社会保障政策、元厚生労働省事務次官の考え 岩村正彦編『高齢化社会と法』(有斐閣)を読んでいるところです。
その中で、「第4章高齢化社会と社会保障政策」は、辻哲夫厚労省事務次官(2006年当時、現在は田園調布学園大学教授)の講演内容で、厚労省の事務方トップの社会保障政策の基本的な考え方が理解できます。市民向けの講演であり、すべて本心ではないにせよ、それなりに理解できる議論だと思います。 社会保障給付の大部分は社会保険方式でなされていることの意義について、次のように述べられています。「まじめに額に汗して働けば、生活保護のお世話にならなくて済む、あるいはお恵みのような形のサービスだけで惨めな思いをしなくて済むという、誇りのある生活をしたい。そのような予防策としての社会保障政策が欲しいのです。これは・・・(略)・・・国民の求める自然なことだと思います。これが社会保険です。したがって、社会保険は、分厚い中間所得階層を念頭に置いた制度なんです」 公的年金についても、「世代間の生活全体の受益と負担で考える必要がある」、「若いときに、努力をして賃金を得ていた人が、年を取って賃金をもらえなくなって、生活保護というのはみじめなので、そのような努力をしてきた人が安心できるようにするためにできたのが、年金制度です」「若いときに、ずっと働かないで保険料も納めず、生活保護をもらっていた人が、突然老後になって、みんなと同じように年金がもらえるとしたら、どんな国だと思いますか」などと述べられています。 生活保護については、「普通の生活をしていて、収入がなくなったら直ちに生活保護をもらえるというのは誤解で、もしそのような誤解が生じているとすれば、運用に問題があるからです。適正な運用をしていないからです」と。 残念ながら(?)、極めて真っ当な正論を述べられています。これ以外に介護保険や医療制度、負担と給付のあり方についても、納得できる考えを披露されています。不思議なのは、これだけまともなことを論じている厚労省が、何故、ここまで国民から非難、批判されているのかということです。国民への周知方法、広報のあり方について課題があるのかもしれません。 老後の重要な生活保障である年金制度について、生活保護と比較することを、生活保護団体などの人たちは認めようとしていないと認識しています。年金よりも、生活保護の支給額がこれを上回っていることを論じるのは、制度趣旨が異なるのだから認められないということでしょう。しかし、日本人のごく普通の常識として、真面目に努力してきた者が得る年金と、様々な理由があるにせよ義務を果たしてこなかった者が得る生活保護について、後者が前者よりも優遇されるというのは、どうしても許すことができません。辻氏はこの点については正面から触れられていませんが、全体を読んでいて、生活保護を受けることは惨めなものであることを強調されていますので、私と同様、かなりネガティブなものと捉えられていると思います。税による年金について否定的であり、最近の生活保護適正化政策は軌を一にしていると理解できます。社会保障を充実させることで、企業も国際競争力を向上できると主張されていますが、税による最低生活保障たる生活保護は、こうした側面からもマイナス要因だということになるのでしょう。仮にそうだとすれば、説得力を感じます。
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NPO法人の非営利性 多くの自治体が取り組んでいることに、市民参加による自治体行政の推進なるものがあります。新しい公共という言い方をする論者もいて、それなりに刺激的なものです。市民参加あるいは市民参画の主役にNPO法人も含まれているのが、当然のようになっています。
先日、私の職場にNPO法人の役員が挨拶に来ていました。4月から私の職場の執務室がある、公の施設の指定管理者になる団体関係者です。挨拶に来られたのは2名で、うち1名はA市の元幹部職員で、私も面識のある人物でした。NPO法人の全てがそうだなどとは思っていませんが、指定管理者になるためには、やっぱり元幹部などが役員になっているほうが何かとやりやすいというのが正直なところなのでしょうか。NPO法人が自治体幹部の天下り先になっている実態はどれくらいあるのでしょうか。 NPO法人というのは、阪神淡路大震災でのボランティア活動が高く評価されて法制化されたものと認識しています。非営利活動というのは、そういうことを踏まえてのものです。しかし、NPO法人に対する私の印象は、あまり好意的なものではありません。不幸にも、私が出会ったいくつかのNPO法人の役員というのは、商売人以上にカネにがめつい人間ばかりだったことが影響しています。むしろ、堅実に商売をされている私の知人たちのほうが、よほど誠実だと思っています。 私のNPO法人に対する見方は、かなりバイアスがかかっています。すなわち、「非営利活動」という看板を武器に、結局のところ営利追求に走っているというものです。営利と非営利についての法的意味は、利益を構成員に配分するか否かというものだと理解しています。そうだとすれば、確かに非営利活動である以上は儲けとか利益は発生しないし、それを構成員に配分するということも法的には成立しないはずです。しかし、現実には収益を得て、役員や従業員に給与等を支給しなければやっていけない。だから実質的に利潤追求になる。そういう事情は理解できますが、それなら「会社」にすればいいのです。あたかも社会貢献活動が主目的のように装って、利潤の追求に走るのは、部外者である私からすれば、悪質商法とそれほど相違はない。真っ正直に「会社」にして、利潤追求をすればいいのです。 非営利という言葉について、多くの人は誤解しているのかもしれません。そうだとすれば、一般人の無知につけこんだエセニセNPO法人が暗躍する環境を法律そのものが用意したと言うこともできそうです。市民参加は時代のトレンドですが、非営利活動や社会貢献活動をしていることを全面に出すことで、自分たちの活動や主張こそ公共性があると幻惑させられることには、注意を要しなければなりません。
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大阪市職員の6%が「ふるさと納税」
産経新聞29日付記事からです。 ふるさと納税についての個人的感想は以前、記事にしています。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-64.html 大阪市職員4万人中、6%ほどの人が、平均3万程度寄付したという計算です。大阪市職員が平松市長のことをどう思っているのかは興味深いところですが、どこの自治体も似たりよったりかなぁと思っています。それでも寄付をされた職員の方には、敬意を表したいです。私は自治体に寄付をしようとは思っていません。他の慈善団体などには、時折、わずかですが寄付をすることはありますが。 ふるさと納税制度に真っ向から反対するほど強い嫌悪感を持ってはいませんが、以前の記事にも書いたように、大政翼賛会的な、半ば強制的に寄付をするのが当たり前だといった風潮が自治体内部に生まれてくることには警戒心を持っています。
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自治体財政健全化法26条 先日、私も入れてもらっている某政策法務研究会の主要メンバーから、標記のことについて質問がありました。もう結論は出ているのですが、折角の機会なので、条文を確認してみました。自治体財政健全化法については、ほとんどロクに読んでいませんので、にわか勉強もいいところです。
自治体財政健全化法26条では、監査の特例を定めています。同法に定める財政健全化判断比率が早期健全化基準を上回る等の場合、財政健全化計画等を策定しなければなりませんが、そのような自治体は、当然、行財政運営に問題があると考えられます。そこで、法はそのような自治体に地方自治法199条6項の特別監査として、個別外部監査を義務付けています。 質問の内容は、個別外部監査の条例を制定していない自治体が、財政健全化法26条に基づいて個別外部監査を行う場合、条例制定が必要かどうかという点でしたが、答えとしては不要ということになります。条文をまじまじと読んで出した結論でしたが、自治実務セミナー2008年4月号の実務講座「地方財政の健全化(三)」でなされていた説明からも、正しい結論だと思います。 財政健全化のための外部監査となれば、多くの自治体は、公認会計士など財務会計の専門家に委ねることになります。この点について、監査する者に対して監査される者が報酬を支払うという点で、どこまで公正性が担保されるのか疑問が生じないわけではありませんが、民間企業と公認会計士の間のようなしがらみが、自治体との間でも生じることは、まだしばらくの間はそれほど心配しないでいいと考えています。年数が経過したとき、どうなるのか興味はあります。
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兼子仁・北村喜宣・出石稔 共編 『政策法務事典』(ぎょうせい) |
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自治体職員のための政策法務入門 3 福祉課の巻 保育所民営化が住民の大反対にあったとき
第一法規から出版されたシリーズ2冊目になります。架空自治体「海辺野市役所」の「福祉部」と「政策法務室」を舞台に、やや本格的な物語にして、福祉行政における政策法務が描かれています。 福祉に関する書籍と言えば、最低限の義務さえをも追いやって権利ばかりを強調するような、左傾向が露わな偏向的なものが目につきますが、この本については、そうした偏向性は相当意識的に排除しています。権利の主張・擁護とともに、ルールを守る、義務を果たすといったことも重要視するとともに、給付行政が中心となる福祉行政現場では、法令や条例を軽視する傾向が強いため、それに抗するかのように政策法務の重要性が記述されています。 本書の大きな特徴は、物語に登場する人物たちの個性が、かなり具体的に描かれていることだと思います。例えば、海辺野市政策法務室の丹下一係長は、帝道大学法学部卒業後、松芝電器に就職し、ほとんどを法務部で過ごしたというキャリアの持ち主だと紹介されています(もちろん、帝道大学も松芝電器も架空の大学、企業でしょう)。そして、丹下さんは、その後、海辺野市が「法務職」を公募したため、受験し、採用されたと。年齢は経歴からして、30歳代半ばくらいでしょうねえ・・・ この他にも、市長の黒川雅治さん、福祉部長の三島豊さん、しばしば登場する福祉課高齢者福祉係長の左門隆さん(実は、丹下さんと大学の同級生)、係員の新藤一朗さんなど、多彩な登場人物が描かれています。 もちろん、取り上げられている政策法務に関する論点も幅広いものです。公金の支出と行政処分にはじまり、成年後見、後期高齢者医療、高齢者虐待、保育所民営化など福祉政策法務の入門書としての役割を意識した内容・構成になっています。さらに、今や常識となりつつあるものに対しても、登場人物が疑問を呈するなど、随所に異論を挿入しています。例えば、市民参加というものに海辺野市の課長が疑問に思っていることなども描かれています。 全体として、法律書独特の堅い感じのものではなく、面白い1冊だと思います。
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自治体職員の外郭団体への派遣
毎日新聞21日付記事からです。 昨日、某所で政策法務研究会の実行委員会なる会合があり、その席上で話題になったので、ここでも記事にしておきます。 公益的法人等への一般職の地方公務員の派遣等に関する法律が争われていた根拠法になるようです。6条第1項では、派遣職員には給与は支払わないと規定していますが、第2項でかなり厳しい要件のもとで、例外的に条例で給与支給を可能としています。神戸市が外郭団体に補助金の形で給与を支出したのが、この第6条2項違反だということです。 神戸市は上告すると思いますが、かなり情勢は厳しいのではないでしょうか。外郭団体にすれば、補助金として得た2億5000万円もの巨費を返還するとなれば、財務基盤が脆弱な団体なら、経営破たんを招くかもしれません。 この判決の影響なのかどうかはともかく、聞くところによると、自治体の中には職員を派遣している外郭団体等に対する支出を補助金ではなく、委託料に変更するようなところもあるとのことです。しかし、補助金を委託料に衣替えしたところで、その自治体との関連が希薄な業務に従事させるために職員を派遣し、その給与を支払うための手段として委託料を支出しているとなれば、かえって「悪質」と見られるリスクも高いと思います。 派遣職員が自治体職員としての身分を保有しているため、その者の給与を派遣元である自治体が負担しないと、外郭団体では人件費負担はできないという現実的な問題があります。しかし、公益法人等派遣法では、あくまで自治体の事務事業に密接な関連を有する業務を行う団体への派遣であるべきところ、密接関連性の希薄な団体へ職員を派遣していることが問題なわけです。裁判所が公益法人等派遣法の密接関連性の解釈適用を厳正に行うことが確定すると、自治体職員を外郭団体へ派遣することは、限定された場合にならざるを得ないように思いますが、どうでしょうか。
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自治体職員のための政策法務入門2市民課の巻
第一法規から新しいタイプの政策法務入門シリーズが順次出版されるようです。第1弾は「市民課」職員向けの政策法務入門。私なりにネーミングするならば、「物語で学ぶ政策法務」になります。 本書は、架空自治体「なぎさ市役所」の市民課で発生する、法的な諸問題について、政策法務の視点から、論点の摘出、解決の方策などを示し、政策法務に無関心な組織の中の中間に位置する「6割」の人たちに、政策法務の面白さを分かってもらいたいというのが、狙いのようです。 内容は、「第1章市民課の仕事」で、市民課の主要な仕事を簡潔に紹介しつつ、政策法務との関係について言及されています。「第2章市民課のものがたり」では10頁ほどでまとめられた18のエピソードから構成されており、戸籍、住民登録、印鑑登録など市民課で扱う主要業務に伴って発生する法的課題を、登場人物たちが政策法務の視点から取り組んでいくことが描かれています。市民課での仕事をしたことがない者が読んでも興味深いことが数多くあり、大いに参考になると思います。 新しいタイプの政策法務入門テキストとして、一読の価値ありです。
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自治体コンプライアンス(6) 法律と条例・計画 法律と条例の関係については、徳島市公安条例事件最高裁判決を素材にした記事を書いています。
http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-190.html http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-186.html この最高裁判例で示された法律と条例の関係についての枠組みを、第一次地方分権改革によって自治体が獲得した条例制定権の拡充と法令自主解釈権、そして現在検討されている第二次地方分権改革により適合的に進化させた考え方が、「標準法説」ということになります。その代表的なものとして、次のような説明がなされています。
この標準法説を自治体現場が導入することは、少なくとも現状では考え難いです。未だに法解釈上の問題が生じれば、国県に照会をするのが当たり前だと思っている自治体管理職者が多数派です。決して「自主的な解釈」は行おうとしません。 自治体コンプライアンスという点から、法律と条例の関係については、理論的にはきわめて柔軟な考え方が30年以上前に最高裁が示しているものの、自治体は積極的に乗ってこなかったと言えます。むしろ、自治体は要綱行政とともに、計画行政を好んできたと考えられ、実態としては条例よりも計画が上位規範であるという認識が、実のところ支配的ではないかと感じています。具体例を示すとこうです。 附属機関については法律又は条例で設置されることになっており(自治法138条の4第3項)、法律で委員の資格要件が定められ、委員定数や任期は条例に委ねられているようなものもあります。それを踏まえて、委員の男女比を少なくとも女性3割以上とするような規制を、条例ではなく男女共同参画計画の中で努力目標ないし達成目標として定めた場合、実質的に、法律や条例で触れられていない要件を計画で上乗せ規制していることになります。法律において、審議会等委員の資格要件の中に男女比を定めていないことは、条例で男女比を定めることを禁止するとまで解釈しなくてよいことは理解できますが、条例で定めず計画で規制してもよいという考えは採用できないはずです。 仮に、計画において、法律や条例では触れられていない規制を定めれば、下位規範である計画が上位規範である法律や条例を骨抜きすることになり、法治行政そしてコンプライアンスという点からは疑問になります。そこで、こうした問題を回避するために、計画では明確に定めず、附属機関を担当する部署に人事課などが男女比達成を促すといった文言を用い、実務では男女比が計画に即したものでなければ、内部決裁過程においてこれを拒否するような対応がなされている実態が存在します。つまり、外観上、法律や条例でもなく、かつ、計画でも明確な規定をせず、「内部決裁」という市民からは見えないところで、法律や条例を無視したような意思決定がなされていることになります。 こうした見方に対しては、男女共同参画社会をつくることに反対なのかと批判されるかもしれませんが、そういうことではなく、目的達成の手段として、法律や条例で規制せず、実質的に法律や条例を改正してしまうような効果を発揮させる計画のあり方、運用のあり方が問題なわけです。こうした法令軽視体質は、結局のところ、他の法的課題に対しても「抜け道探し」をする組織体質を濃厚にさせるのではないかと思っているわけです。しかも、こうした体質になってしまった組織では、このような問題提起をし、自由闊達な意見を述べることすらできないものに劣化しているのです。実のところ、この弊害が最も深刻ではないかと考えています。
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行政委員会委員、月額報酬は違法
読売新聞23日付記事からです。 月1、2回の会議出席だけで、月額報酬が20万円というのは、普通の感覚では理解できないと思います。こういう報酬を定めているのは、一つは人材確保のためでしょう。不当労働行為の申し立てが年間2件程度であっても、委員にすればそれなりに事前準備が必要で、判断には相応の責任がのしかかりますから、県としてもある程度の報酬を用意しなければならないということでしょう。 他の行政委員会委員でも同じで、教育委員会委員も毎月の定例会に出席するだけで、月額報酬が定められている自治体が多いと思います。また、「日当制」というのは、不安定雇用を象徴するような言葉で、どこか馬鹿にされているような感覚になり、抵抗感が強いのではないでしょうか。 行政委員会の委員報酬を全て日当制にすれば、全国で100億円くらい節減できるとのことですが、果たしてそれで本来の役割を果たすことができるのか、疑問も残ります。
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徴税の怠りで損害賠償
朝日新聞22日付記事からです。 兵庫県尼崎市は、いろいろ法的問題をかかえているようです。税の徴収を怠ったことによって市に損害を与えた、それゆえ損害賠償責任をOB職員たちに求める裁判です。かなり珍しい訴訟ではないかと思います。 しかし、元幹部たちが本当に主体的に徴税を怠っていたのかどうかは、強い疑問を持ちます。自分たちだけの判断で、事実上納税を免除するようなことを行うとは考えにくいのです。つまり、市議会議員など政治屋や地域の有力者が関与していたと考えるのが妥当でしょう。 市にとって、この訴訟の最大の成果は、損害賠償金を獲得することよりも、今後、市の徴税業務に対して、政治屋の口利きなど不当介入を予防する効果だと思います。本来なら、実質的に介入してきた政治屋を訴えるべきところですが、まさに政治的にそれができないため、元職員たちがスケープゴートにされたものと理解しています。 税イコール政治です。公正な徴税業務を妨げる地域政治屋の跳梁跋扈が、行政の透明性が強く要請される今の時代、通用すると考えていること自体、ナンセンスなのです。これで市の徴税業務は、公正性が増すのではないでしょうか。他の自治体はさぞかし羨ましいでしょう。
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税源移譲後の地方税 三位一体改革による国から地方への税源移譲が2007年度から始まっています。税率が改正され、所得税が減り、住民税が増えるという経験を多くの方がされていると思います。住民税の税率が一律10%になったため、低所得者の負担感、重税感が大きいと言われています。もっとも、増税されたわけではなく、所得税と住民税の合計は同じなのですが。
日澤邦幸「地方税徴収実務のテーゼ」という連載が自治実務セミナーであり、1月号では政令市8市、県庁所在市3市、11市の市県民税普通徴収分の税源移前後の収納状況についてまとめられています(58頁)。税源移譲前の平成18年度の収入率が92.58%〜95.20%であるのに対して、税源移譲後の平成19年度の収入率は89.86%〜93.67%と、すべの市で収入率が落ちています。しかも、滞納未済額も平均的な増加率は58%〜63%とされています。 自治体徴税部門というのは、専門的知識や経験が豊富な人材育成を放棄してきたと言えます。長年、自治体は徴税よりも国庫補助負担金を獲得することに熱心だったため、国庫補助事業を担当する部署の人材育成には力を注いでいたものの、徴税部門の人材育成を軽視してきたのです。三位一体改革で、地方は国に税財源移譲を求めてきたのはいいものの、同時に自分たちの意識改革、組織改革をそれほど進めてこなかったと評価できます。 徴税部門の強化充実は、税源移譲を求めた自治体の自己責任であり、真剣に取り組まないと自治体財政の規律が破壊します。組織の縮小・統合化が進む中、難題を抱えているように思われるのですが、どうでしょうか。
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派遣社員たちのホンネ
産経新聞20日付記事からです。 一体、派遣社員というのは、そんなに「余裕」があるということでしょうか。本当に必死で仕事を探しているなら、求人があれば、まずは応募するはずですが、そうではないというのは、ナンダカンダと言って、結局は勝手気ままに生きてきた証ではないかと強く疑ってしまうのです。 まぁ、市役所の臨時職員は月給が安いし雇用期間が最長1年ということもあり、不安定ですので、不人気なのは理解しましょう。介護施設は3K職場でこれも回避。ラーメン店やタクシー運転手もイヤ。農業は論外といったところです。いずれも正社員募集ということを前提にすれば、仕事を選んでいるということになります。結局のところ、近代的なビルに、バリッとスーツを着て、ドラマに出てきそうな美人のOLに囲まれた快適なオフィスでデスクワークをしたいとでも思っているのでしょうか。今までハケンで権利侵害を受けてきたのだから、それくらいの仕事を俺たちにもよこせといった具合ですか。一歩譲って、正社員といっても給料が月20万円程度なら、派遣時代にもらっていた給料より安いからという理由なら、マスコミが報じている、あの低賃金労働者たちというのは、どれだけ実在しているのかという疑問も生まれます。 年末から年始にかけて、ハケンムラのことを繰り返しマスコミが大々的に報道し、世の中の不安を煽り立て、正月気分も台無しでした。どこかの大学教授がテレビで言っていたと思いますが、自由を求めるならば、リスクは大きいはず。望んで派遣になった人間も相当数いるはずで、そういう人生設計が破たんした途端、全責任を社会に押し付けるというのは、どうしても承服しかねるところです。生活保護などでもそうですが、ともかくミソもクソも一緒にした議論というのは日本人が好むところです。都合よく、無差別平等だとほざくのです。 偽善的社会運動団体にマスコミが振り回され、あたかも美談ばかりが表に出されていますが、そんなはずありません。ウラがあるのは当然。そもそも、ああいった団体の人間は、何を収入源として自分たちの生活をしているのか、公表されていない。弱者を救済するという、誰にも反論できないことを標榜し、英雄気取りでいる団体関係者というのは、見ていて強い嫌悪感を覚えてしかたありません。
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理由提示の程度 行政手続法8条では、申請拒否処分の場合に理由提示が義務づけられています。ただし、許認可等について法令の要件や審査基準が数量的指標その他の客観的指標によって明確に定められている場合で、当該申請がこれらに適合しないことが明らかであれば、それを示せばよいとなっています。また不利益処分の理由提示は14条に規定されています。
この理由提示について、事実関係の提示(事実認定)と根拠法の条項該当の2つで構成されるべきということになります。だから「何法第何条に違反するので、許可しない」というのでは、何が違反なのか申請者にはわからないため、適切な理由提示にはならないことになります。宇賀克也『行政手続法の解説』(学陽書房)98頁には、「一般的にいって、単に処分の根拠法条を示すのみでは足りず、いかなる事実関係を認定して申請者が当該根拠規定に該当すると判断したかを具体的に記載することが必要」と記述されています。最高裁判例は、不利益処分の理由提示について、処分庁の判断の慎重・合理性を担保し、その恣意を抑制するとともに、処分の理由を相手方に知らせて不服申立の便宜を与えることだとすると、それ相応の理由の提示をする法的義務があると考えられます。 「法律に弱く、法律に使われている」自治体職員であっても、申請拒否処分や不利益処分について理由を作成するとなれば、関係法令の条文を熟読し、事実認定を丁寧に行うことになると思います。行政手続法で義務づけされている理由提示については、不服申立も視野に入れなければなりませんので、主体的な法への関与が実現でき、「法意識」の向上に貢献できるかもしれません。自分が書いた理由提示が不十分であるとして、不服申立や訴訟になるのは回避したいでしょうから、丁寧な理由提示に務めることになり、そのためには事実認定と法の解釈適用について、より挑戦的態度になることが期待されるからです。
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オバマ演説集
先週、昼休み時間中によく行く駅前の書店で衝動買いしました。英語を読んだり、聞いたりすることは、普通はありませんので、たまにはいいかなと思ってのことです。まだ全部読んだわけではありませんが、これはいい本ですね。 対訳はもちろん、重要な単語やイディオムは脚注にあり、しかも演説ということで一文が短く、文法で悩まされることもありません。また、CDを聞いていても、オバマ大統領の英語はかなり聞きやすいと思いました。長い間、英語から離れている者にとっては、1000円という値段とともに、ちょうど良い教材です。
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公営住宅法施行令の一部改正に伴う条例改正の必要性 昨日、久しぶりに参加させていただいた某政策法務研究会で、メインの議題とは別に情報交換のテーマとして出されたのが標題のことでした。
問題となった政令の改正は、既に平成19年12月27日に公布されており、今年4月1日から施行されます。法制担当者たちの間で疑義が生じていたのは、政令第2条第2項に定めている家賃算定基礎額の改正(増額)について、今年4月1日から直ちに施行されるのではなく、附則第3条で平成21年度から平成24年度まで段階的に引き上げるよう経過措置が定められている点についてです。 自治体の公営住宅設置管理条例では、家賃月額は公営住宅法施行令2条に規定する方法により算出する旨規定されているところがほとんどであるところ、この政令が施行された場合、附則の経過措置までも、条例に規定されている「公営住宅法施行令第2条」に読み込むことができるのか、すなわち、条例改正を要するのか否かということです。 法制執務とは疎遠になっている者としては、当初、何が問題なのか理解できませんでしたが、話を聞いていると、「法制担当者というのは、やはり、こういうことで悩むのか」とあらためて認識させられた次第です。細かい部分にこだわり、遺漏を防止する、「戦略は細部に宿る」と竹中平蔵氏がその著書『構造改革の真実』(日本経済新聞社)で述べられていましたが、そういうものを感じました。 出席されていた自治体法制担当者たちは、「条例の改正は不要」という立場でほぼ共通していたと理解しています。立法技術的なことは素人同然になっていますので、論評しかねますが、政令第2条に規定する方法により算出すると条例で明記している以上、政令第2条を読めばいいわけであり、そこで経過措置があり、公営住宅の居住者の負担について激変緩和がなされていることが判る以上、条例改正は不要なのだろうと理解しています。 公営住宅管理担当の職員たちは、内部マニュアルを作成するなどして、政令の附則に基づいて、家賃の激変緩和が滞りなく行えればよく、条例改正作業の難は免れたいという気持ちがあると思います。その気持ちには大いに共感を覚えるところです。
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税収大幅減と自治体「経営」 昨年の秋以後、アメリカのサブプライムローン問題の影響で経済情勢が急激に悪化し、当然ながら自治体の税収にも大打撃を与えています。平成20年度決算見込みにおける法人税収の大幅減、そして平成21年度も引き続き大幅な法人税等の減の影響を受けた厳しい予算編成がなされるところです。
マスコミ報道や、いろいろな自治体関係者の話によると、多くは予算編成作業のヤマ場でもある12月頃に税収大幅減であることによる影響に慌てふためいていることで共通しているようです。主要な企業への調査などで税収を見積もり、それが歳入予算に反映されるところですが、当初の見積もりを大きく下回ることが確認され、予算編成が行き詰まるといった具合です。 しかし、これは何かおかしな感じがします。アメリカの景気悪化によって日本がその影響を受けるのは、多くの経済専門家が主張してきたことではないでしょうか。毎年、予算編成にあたっては法人税収の見積もりを行うのは当然としても、「このままなら3割くらいの税収減はあらかじめ予測しておいたほうがいい」というくらいの判断は、特に企業への聞き取りをしなくてもできたはずです。そのような、ごく自然な対応ができないのが、お役所体質と批判される所以。 新自由主義改革の関係で、「自治体経営」とか「行政経営」という言葉が流行しています。経営というくらいなら、少しは先を読んで対応するのが普通ではないのでしょうか。まるで年末になった途端に景気悪化し、税収減が明らかになったかのような騒ぎになるというのは、お粗末すぎるように思われてなりません。経営といいながら、結局は、「以前はどうだった?」という昔ながらの「過去志向型」の意識と行動が支配的であることが、より鮮明になったと思っています。 中味のない言葉は使わないほうがマシです。これは政策法務も同じことで。
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要綱による補助金交付決定の法的性質 自治体が補助金交付要綱にもとづいて交付決定等を行う場合、その法的性質は何になるのか、つまり行政処分になるのかどうかという論点です。先日、政策法務研究会で親しくしている御方から類似の質問をいただきました。
碓井光明『公的資金助成法精義』(信山社)187頁以下に、この論点に関連した記述があります。
補助金交付要綱の法的性質について、下級審判例ですが、法律又は条例等の委任を受けたものではないので、内部規則にすぎないとし、行政処分性を否定しています。自治体首長が定める規則は自治立法の一種である一方、要綱は条例又は規則の委任により告示の形式で公示されない限り、これに法規範性を認めることはできないというわけです。 ただ、碓井教授も述べられているように、自治体現場では要綱に基づく補助金交付決定と条例や規則にもとづく補助金交付決定は、いずれも行政処分的感覚で遂行されています。もっとも、碓井教授は、厳密な権利付与規定がないから(負担付)贈与であるとして、交付決定の行政処分性を否定することには直ちに賛成できないと主張しています。 行政処分性を認められないとなれば、補助金交付要綱にもとづいて交付申請を行ったところ、補助金交付がなされなかった場合、抗告訴訟では争えないということになり、救済の途が塞がれてしまうということになる、ということではありません。碓井教授は当事者訴訟の方法で救済可能性があると述べています。とは言っても、補助金交付請求権は、交付決定によって初めて発生するので、当事者訴訟による補助金交付請求は否定される可能性が高いとも述べています。 補助金交付のほか、給付行政においては、市民と直接やり取りする機会が多いです。明らかに不当利得であるため、返還を求めても、応じないのがむしろ普通だという認識です。そのため、給付行政に従事している職員が人間不信になることも珍しくありません。
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徳島市公安条例違反事件に関する最高裁判例 政策法務論、特に自治立法論の中で、最も重要な判例に位置づけられているのが、「集団行進及び集団示威運動に関する徳島市条例違反、道路交通法違反被告事件」昭和50年9月10日最高裁大法廷判決、いわゆる徳島市公安条例事件判決です。政策法務、特に自治立法論・条例論を勉強するとき、必ずこの判例がでてきます。職員対象の入門レベルの政策法務研修でも基本中の基本知識として必ずでてきます。そこで、あらためて、この最高裁判例を読んでみました。「あらためて」と言うと格好いいですが、判決文を全て読むのは、実質的に初めてのことです。今までは判例解説書などで読んでいただけですから。
第一に、この裁判は、刑事裁判だったことを忘れてはなりません(忘れた人はいないでしょうけど)。政策法務論で最重要判例とされているものが、刑事事件の判例というのは、どこか間が抜けているような気持ちになります。この判例の判決主文では、被告人を罰金一万円に処するとなっています。最高裁は、被告人を有罪にするか、無罪にするかという判断を行う必要から、道路交通法と市条例の関係について言及したものです。法と条例の双方に罰則規定がある事例において、法律と条例の関係について一般的な枠組みを提示し、それを踏まえて条例は法に抵触しない、それゆえ、条例による罰則も有効とされています。刑事罰を与えるかどうかという、最も厳密な法解釈が求められるケースにおいて、道路交通法と公安条例の解釈や関係について非常に柔軟な考えを示したことになります。 このことから、理論的に、最も厳密な法解釈が要求される刑事裁判で、法律と条例の関係について柔軟性のある判断枠組みが示されたのであるから、それよりも厳密性が要されない通常の政策における法律と条例の関係にも、当然、この判断枠組みは援用されるということになります。これは、中央省庁にとっては鬱陶しいでしょう。 しかし、この最高裁判例以後、法律と条例に関する判断枠組みについて、この判例を援用している判例がない、と言うよりも、法律と条例の関係についての判断を回避しているように思われる判例が多いという印象です。何故なのか、ということです。 この判例では、次のような内容の判示もあります。すなわち、道路交通法による規制と別個に公安条例で規制していることは、重複している面もあるものの、公安委員会は条例を勘案して道交法の規制を施すかどうか等を決定することができる、規制が重複していても条例による規制がそれ自体特別の意義と効果を有し、かつ、その合理性が肯定される場合には、道交法は条例の規制を否定・排斥する趣旨ではなく、条例の規制の及ばない範囲においてのみ適用される趣旨のものと解するのが相当であるとしています。これは、読み方次第でしょうが、法律の規制を条例の規制の及ばない範囲で施すとなれば、条例の効力が法律の効力を上回ることすら容認しているようにも感じます。このような論理を推し進めていくと、法律に矛盾抵触する条例というものは、極めて限られた場合にしか認められないのではないかということになります。地方分権時代の政策法務、自治立法論を推進する側としては、強力な武器になります。 そうなったときに、劣勢にたたされるのは、中央省庁になります。いくら法律で規制をしても、その規制は全国一律に行うものではないなどと一蹴され、条例で独自規制がなされれば、官僚たちの仕事は意義を失います。裁判官は、国を困らせ、自治体を喜ばせるような判決は書きたくないでしょうから、この最高裁大法廷判決は腫れ物に触るように思っているのではないでしょうか。 当の最高裁も、判決を出した昭和50年には「地方分権」なる言葉は認識していなかったでしょうし、まさか30年近く経過した後、地方自治の世界でこの刑事事件の判決が活用されるとは想像すらできなかったと思います。実際、4人の裁判官の補足意見、1人の裁判官の意見が付されていますが、「集団行動と表現の自由」や条例の規定内容について「犯罪構成要件の明確性」などに関するものばかりで、法律と条例の関係については特にありません。刑事事件の判決という性格上、地方自治について検討するという発想がなかったのは、自然であり、理解できます。 いずれにしても、何よりも重大な問題は、この判例を活用し、政策法務を推進すべき立場にある自治体関係者で、この判例を知らない、理解していない人がいかに多いかということです。
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福祉事務所職員たちの憂鬱(3) 一昨日、新年になって初めて、所用でA市の福祉事務所に立ち寄る機会がありました。顔馴染みの職員たちと新年の挨拶を交わし、しばし四方山話。
昨年秋以後の不況の煽りで、生活保護の申請者は増加の一途であるというのは、どこも同じようです。働けるのに働かない者は生活保護の対象者にすべきではないのですが、こうも失業者が溢れ出すとなかなかその論理は通用しなくなると、職員たちはボヤキまくっていました。ほんのちょっと業績が悪化したくらいで、低賃金の派遣労働者が解雇され、その結果、派遣社員時代に貰っていた給料よりも高額な生活保護費を受け取ることで、自分がいかに低賃金でこき使われていたか「目覚める」という効果が、実のところ福祉現場の職員たちが最も恐れることなのです。 今の生活保護法制は、勤労の拒否を奨励し、怠惰を助長促進するのに多大な効果を生み出すため、即刻廃止すべきであるというのが、この数年、私が持っている考えであり、このような経済状況になっても、その考えはまったく変化ありません。このままだと、働いていたときの収入よりも失業して生保になってからの「収入」が上回るという、狂った状況は歯止めがかからなくなる可能性があります。そうなると勤労を拒否する者が増え続けることになる。これが果たしていいことなのかどうかは、誰にでも分かることです。 一方で、企業が、派遣労働者に支払う給料よりも、支払った税金でより多額の「賃金」を支払っていることに気づくと、ますます国内での経営をやめ、海外へ逃亡するのではないかという危惧も生じてしまいます。そうなるとますます社会保障は立ち行かなくなる。これもいいことなのかどうかは、理解できるでしょう。 福祉事務所の窓口には、最近、申請者に弁護士が付き添ってくる例が激増しているようです。法テラスの活動の一環なのでしょう。水際作戦をやめさせるため、「弁護士」という「権威」で申請受理をさせようとするようです。これに対して、私は水際作戦はいったん停止し、申請受理後の審査を厳正にすること、不正受給の対応を厳正にすること、その他受給者への対応を厳しくし、適法に保護廃止に追い込むような新しい戦略を練るべきだと意見しました。廃止実績が多い職員を表彰したり、そのノウハウを共有化するなどの仕組みがあってもいいと思います。ある親しい職員は、「探偵」の素養があり、抜群の廃止実績を有しています。こういう人材をもっと大切にすべきです。とはいっても、役所の仕事というのは、こういうことを変えることも躊躇するのは、これまたどこも同じことです。 興味深かったのは、最近、弁護士が代理人として生活保護申請書を提出したのはいいものの、申請者への面接を拒否したり、資産調査を拒否するような例があったそうです。その結果、申請棄却にしたところ、不服申立がなされ、福祉事務所が不当に面接を行わなかったなどと、全くの虚偽の主張をする事例があったようです。弁護士といっても、いろいろいるようで。職員たちから「こんな仕事、大した儲けにならないのに。弁護士にも生活が苦しい人がいるんですか?」と尋ねられましたので、「弁護士が激増する時代なので、食べていけなくなる人も増えるだろうから、弁護士が弁護士を伴って生活保護の申請にくるかもしれない」と薄ら笑いしながら答えておきました。 今年も福祉事務所職員たちの憂鬱は続きます。
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自治体コンプライアンス(5) 組織不祥事 以前の記事では、違法行為に関して個人と組織を分断して考察することは、責任の所在を曖昧にさせるのではないかという意見を書きました。
http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-29.html そこで問題になるのは、組織による違法行為をどう考えるのかということです。「組織犯罪」という言葉はかなり聞き慣れていると思います。文字どおり組織による犯罪行為であり、その組織が元々善なのか、悪なのかは余り問われないでしょう。何らかの組織が違法行為を行うことで、組織犯罪として構成されるのです。
間嶋崇『組織不祥事』(文真堂)では、組織とは、「2人以上の人々の、意識的に調整された活動や諸力のシステム」と定義し、組織不祥事という概念を「公共の利害に反し、社会や自然環境に重大な不利益をもたらす企業、病院、警察、官庁などにおける組織的事象、現象」と定義しています(1頁〜3頁)。そして、組織文化とは、組織で共有された価値と意味のセットないし体系だとされています(14頁)。ただし、ここで言う組織には、はじめから違法行為を目的とする組織は対象から除外しています。 組織不祥事は何故発生するのかについて、やはりメカニズムがあると論じられています。一事例として、2000年と2004年に発覚した三菱自動車リコール隠し事件は記憶に残っていると思います。この会社では、過去30年間に会長が9回、社長が11回交代しています。会長、社長とも、ほぼ3年ごとに交代していますから、自治体首長や議員には何十年も務めている人がいることと比べると、この会社は自治体などよりも短期でトップが交代しているのです。それにもかかわらず、企業体質、すなわち組織文化というものは変動していなかった(もしかしたら今もなお、変動していないかもしれません)。間嶋氏はトップの交代に伴う経営手法や仕組みの変化が微力であると述べられています。そうなると、首長や議員の交代が停滞しがちな自治体において、古い体質、古い組織文化がこびりついた状況を打破することは、ほぼ不可能だということになりかねません。 組織不祥事発生のメカニズムとしては、組織が、違法行為を得なもの、正当なものだと誤認させるような仕組みや構造化が激しく動くこと、これに対して組織の仕組みや構造を変えて、組織文化をマネジメントしようとしても、組織文化の慣性が働き、不祥事体質(文化)に変化が生じないと指摘されています。不正があっても隠し続け、違法なことを違法だと言わせない組織にいる者としては、間嶋説には共感を覚えてしまうわけです。 ごく簡潔にまとめましたが、間嶋氏の論述は、前回記事にした「ムシとカビ」という見方とも相通じるように思います。企業や官公庁で、違法行為がたびたび発生するのは、組織を構成する個々人の正義感や倫理意識が破壊され、違法行為を正当化する組織文化が猛威を奮っているからなのでしょうが、これを変革する力は結局外部圧力しかないというのなら、余りにも情けない。
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条例と重要事項留保説 「市民や民間事業者に対して何らかの法的効果を持つ決定をする場合に、その根拠や決定システムが条例に明示されていなければならないという意識は、行政も一応は有している。しかし、それが行政のみにかかわる場合には、内部事項であっても条例事項にならないと解されている」(北村喜宣『分権政策法務と環境・景観行政』(日本評論社)、118頁)。
この記述は、前掲北村著「第9章環境基本条例と行政意思決定システム」からの抜粋ですが、こういう意識であれば、私としてはマシではないかと思っています。「一応は有している」という文言がミソかもしれませんが、ともかく市民に法的効果が生じるような意思決定の根拠は、条例に「明示」すべきであるというのは、「重要事項留保説」のエッセンスを表現したものだと思います。重要事項留保説の一つの弱点としては、何をもって重要事項とするのか、その枠組みが曖昧なことです。 では、市民に法的効果を生じさせない場合なら、条例で明示することは不要と考えるのは正しいのかということになります。そこは、自治体が「重要事項」かどうか判断することで、ある程度、幅のあるもの、裁量の生じるものだと思います。重要事項であっても、計画や要綱に定めるのにとどまり、条例には明示しないというやり方も全て否定するのはどうかと思います。 しかし、法律や条例に明記されていない要件を上乗せする場合、あるいは、条例で規定されていることを実質的に書き換えするような場合は、当然、条例に明示する、つまり条例を改正するなどの対応をしなければなりません。どうもこのことを全く理解していない職員が、かなり多い気がします。条例が陳腐化し、首長の方針とあわないからといって、それを骨抜きにするようなことを計画や内部通知で命じることは、条例無視であり、政策法務ではなく政策法無です。 しかし、どういうわけか、この理不尽な命令が、法的には何ら疑問をもたれないまま、通用しているというのだから、恐ろしいのです。
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政策法務の基礎理論(4) 今ごろこんなことを記事にするのは、どうかしているんじゃないかと言われそうですが、条例制定権の範囲と限界について、言及しておこうと思います。
憲法94条は、「法律の範囲内で条例を制定することができる」と規定しています。地方自治法14条1項は「地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて、第2条第2項の事務に関し、条例を制定することができる」と規定しています。これらの規定を踏まえて、条例は当該自治体の事務に関するものであること、法令の範囲内であること、憲法に抵触しないこと、の3点を満たすことが必要とされています。この中で、しばしば議論の対象になるのが、「法令の範囲内」の解釈です。 有名な徳島市公安条例に関する昭和50年9月10日最高裁大法廷判決が、現在に至っても、なお、法令と条例の関係についての判断枠組みとなっていることも、今さらのことです(実質的判断説)。意図的かどうかはわかりませんが、法令と条例の関係が争点となった下級審判例では、この最高裁判例に言及することを回避しているようにも思われるものもあります。 問題となるのは、法令の解釈をどうするのかということです。徳島市公安条例事件判決の枠組みに即して、法令の趣旨・目的・内容・効果を比較し、条例との間に矛盾抵触があるかどうかによって適法か違法かを判断するにしても、法令の解釈次第ということです。 お前に言われなくても分かっているとお叱りを受けそうですが、この基本中の基本をそもそも理解していない、あるいは、法令と条例の関係についての最高裁の判断枠組みすら知らない自治体職員は、想像以上に多いと思っています。自治体組織が人員削減による縮小化・弱体化が進行する中、政策法務の基礎理論すら無知のまま、重要条例案の作成を法制担当課に丸投げし、所管課長がろくに理解もしていなかったというケースがあったことを知ると、やみくもに条例制定に突っ走るような事態が、本当に市民の利益になるとは思われないのです。 新年早々、こういうことを記事にしたのは、自治体縮小・弱体化と政策法務の縮小・弱体化が連動していくような危機感を持っているためです。
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謹賀新年 あけましておめでとうございます。
元日は、昼前から初詣に出かけました。例年よりも参拝客は少ないのかなという印象です。なぜなら、境内の混雑ぶりがそれほどでもなく、比較的スムーズに御参りすることができたからです。これも不景気と関係あるのでしょう。 その後、以前にも記事にした、超大型ショッピングセンターに行き、食事と映画、それに買い物を少し。ここのショッピングセンターの混雑ぶりは、まだまだ衰えを知らないようです。 映画は「K−20 怪人20面相伝」を観ました。館内はほぼ満席状態でした。名探偵明智小五郎と怪人二十面相の戦いという基本的な構成はともかく、極端な格差社会である架空の都市が舞台となっているのは、昨今の社会情勢を意識したものなのでしょうか。内容は、面白かったですが。 帰宅すると年賀状が配達されていました。型どおりの挨拶だけのもののほか、「仕事に何かを求めるのは諦めた」と諦観を示す仲間も。それでも毎日平穏無事に過ごせるのだからいいと思います。 先行き不安な年明けですが、気合を入れて、頑張りましょう。
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