで生じた問題は住民監査、住民訴訟で解決しなければならないものであり、議会は関与できないという解釈はできないのでしょうか。ちょっと荒っぽすぎますか・・・
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