都職員、残業代で提訴
産経新聞29日付記事からです。 自治体職員が残業代を求めて提訴する例というのは、とても珍しいと思うのですが、どうでしょうか。最近、名ばかり管理職が社会問題になっていますが、恒常的な無給の時間外勤務というのは、民間企業だけではなく、国も自治体も共通のようです。 原告の女性は、どのような証拠を有されているのか分かりませんが、確実なのは、「超過勤務命令簿」に時間外勤務の記録があり、所属長が押印しているものになるでしょう。もっとも、そんなものがあれば、無給の時間外勤務はバレバレでしょうから、たぶん、存在しないと思います。 最近、いろいろ話を聞いたところ、どこの民間企業も社員の労働時間管理というのは、かなりデタラメなようです。過労死とまではいかなくとも、健康被害を受けるような事例は星の数ほどあるようです。1日8時間労働の原則に敵意を剥き出しにする企業経営者は多いようで、確か、日本電産という会社の社長が、休みたければやめろと言ったことが問題視されました。多くの経営者はそういう考えなんでしょうね。資源のない日本が発展しようとすれば、勤労しかないわけですから、分からないわけではありません。しかし、それも公正なルールがあってのことではないでしょうか。 民間ならサービス残業は当たり前だという声が多いようですが、そういうことを主張されている民間企業の従業員の方たちは、それが「良いこと」と思っておられるのかどうか。自分たちがやっていることが良いことなのだから、他の職種の人も見習えというのは、結局、法令順守意識のない経営者が高笑いするだけではないかと思うわけです。 さて、都職員の女性は、巨大組織「東京都」に勝負を挑んだわけですが、勝算はあるのでしょうか。都のことですから、いろいろ策を弄してくるのではないかと思います。
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新自由主義改革と政策法務(3) 新自由主義=ネオリベラリズムについて、歴史的、そして地理的、理論的に論じているのが、デビッド・ハーヴェイです。ハーヴェイはニューヨーク市立大学の人類学科教授で、専攻は経済地理学。2007年3月に出版された『新自由主義』(作品社)は、翻訳書であり、私にはかなり難解で、どこまで理解しているのか、はなはだ心もとないところですが、新自由主義を学ぶ場合の必読文献だと思っています。
同様にハーヴェイの翻訳書である『ネオリベラリズムとは何か』(青土社)も昨年出版されています。こちらはコンパクトな分量ですので、少しは読みやすいです。
さて、新自由主義、あるいは、新自由主義国家というものは、どのようなものなのか、ハーヴェイは鋭く切り込んでいます。『ネオリベラリズムとは何か』28頁から34頁で、新自由主義と政策法務を考える場合に、とても重要な事項を網羅しており、これを引用しつつ、私なりに要約してみると、次のようになります。 1 基本的使命は、「ビジネスに好適な環境」を作り出し雇用や社会的福祉への影響は二の次にして、資本蓄積の条件を最適化すること、これに尽きる 2 企業利益の全側面を支援し、促進するよう取り計らうが、その根拠は、こうした施策が成長と革新をうながし、長い目で見れば貧困根絶、生活水準向上の唯一の方策であるとしている 3 資本蓄積を制限しようとするあらゆる形態の社会的連帯に敵対し、ときにはあからさまな弾圧を行う。 社会のセーフティネットの切り詰め・・・①社会福祉事業からの撤退、医療、公教育、②公益事業などにおける国家の役割の縮小 4 3との関係で、公営と民営の協働がうながされるが、あらゆるリスクは公共部門が担い、利益は私企業が吸い上げる 5 とくに金融機関に甘い。金融システムの権威と住民の福祉が相対立する場合には、迷うことなく前者を選ぶ 6 徹頭徹尾、反民主主義的である。一部エリートによる支配が好まれ、上からの命令と司法判断による政府が最良のものとされる。 議会による決定プロセスは嫌われる。民主主義とは愚民支配と同じで、資本蓄積の障害となった元凶である。よりよい政府の形態は、公私の提携であり、国家と企業の利害が緊密に連携し、協同し、規制される側が規制ルールを作り、公的な決定過程はますます不透明になる。 7 個人の自由と責任を強調する。社会で成功するのも失敗するのも、個人の資質か欠陥によるのであって、システムのせいではない。つまり、資本主義につきものの階級的格差などは考慮されない。 8 主要な行動様式が、選挙によって選ばれたのではない様々な権利要求集団によって規定されている。NGOは成長し、数も増えたが、それは反対勢力が国家装置の外部で活動しているものである。市民社会と言う国家とは別の存在が対抗的政治勢力と社会変革の主力であるというのは幻覚である。 日本での諸々の問題が、新自由主義国家の特徴として集約されていることが、かなり鮮明になると思います。
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生活保護の交通費、原則不支給が当たり前
読売新聞25日付記事の抜粋です。 厚労省保護課は、できれば50年前に「バス代や電車代は、生活保護費として支給している生活費の中で賄え」と言うべきだったのです。何年もの間、無造作に公金支給をしてきた後に、突然、適正化をせよ言えば反発が生じるのは当たり前です。厚労省の対応は、余りにも場当たり的であり、こういうところにも公金感覚が麻痺していることが理解できます。 この記事で、注目すべきことは、生活保護の移送費支給について、「これまでと変化はない」と4県が回答したことです。どの県かは確認できませんが、それなりに厳正な運用をしてきたということでしょうか。一方で、東京都などは同省が明確な基準を示すまで従来通り対応するとは、無責任極まりない。本来、生活費以外に別に交通費は支給しないのが大原則。例外として支給する以上、その必要性を徹底的に審査したうえで行うべきもののはずです。高額の交通費を要してでも行かなければならない病院があるならば、その病院でなければ治療できないことを証明させるなど、いくらでも対応策はあります。当然にすべき対応をしている自治体と、怠っている自治体があるということは、重大な問題です。 それにしても、朝日新聞も読売新聞も情けない。生活保護は「最低生活費を支給するもの」、社会的弱者は「善人」という前提で凝り固まっているから、こういう記事しか書けないのです。大マスコミ会社の社員たちは、日本の労働者でも最も高額のサラリーをもらっており、明らかに勝ち組です。その人たちの感覚でいう「最低生活費」と、一般庶民の「最低生活費」には、大きな差があるでしょう。だから生活保護の記事を書くと、こんなおかしなものばかりになるのでしょうか。
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生活保護者は、賠償金も収入として認めるべき
朝日新聞24日付記事からです。 生活保護を受けている以上、「収入申告」「収入認定」は当然で、朝日新聞は相変わらずご都合主義の場当たり記事を書いています。生活保護を受けている以上、あくまで「最低生活費」を基準に考えなければならないので、訴訟に勝って賠償金を得たからといって、それを例外扱いすることは許されるべきではないのです。かつて、オウム真理教に対する損害賠償で、勝訴した生活保護者について、収入認定しなかった実例があるそうですが、そもそもそれが誤りであり、それを先例にして、虫のいい解釈を行うことを認めるべきではなかったのです。 記事では、学者が「嫌がらせだ」とコメントしていますが、納税者を敵視する、とんでもない妄言で、強い憤りを覚えます。それに、被害女性の代理人は、「女性の自立や更生に必要な費用とみなすべきだ」とこれまた身勝手極まりない法外な主張をしているのにも、あきれ果てます。24万円の賠償金が、自立にどう役立ち、どう更生に役立つのか、どうやって証明するのですか。せいぜい、ぜいたく品の購入か遊興費で終わりでしょう。そんなことは自立更生してからのことです。 生活保護を受けている以上、あくまで基準どおりの最低生活費で生活することが大原則。例外は極力認めるべきではないのです。都合の良いときだけ感情論や嫌がらせ論を記事にする朝日新聞は、マスコミの使命である、社会公器としての存在を放棄しているように思います。市民に誤解を与える記事を掲載すべきではないのです。
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地方議会法制のあり方(1) 地方議会に対する市民の眼は厳しいです。個人的によく存じ上げている地方議会議員さんたちは、みな、真面目で、勉強熱心で、市民代表としてふさわしい方ばかりなのですが、早い話、そういう人ではない議員さんが目立っているということでしょうか。
そんな中、今年3月に福島県矢祭町議会が、議員報酬について日当制を導入したことが注目されています。矢祭町議会の議員報酬条例は、「議員が、定例会、臨時会、委員会など議会の正規の会議に出席した場合」「議長が認める町が主催、共催する行事等に出席した場合」「その他議会の活動として議長が認めた場合」に、日当として3万円を支給すると定めたのです。矢祭町は平成の大合併にも迎合せず、合併しない宣言をしたことでも有名ですが、独立独歩で自治体経営を進めるには、ともかくコスト削減を行わないといけないのが現実です。 矢祭町議会の開催日数がどれほどなのかは詳しく存じ上げませんが、シンクタンクである「構想日本」が4月23日に開催したフォーラム「地方議会は必要か」で配布された資料では、平成18年度における町村議会の平均開催日数は38日にすぎません。それに要する議員報酬・政務調査費等は、1人平均400万円という数字を見ると、市民感情からは矢祭町議会に拍手をする人が多いのはうなずけます。 構想日本のHP フォーラム「地方議会は必要か」資料 それでも、矢祭町議会方式が一般化することについては、慎重な姿勢を持ちたいと思っています。なぜなら、これでは地方議会議員の仕事は会議に出席することだと矮小化される可能性があります。現実には、議員の活動範囲は、いい意味でも悪い意味でも、多様かつ広範です。その活動のあり方が無駄だと批判するのは簡単ですが、本当にそれで地方自治における民主制は発展するのか、疑問を持つべきだと思っています。 確かに、自治体によっては、ひどい議会も存在しています。一般には、首長と議会が癒着していて、首長提案の議案を、ろくに議論もしないまま議決しているなどと批判されています。では、首長と議会が対立していれば、本当に議論ができるのかといえば、そうとは限らないのです。首長提案の条例や予算を一部修正したり、Aという議案には賛成していて、そのA議案に必要なB議案は否決するというわけのわからない議決権の行使をしている例もあるのです。さらには、議員自身が、どの議案に賛成し、どの議案に反対するのか、明確に理解していないため、議会事務局職員が、事前に、議員に根回ししておかないと、議決すべき議案を否決してしまうという失態をやらかしかねないという、脳死同然の議会も存在しています。しかも、こうした信じ難い議会の実体は、小規模自治体ではなく、かなり大規模な自治体で見受けられるのです。自治体の(人口)規模の大小は、自治体職員や議員の資質能力の高低とはそれほど関係しないという事実を知っておく必要があります。 矢祭町議会の取り組みは、一つの事例として興味深いところではありますが、現実に日当3万円では、議員は生活できません。そうなると他に仕事を持っている人が議員になるしかなく、議会の開催が平日昼間であることを継続するならば、自営業か農業従事者など限られた人しか議員になれないということになります。矢祭町議会が、今後、平日夜間議会、土日議会などを開催するようになるのか、議員たちが、町長や執行部と互角に議論できるだけの能力向上しているのかということが重要で、議員報酬を低く設定したことだけを賞賛する論調では、真剣に地方議会、地方自治を考えることにはならないと思います。
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年金改革の財政試算
日本経済新聞19日付け記事からです。 社会保障国民会議というのは、福田総理の肝いりで、閣議決定により、今年の1月から始まったものです。委員の名簿を見ると、一応、バランスを考えて任命しているのかなという印象です。 社会保障国民会議名簿 年金財源について全額税方式にすべきだという主張を、企業経営者がしていることには疑いの目を向けておく必要があると思います。年金財源が全額税方式になれば、現在、年金保険料の半分は企業が負担しているため、それが免れるという大きな利益になるわけです。年金保険料の負担を免れることで、企業にどれくらいの利益がもたらされるのか。 全額税方式にした場合、これまで真面目に保険料を支払ってきた人と、保険料を支払ってこなかった人の不公平という問題は見逃せません。委員からもこうした意見がだされたようです。試算では、過去の納付に関係なく一律給付する場合、保険料未納期間に応じて減額する場合、過去の保険料納付相当分を加算する場合の3パターンも示されています。いずれも消費税増税は避けられないという結論を示しています。保険料未納者には減額、納付者には増額の組み合わせも考えるべきではないかと思っています。真面目に支払えばたくさん受け取れるが、納めていない以上納めていた人よりは減額され、その差も少なからずという具合です。 最低生活年金として、7万円という数字が出されていますが、この金額の根拠は何でしょうか。よく分かりません。このこととの関係で、保険料を未納し続け、資産も何も作らないまま高齢者となり、生活保護となればどうなるかということも重要です。生活保護は、高齢者の場合、医療費も含めると月額20万円程度ではないでしょうか。これでは保険料を納付しない方がお得ですよと国がPRしているようなものです。真面目に負担に応じてきた人と、理由はともあれ、それをしてこなかった人が、場合によっては後者が利するという仕組みを存続させることは断じて認めるわけにはいきません。年金制度を考える場合、生活保護との著しい不均衡を野ざらしにすることには到底納得できないわけです。 こうした試算は国民に年金問題を具体的に示すことになり、好意的に理解できる反面、どうしても何か別の魂胆があるのではないかと思います。そもそも、年金財政が、今まで、まともに運営していればどれだけの財源が確保されていたはずなのに、それが様々な無駄遣いや未納でどれだけしかないのか、その差額はどうするのか、埋蔵金などと言われている特別会計はどう扱うのか、などの諸点について、まだ、何も示そうとしないようです。 社会保障国民会議が公表した財政試算資料
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ワーキングプアは地域社会の問題でもある 少し景気が回復し、あるいは、団塊の世代が大量退職することもあって、大卒、高卒とも就職内定率は96年の調査以後最高になっていると報道されていました。内定率は97%前後でしょうか。しかし、10年前に高校、大学を卒業した、今は30歳前後の人たちの就職難は、まったく未解決のままです。採用する側は、10年間、フリーターで何とか生活をし続け、ほとんどスキルも磨かず、社会経験も積んでいない人をいきなり正規社員として雇用することには、かなり抵抗感があるのでしょう。
ではなぜ「抵抗感」があるのか。 採用する企業は、新卒採用がベストという固定観念がある。社会経験を持たない純粋無垢な学生を採用し、企業が要する人材として、ゼロから育成していくという考え方がある。10年間もニート、フリーターとして漂流していた人を採用しても、果たして企業が描く人材として活躍してもらえるか、偏頗で半端な信念を持ってしまい、左翼団体の支援を受けているかもしれない人間はとても怖くて採用できないというのがホンネなのでしょう。今年のメーデーでも、単なる労働条件の向上だけでなく、ニートやフリーター、あるいは派遣社員の人たちがデモ行進する様子が報道されていましたが、ああいった姿を見た企業経営者は、ますます採用に及び腰になると思います。 少子化が進行し、労働力不足は避けることはできないと言われていますが、企業が、その戦略として、新卒社員を採用するととともに、長年、企業戦士として勤めてきたベテランを再雇用することで、経営を進めるような図面を描いているならば、「失われた10年」の間に発生したニート、フリーターに対する雇用の機会は、今後も期待することはできないのではないかと、どうしても悲観的な見方をしてしまいます。 しかし、それは単に個人の問題にとどまらず、地域での様々な問題に結びつきます。なんとも言えない不安な気持ち、活気のない地域社会が発生することを嬉々として享受する人はいないでしょう。希望を失った人が増えれば増えるほど、地域の秩序も脅かされます。生活保護を受けたとしても、それは「最低生活の提供」にすぎず、「将来の希望」を提供してくれるわけではないのです。
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自治体コンプライアンス(2) 裏金と不正経理 自治体の裏金問題はいまだにくすぶり続けています。法的にも倫理的にもこうしたことが許されるはずがないにもかかわらず、その悪の連鎖を断ち切れない理由は何か。公務員に法令順守意識も倫理意識もまったくないと批判することは簡単ですが、そうなってしまう背景事情、組織風土を無視しては、根本的な改革にはなりません。
まず、裏金とは何かです。碓井光明『政府経費法精義』(信山社)では、この問題について切り込んでいます。
まず、経費支出の事実が全くないのに経費支出があったように処理する行為は、架空経費処理であるとされています。そして、裏金は、形式上正当な目的の経費性のある支出としての経理処理をしながら、その支出の実体を欠き、ある組織の隠された資金として保管され、別の目的又は同一目的ではあるが、後年度に使用される資金のことをいうと定義されています。裏金は組織的に造成されること、法的帰属や公金なのかどうかが不明確なこと、仮に政府の帰属から脱したとしても誰の資金なのか認定が困難、といった点に特徴があると指摘されています。 碓井先生も会計法規の制約を受けない資金を造成し、保有したいという欲求は根強く、その中身は、幹部交代時の餞別、歓送迎会の飲食費等、残業時の夜食代、大きな仕事の終了時の慰労の費用、外部者の接待費用などを例に出されています。そして、裏金の存在が明らかになるのは、氷山の一角で、裏金造成の代表的な方法は、カラ出張による現金化、取引先に架空の購入代金を預ける「預け」、「書き換え」があるとされています。 裏金と不正の分岐点は、次のように述べられています。不正経理により捻出された資金が組織的な了解の下に使用されることが予定されている場合には、裏金であり、当該資金が組織と切断された個人的な目的に費消される場合には単純な不正(横領)であると。 しかし、裏金であっても、組織的に横領がなされているということに違いはないのであり、こうした分離論は、かえって責任の所在を曖昧にさせることにならないのか、疑問も持ちます。組織と切断された個人の行為なら、横領罪として処罰されるが、組織でやっていたら、公務員法に基づく懲戒処分などでとどまるというのは、法律論としては、手落ちではないかと思います。組織ぐるみでやった場合は、単純に、横領の共犯ではないのかと思います。 また、碓井先生は裏金造成への欲求が強い理由を列挙されていますが、私見は、裏金造成にまい進する最大の理由は、組織が、裏金造成ができる人間を有能な者だと評価するからだと考えています。こうしたマフィアのようなものの考え方が組織内部に今もってこびりついているわけです。違法行為でも、発覚しなければ構わないという意識が強く、法令違反を主張する職員は無能なヤツだとして排除されるシステムが確立されています。全国の自治体首長の多くが、自治体生え抜きか、中央天下りの人間で占められています。在野の有能な人物が首長になったら、一番困るのは内部にいる職員たちです。だから大阪府、大阪市、宮崎県などの職員たちは、さぞかし困っていると思います。 裏金問題は、今後も、何かのきっかけに表面化するのではないでしょうか。特に、市民の目が行き届きにくい、政令市や都道府県には、まだまだ「埋蔵金」があるように思えてなりません。
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政策法務の基礎理論(3) 政策法務の基礎理論として、第一次地方分権改革によって自治体に関する法令のあり方が変化したことを理解しておく必要があります。地方自治法2条11項では、「地方公共団体に関する法令の規定は、地方自治の本旨に基づき、かつ、国と地方公共団体との適切な役割分担を踏まえたものでなければならない」と定められています。これが「立法原則」です。
同条12項は、11項の原則を「解釈・運用」までも同じ考えでしなければならないとしています。これが「解釈・運用原則」です。さらに、同条13項は、法令で自治事務をさせるならば、地域の特性に応じて当該事務を処理することができるよう特に配慮しなければならないとしています。 この立法原則、解釈・運用原則を重視しているのが、北村喜宣教授(上智大学)です。ただ、北村先生も仰るように、多くの自治体職員は、2条16項の「法令に違反して事務処理をしてはならない」に拘泥しすぎていると思われます。法令の解釈能力を磨くことを自治体職員として要求されなかったこと、そのような能力を磨くことは組織の秩序を乱す者という扱いをされかねないという背景事情も大きく影響していると思います。「書いてあることはできるが、書いていないことをするのは違法」という理解は、自治体職員の多くに共有化されているのです。 北村先生は、地方自治法2条11項から13項は、憲法92条の地方自治の本旨を具体化したものと主張されています。そして、分権改革によっても多くの法律は分権前と比べて同じままであり、そうなると、これらに抵触する法律の規定は、違憲無効ということになります。現実には、そういうことは生じていないのですが、政策法務を考える場合に、法令の規定を文言どおり、素直に読んで、そのとおりに盲従していることに対して、異なった角度から法令を読むことの重要性を認識できます。 もっとも、それでも、自治体の法令解釈・運用は、どうしても伝統的・保守的なものになってしまうのです。行政法理論が、この30年間、ほとんど進展していないと、ある有名大学教授から教えてもらいましたが、法治行政の現場にいる自治体職員たちも、その影響を受けていることになるのです。
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続・続・後期高齢者医療制度 政策法務の視点から、高齢者医療確保法に関する問題点は、すでに記事にしています。政府・与党は、この制度が、次期総選挙の最大のネックになるだけに、制度の枠組みは維持しつつも、何とかして対症療法でつぎはぎの改善をしようと躍起のようです。
政府・与党は、運用見直し方針として、新たに保険料を払う必要が出た会社員に扶養されている親ら約200万人に対し行っている今年度の保険料減免措置を延長することや、低所得者への軽減措置創設などが検討されるようです。財源はどうするのですかね。自治体の保険料算定システムも変更しなければいけませんので、これにも費用かかります。類似の問題として、介護保険のシステム変更も多額の経費を要します。だから、3年に1回しか保険料が改定できないと教えられた記憶があります。仮に赤字になれば、借入れ金でまかなうことになるのです。 後期高齢者医療制度に関して、マスコミが取り上げているものとして悪評なのが、終末期相談支援料。これは、医師が、回復の見込みが薄いと判断した75歳以上の患者について、本人の同意を得たうえで終末期の診療方針などを文書などに記録した場合、2000円の診療報酬を受け取るというもの。延命治療の打ち切りを促す仕組みですから、厚労省のしたたかさには相変わらず脱帽します。舛添厚労相は「『遺言を書きなさい』みたいにとられてしまう。高齢の方々の気持ちを痛めた面があるのではないか」と述べたそうですが、厚労省の官僚は、そのつもりで制度化したに決まっています。厚労省の今の最重要課題は、「少子高齢化対策」ではなく、「長寿社会からの脱却」であることは、疑いようがありません。 このほか、報道されているものに、高齢者医療確保法50条2号で、例外的に加入が認められている65~74歳の重度障害者に関し、10道県が事実上の強制加入させていた、障害者の医療費の窓口負担を肩代わりする自治体独自の医療費助成を、後期高齢者医療制度に加入しないと打ち切るというのが、その手法です。もっとも、条文だけを読むと、政令で定める重度障害者について、後期高齢者医療広域連合が認定すれば、後期高齢者医療の被保険者となるのですが、実務は、その認定に際して、被保険者になるかどうかの選択をしてもらっているということなのでしょうか。厚労省は「重度障害者は本来、保険料、助成、窓口負担などを総合的に勘案し、制度を選ぶことになっている」と説明しているようですが、条文の規定と、実務に差異があるような印象です。 後期高齢者医療制度は小泉内閣時代に国会で強行採決して出来たものです。決して福田政権で出来た制度ではない。つまり、新自由主義改革の路線上のものなのでしょうか。
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改正行政不服審査法案を読む(4) 第42条では、行政不服審査会等への諮問等について定めています。第1項で、審理員意見書の提出を受けたときは、1号から6号までのいずれかに該当する場合を除いて、諮問することが義務づけられています。審理員制度もさることながら、行政不服審査の客観性、公正性、そして専門性を担保するための仕組みとしては、こちらの方が、注目されるべきかもしれません。42条1項1号から6号というのは、審議会や議会のプロセスを経たものや、不適法却下する場合、そして、処分を全部取消すなどの場合に該当する場合は、不要なために除外しているところです。
国の行政不服審査会は、総務省に設置され、情報公開・個人情報保護審査会と併合されることになります(60条)。会長と委員23人という組織です(61条)。現在、情報公開・個人情報保護審査会の委員は、会長も含めて15名ですから、8名の増員になります。 審査会の会長と委員は、「公正な判断をすることができ、かつ、法律又は行政に関して優れた識見を有する者のうちから、両議院の同意を得て、総務大臣が任命する」となっており、任期は3年です(62条)。自治体の場合には、附属機関として設置することとされています(73条)。附属機関となれば、条例事項になります(自治法138条の4第3項)。あくまで想像にすぎませんが、国と同様に、情報公開・個人情報保護審査会を拡充するような対応をする自治体が多いのではないかと思っています。 国の行政不服審査会が、救済本位で活動することになれば、行政不服審査法改正は成功したと評価されることになるかもしれません。平成17年度の国の行政機関に対してなされた不服申立の救済率(容認率)は、約15%です。どれくらいの容認率になるのが適当かは、判断が難しいですが、台湾の大都市、台北市の訴願審議委員会での救済率が23%から24%であり(2003年から2005年)、参考になると思います。台湾は、訴願法によって、不服申立は訴願審議委員会という、第三者機関の審議を経て決定がなされる仕組みが採用されています。 自治体においても、国と同様の機関を設置し、活用することになれば、救済率は向上するのではないでしょうか。自治体の不服申立に対する平成17年度の容認率は、例えば、都道府県で約5.6%です。しかし、情報公開・個人情報保護に限ると28%程度であることを考えると、改善されることが期待できそうです。
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裁判員の「心のケア」
12日付産経新聞からです。 やっとこういうことがマスコミでもクローズアップされるようになりました。ちょっと遅すぎるとは思います。私は、裁判員法が成立する前後くらいから、この問題について、研究会MLなどで関心を示し、弁護士の方からもいろいろご教示いただいていました。 親類や親しい人以外の、「あかの他人の死体」を直接見たことがある人はどれくらいいますか?その時、冷静な気持ちで対応することができますか?死体の状況にもよりますが、とりあえず思い浮かぶのは、嘔吐、めまい、失神などの症状です。一度、目にしたら、おそらく長期間、その残像がこびりついて、なかなか記憶から消せません。これは経験してみないと言うだけでは理解してもらえないと思います。 裁判員制度を議論する中で、この問題に法曹関係者から積極的な発言がほとんどなされてこなかったのは、そのことで裁判員制度が立ち行かなくなる可能性を懸念してのことだったのでしょうか。諸外国で、陪審員への就任を嫌う大きな原因になっているとも推測できます。外国の制度を紹介するときにありがちな、「都合の良いこと」だけに焦点を当てて、「都合の悪いこと」は隠すということが、裁判員制度導入の際にもなされていたことになるのではないでしょうか。 もっとも、私は、それでも自分が裁判員に選ばれれば、積極的に取り組むつもりではいます。
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改正行政不服審査法案を読む(3) 審理員による審理手続について、まず第27条で「簡易迅速かつ公正な審理の実現のため」「相互に協力する」ことや、「審理手続の計画的な進行を図らなければならない」ことを審理員だけではなく、審査請求人、参加人、処分庁等にも義務づけています。第1条でも簡易迅速かつ公正な手続という文言が使用されており、改正法案の主旨がここにあることを窺知できると思われます。
28条で処分庁等に弁明書の提出を求めることなどが、29条では弁明書に対して、審査請求人に反論書の提出、参加人に意見書の提出が、それぞれ認めています。弁明書や反論書は、現行法でも認められていますが、審理員をはさんで、対審的なものにしようとする意図であることは分かります。 口頭意見陳述について、現行法25条では審査請求人や参加人から申立があれば、機会を付与しなければならないと規定されています。これに対し、改正法案30条1項ただし書で、当該申立人の所在その他の事由により当該意見を述べる機会を与えることが困難であると認められる場合には、この限りではないと規定しています。「最終報告」では、この点について、申立人が矯正施設に収容されているため出頭が困難であるなど相当な理由があれば、例外を認めるとしていたことを受けての改正案になるのでしょう。ただ、現行法でも解釈上、本人が出頭困難であるにもかかわらず、口頭意見陳述を強行に求めるような実例が、果たしてどれくらい存在するのか疑問で、いったん条文になった場合、当初の趣旨とは異なる運用も可能になるのではと思います。また、改正法案30条4項では口頭意見陳述が相当でない場合に審理員はこれを制限できるとし、5項で申立人に、審理員の許可を得て、質問を発することができるとしています。質問権については、現行法の解釈運用上、これを認めていなかったところ、明文規定を導入することになったわけです。規定がなくても、運用でできないことはないはずですが、そこらあたりは、制定法準拠主義なのでしょうか。 改正法案41条では、審理手続終結後、遅滞なく、審理員は審査庁がすべき裁決に関する意見書を作成しなければならないとし、速やかに提出しなければならないと規定しています。これも「最終報告」で盛り込まれていたものですが、実際問題として、行政内部の職員が審理員が担うとなれば、かなり重大な任務になると思います。 改正法案を運用する場合、さしあたっては、この審理員をどういう人にやってもらうかが、自治体ではいろいろな動きがでると思います。
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改正行政不服審査法案を読む(2) いきなり話が戻りますが、不服申立人適格については、現行法4条と同様、「行政庁の処分に不服がある者」という文言になっています(2条)。「最終報告」でも、不服申立人適格については、行政事件訴訟法9条2項の新設によって実質的に拡大が図られたことから、現行法を維持することが適切であるとしています。不服申立人適格=原告適格として解釈・運用されてきたことを踏まえてのことであり、現状、特に異論は持っていません。
審査請求の手続については、処分があったことを知った日から3ヶ月(再調査請求をしたときは、その決定があったことを知った日から1ヶ月)が審査請求期間(17条)となっています。現行法が60日ですから(14条)、実質1ヶ月増えたことになります。内容によってはもっと時間が欲しいと言われるかもしれませんが、3ヶ月という期間は、不服申立制度の簡易性を考えれば、妥当ではないでしょうか。訴訟と違って、書面記載事項の要件はあるものの、記述すべきことは簡潔なものでも受理されるのであれば、準備期間にそれほど時間は必要ではないと思います。 審査請求の前提として、行政処分が存在するわけですが、行政実務では、口頭による行政処分は皆無に近いでしょう。ほとんどが書面。しかも、対面で手渡しすることもほとんどなく、郵送が一般でしょうね。この場合、普通郵便だと、具体的にいつ配達されたのか不明で、中には「そんな通知受け取っていない」と主張されることもあるわけです。そういう場合は、単なる苦情として処理していたのでしょうか。もちろん、法解釈として、通常要する郵送期間が経過していれば、審査請求期間は終了していると主張することも考えられますが、自治体窓口でそこまで考えて対応していることは少ないと思います。 審査請求は原則として審査請求書を提出して行わなければなりません(18条1項)。法律や条例に口頭でも可能と規定されていれば、OKですが、審査請求書に記載しなければならない事項を陳述しなければなりませんので(19条)、かえって難しいのではないでしょうか。この点は、現行法を基本的に踏襲していると思いますが、ただ、現行法9条2項以下などに規定されている書面の正副2通提出要件などが政令に委任されていますので、それがどういう内容になるのかは、確認しなければなりません。 審査請求書の記載事項については、現行法は年齢記入が求められていますが(15条1号)、改正法では省かれています(18条2項)。年齢記入が要件とされていた理由は、未成年者は単独で法律行為ができないことを前提に、成年者かどうかを確認するためだったのでしょうか。逐条解説書を読んでいませんので、未確認です。ご存知の方がいらっしゃればご教示願います。 執行停止について、「最終報告」では、現行法を踏襲しつつ、審理員が、処分の執行等によって重大な損害を生ずることを回避するために緊急の必要があると認めるときは、審査請求人の申立により、審査庁に対して執行停止の意見をすみやかに提出しなければならない旨導入することが提言されていました。しかし、改正法案では、執行停止について現行法34条を踏襲した規定とし(24条)、審理員は、必要があると認める場合には、審査庁に対し、執行停止をすべき旨の意見書を提出することができるという規定を置いています(39条)。そして、審査庁は、審理員からの意見があれば、速やかに、執行停止をするかどうかを決定しなければならないと定めています(24条7項)。執行停止については、あくまで審査庁の裁量に委ねる姿勢であることがはっきりしているという印象です。
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改正行政不服審査法案を読む(1) まだ全然しっかりと読んではいないのですが、「条文素読メモ」ということで。
旧法との比較では、行政不服審査制度検討会最終報告に基づいて、まず、不服申立の種類が、審査請求に一元化されていることです(4条)。審査請求の相手方は、処分庁等に上級行政庁がない場合などは当該処分庁等などとしており、旧法よりも申立先については分かりやすくなっている印象を持ちます。ただし、個々の法律で制度化されている「裁定的関与」がどうなるのか、別途、見ていかなければなりません。自治体における裁定的関与は、国と地方、都道府県と市町村の上下関係意識にそれなりの影響を与えていると理解しています。 審査請求への一元化の例外が、再調査請求です(5条)。これも最終報告に盛り込まれていたものです。「法律に処分庁に対する再調査の請求をすることができる旨の定めがあるとき」は再調査前置を要します。個別の法律で再調査請求制度を導入されるかどうかは、行政不服審査法の改正に伴う関連法律の整備法などで規定されるものと思います。 審理員(8条)も最終報告で提言されていたものです。ただし、行政委員会や審議会が審査庁の場合、条例に特別の規定がある場合は、「この限りではない」と規定しています。審理員については、2項各号非該当者という要件で、2号の審査請求人とかその配偶者等親族(3号)とか、まぁ、当たり前のことを規定していると思います。審理員をどうやって指名し、どういう運営をするのかは、特に小規模自治体の場合どうするのか、関心を持ちます。弁護士界からは、弁護士を非常勤嘱託職員として雇用し、審理員に指名すればいいという、弁護士審理員制度の提言もなされています(越路敏裕「行審法改正の意義と課題」自治研究第84巻第3号)。仮に導入するのであれば、弁護士に限らず、司法書士や行政書士でもいいのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
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映画鑑賞 昨日は、連休最後の行事として、映画館へ行きました。
大ヒット中の「相棒」を観ようと思って、午前10時半頃に映画館に行くと、午後4時半開始のものしかチケットが残っていないという、もの凄さでした。チケット売り場は大勢の客で大混乱。映画館はホクホクでしょうねぇ。 そんな中をチケット購入のために並んでいると、途中で売場の電光掲示板が「△」になるという勢いでチケットが売れていくのが分かりました。それでも、どうにか2枚購入しました。その時点で午前11時前。5時間以上も時間があるとなれば、さすがに困ってしまいます。まさか本屋で5時間も立ち読みできませんしね(汗) そこで、少し早い昼食を取りながら相談の結果、もう一本の映画を先に観ることにしました。検討の結果、決まったのは 名探偵コナン 戦慄の楽譜 しかし、さっきの映画館とは別の映画館で上映しているため、移動したところ、ここもチケット売り場は長蛇の列。しかし、係員さんが、11時50分から上映開始のもので、席に余裕があるため、すでに開始していますがいいですかと言われたので、そそくさとチケットを購入し、席に着きました。ちょうど始まったばかりの場面でしたね。子供連れが多いのがよく分かりました。アニメ映画も映像が綺麗ですねぇ。エンディング曲がZARDというのも、なかなかのものです。かなりの興行成績になるのでしょうか。 上映終了後、時計を見ると午後2時前。本屋で立ち読みし、大手電器店で時間をつぶして、午後4時前に再び、「相棒」を上映している映画館へと行きました。 ここでストーリーを書くわけにはいきませんが、極めてシリアスな社会派映画になっているということです。まだご覧になっていない方は、観る価値はあると思います。それにしても、元大学教授の役で出演している西田敏行さんの役名が、私がよく存じ上げている複数の大学教授のお名前を組み合わせたものだったのは、ちょっとおかしな気分でした。
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新自由主義改革と政策法務(2) 昨日の続編です。
「行政の経済化」現象に対して好意的な評価をし、経済学的手法の導入による法の合理化機能を重視しているJ・-P.シュナイダーも、経済効率性を志向する私的自治領域とは別に、社会、文化、政治的自治の領域が存続を認められるべきだとしています。法経済学上の合理性と、これに対立する関係にある社会的自治モデルの規範的な地位を、どう統合すべきかという問題は今日的な法律学の課題であると主張されているそうです。 さらに、より厳格な留保条件を付したうえで経済学的手法の導入を認めるCh.グレップルは、法規定と経済性が抵触した場合に、経済性が優先する考えは危険で、NPMも法の枠組みに適合しなければならないこと、法治国家を無視して無限定に経済化し、デフォルメしてはならないと主張していると紹介されています。 日本におけるこの数年間の新自由主義改革法制は、企業の利益を生み出すことには成功したかもしれませんが、巷言われているように、低所得層の人たちも激増させるという副作用が発生しています。行政の経済化、経営主義化に批判的な論者は、財政難を克服するために、自治体も行政の民営化にまい進していますが、民営化して喜んでいるのは利潤を上げている企業であって、そこに公共性をどう確保するのかという法的仕組みに熱心に取り組む行政関係者が果たしてどれくらい存在するのか、疑問を呈しているのではないでしょうか。 高橋教授は、論文の最後に、「四 法律学と経済学の対話-A・フォスクーレの議論」と題して、その冒頭、ドイツ公法学において、法の経済学的分析、行政の経済化現象に対して、肯定的評価をする論者も、一定の留保をつけていることを踏まえ、「今日求められているのは、相互の学問領域としての独自性を前提としたうえで、それぞれの成果を相互に生かすための条件、作業の有効性の射程を具体的につめていく作業であろう」と主張され、行政手続の効率化をテーマとして法の経済学的分析についての包括的な検討をしているA・フォスクーレの論文、"Okonomisierung" des Verwaltungsverfahrens, Die Verwaltung Bd.34(2001),S.347ff を紹介分析されています。
90年代後半以降、ドイツでは行政手続の改革が進められてきており、フォスクーレの論文では、改革の中心に位置する一連の手続促進立法(Beschleunigungsgesetzgebung)が主に取り上げられているとのことです。ヨーロッパの市場統合が進んで、従来の行政手続ではコストの面から企業立地に不利になるという事情が、改革立法の背景にあるようです。
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新自由主義改革と政策法務(1) 高橋滋「行政の経済化に関する一考察(上)(下)」自治研究第84巻1号、3号を読みました。ドイツにおける「行政の経済化」の議論を分析し、ミクロ経済学の議論を法律学に応用して行政の効率化を実現しようとする論議に対して、法律学からの考察の視座を得ることを目的とした論稿です。
「行政の経済化」という表現は初めて目にしました。新自由主義改革としての一連の傾向のことを指しているものであり、NPMと呼ばれているのが通例でしょう。ちなみに、私は、このNPMという言い方がとても嫌いです。 ドイツでも「行政の経済化」現象は90年代以降、公務部門領域で拡大しているようです。日本も同様ですが、なぜか行政法学において、この動向について問題を分析的に取り扱おうとする動きは活発ではないと指摘されています。私自身、たぶん、平成15年頃からここで言う「行政の経済化」(私は「経営主義化」と言っています)に強い関心を持ち続け、研究会でも意見発表させていただいています。高橋教授のご指摘のように、最近でこそ行政法学からのアプローチが目立っているように思いますが、それほど活発に議論されているという印象はまだそれほど持っていません。もっとも、それでも公法学からの検討は、論者によってはかなりなされていると思います(米丸恒治「私人による行政」(日本評論社、1999年)はその代表作ですが、残念ながら絶版で入手できていません。増刷を強く望んでいます)。 日本でもそうだと理解していますが、ドイツでも「行政の経済化」は、その概念の多義性があるようです。高橋教授は、「行政制度に経済学上の効率性等の観点を用いて設計・解釈を行おうとする立場を包含するものとして」、「行政の経済化」の概念とされています。そして、ドイツにおける「行政の経済化」現象は、組織・会計制度・公務員等の分野、サービス行政の改革、誘導行政、規制行政での改革などに及んでいると紹介されています。例えば、社会保障制度・健康保険制度の領域において、「社会的なるものの経済化」とその問題点が活発に議論されているようです。 ドイツ公法学では、「行政の経済化」に対し、何らの留保もなく肯定的な評価を与える立場はごく少数で、好意的な評価を与える立場でも、何らかの留保あるいは条件をつける見解が多数であり、経済学的手法を法律上の制度分析・設計に用いることについて根本的な疑問を投げかける者も存在するとのことです。 経済化現象について、法律学的考察の独自性を強調して、法の経済化に批判的な論者は公法学だけではなく、私法を専攻とする論者からもなされています。K-・A・フェッツァー(専攻は民法、経済法、国際私法)の原理的批判は、①経済学モデルと法律学の多面性との乖離、②想定される人間像の違い、③公共の福利の優先、④文化・社会的差異、経済体制の差異の軽視といった枠組みとなっています。例えば、③について、法の経済学的分析においては、衡平性は効率的配分の観点から把握されることを問題にし、常に社会全体の公益を個人に優先させる点において受け入れがたいと批判されていることを紹介されています。 次に、ドイツ公法学では、法の経済学的分析に対する批判は、「経済化」現象に包括される立法政策論、解釈論についてなされているとのことです。Ch.ライヒャルトは、ドイツ自治体が経営する公企業について導入された「新制御モデル」の特徴の一つとされる「成果カタログ」の作成について、成果の機械的な理解、官僚的な評価事務等の弊害、成果に基づく制御に弱点が露呈しているなどと批判していると紹介されています。そして、こうした具体的な批判に加え、経済合理性への傾斜は、行政決定の非経済的要素を軽視し、市民を顧客としか見ない傾向を生み、公務の平等性・統合・清廉・専門性・公益等の諸価値を軽視することになるとして、理論的な批判を試みていることを「注目に値する」と評されています。類似の批判は、日本でも存在しているのではないでしょうか。
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政策法務の基礎理論(2) 政策法務に関する書籍は、多くが条例に関するものです。しかし、政策法務=条例という理解ならば、正確ではありません。むしろ、政策法務=法令の自主解釈への転換が根底にあると考えなければならないと思っています。単に、先端条例の競争をするだけでは、不十分だということになります。
こうしたことを踏まえて、政策法務に基づく条例の最高傑作が自治基本条例という言い方には、私はかなりの抵抗感を覚えています。ところが、逆に、自治基本条例の中で実質的に政策法務への取り組みを促す規定を導入しているものがあります。 岸和田市自治基本条例は、第26条で、法令の自主解釈、条例制定権の活用について規定しています。高木先生も、26条は地方分権改革の精神に沿ったもので、「団体自治」の拡充を「法令の自主解釈」と「条例制定権」の活用によって実現しようとするものと評価できるとされています。自治基本条例という、元々は、住民自治のための規範の中に、団体自治のための規範が入りこんでいるのをどう考えるかということになりますが、条例が住民意思を反映しているものであるとすれば、住民意思の反映を法的に構成した条例を積極的に活用することは、団体自治のあり方として、好意的に評価できるということになります。岸和田市条例は、その点で、非常に優れたものと評価できるのではないでしょうか。 さて、政策法務そのものについては、高木先生も引用されているジュリスト1338号(2007年)の「特集2自治体政策法務の展開」で北海道大学の人見剛教授による「分権改革と自治体政策法務」に、その生い立ちなどが記述されています。人見教授は、まず、かつての自治体法務について、原課・原局における「中央照会型法務」、法務専門部局における「法制執務」と「訟務」への矮小化に纏めることができるとされています。そして、政策法務論は、「全国画一的・省庁縦割り的に制定される国の法令を、各自治体が生の住民生活に直面する分野横断的な総合的見地から解釈・運用し、かつ自主条例の制定を含めて地域の特殊性や固有のニーズに定位した自主的・積極的な政策展開を行うこと、これらを法的に裏づける法務」とされています。 政策法務は自主条例の制定にどうしても目が奪われてしまいますが、日々の仕事は既存法令や条例に基づく解釈・運用法務の比重が高い以上、法律の解釈をどうするべきかを第一義的にしなければならないと思っています。この点については、別の論者による主張が説得的ですので、また、後日に。
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政策法務の基礎理論(1) 政策法務に確固たる統一的な理論体系ができあがっているわけではありません。したがって、これまで多くの論者によってなされているものをかいつまんで整理することを通して、何か新しいものが見つけられればいいと思っているくらいです。
そこで、今回は、「自治実務セミナー」に高木光教授(京都大学)が連載執筆されている「行政法入門」で、今年3月号に政策法務が取り上げられているため、これを教材にしつつ、私見も交えたいと思います。 地方自治の本旨(憲法92条)は、団体自治と住民自治から構成されていると言われ、前者は法令の仕組みを分析すればある程度明確に判断できるのに対し、後者は法令の仕組みだけでは足りず、それがどのように機能しているかを合わせて判断しなければならないとしています。 最近の地方自治は、「住民自治」に関するものが流行です。高木先生も、住民自治は、「地方公共団体の事務処理が住民の意思に従って住民の責任においてなされること」を意味するとされているものの、「住民の意思に従って」が具体的に何を意味するのかは曖昧だとされています。この点との比較で見ると、もう流行語ではなく、地方自治の中では、ある意味普遍化されつつあるものに、「協働」と「参画」があります。協働と参画を住民自治の具体化であると主張される論者は少なくないでしょうが、しかし、協働も参画も、統一的な定義を付与し、概念化されているわけではないと認識しています。高木先生は、住民自治の理念を実現するためにどのような制度がふさわしいかという問題について、伝統的な行政法理論の「法学的方法」では答えを出すことができないことは確かだと述べられています。協働と参画も、結局は、地域での個々の取り組みによって、形成されるものであり、法学的な概念として果たしてどうなのかと思います。 法学的な概念として曖昧であるにもかかわらず、協働と参画は、自治基本条例に規定されることが一般化していると認識しています。「ニセコ町まちづくり基本条例」では協働と参画という言葉は用いられていませんが(それでも第5条参加原則などが規定されています)、市として最初の自治基本条例である「宝塚市まちづくり基本条例」では、第2条まちづくりの基本理念で、協働について規定しています。その後、全国で続々と制定され、あるいは検討されている自治基本条例では、協働と参画は、標準装備されているようです。つまり、法学的概念として曖昧な協働と参画について、自治基本条例の中で定義し、条例に基づいてそれを進めていく自治を行うというこです。自治基本条例は、政策法務の到達点などと賞賛されてきましたが、協働と参画以外にも独自規定が少なからずあり、こうしたことも含めて、高木説は自治基本条例に対して、慎重な態度であると理解しています。 高木先生は、自治基本条例でよく使われている「役割」や「責務」という言葉の中には「法律論として気になるものがいくつかあります」と述べられ、神奈川県自治基本条例案で県知事の責務、県職員の責務として、「県民の意思に沿って職務を遂行する」という規定は、地方公務員法30条、32条との間で矛盾抵触することを示唆されています。そして、これを回避するためには、この規定は、個別の案件にかかわるものではないと理解するか、個々の県民の具体的な意思とは無関係な、抽象的な県民の意思をイメージしていると理解するほかないと述べられています。これでは法的な意味はほとんど失われ、高木教授も後者については、単なる政治的宣言と変わらないと述べられています。自治基本条例の法的構成の難しさを改めて認識するところです。 高木先生は、 「法律による行政の原理」について、「国民の意思」が国会というチャンネルを通じて「法律」という形で表明されており、行政活動はそれを「誠実に執行する」ことで、民主主義と自由主義の要請が同時に満足されるという発想をしてきたと説明されています。これを自治体にそのままあてはめれば、「住民の意思」である「条例」を誠実に執行することになりますが、自治体の行政活動は法律の執行が占める比重が大きいため、そう簡単なモデルにはならないと述べられています。そして、「条例制定権の範囲と限界」という論点について、「国民の意思」と「住民の意思」の関係として、前者に後者を付加したり、後者が前者を部分的に排除できるのかという問題とみることができると述べられています。
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