地方自治法は特別法の特別法? 地方分権改革推進委員会の第一次勧告において、「条例により法令の規定を『上書き』する範囲の拡大を含めた条例制定権の拡大を図る」などとしています。条例による法令の上書き権というものが制度化されれば、政策法務で議論されている条例制定権の拡大にとって大きな前進になると、政策法務推進論者たちは受け止めています。
問題は、法令で規定されている事項を条例で上書きできると、法律でどうやって定めるのかということです。とりあえず思い浮かぶのは、 1 個別法の条文を点検し、必要と判断されたものについて、上書きを認める規定を挿入する。 2 地方自治法で、包括的に、上書きを認める規定を導入する 1は省庁の抵抗でほとんど実現できないでしょう。やるとすれば膨大な条文を点検しなければなりません。2を採用すると、個別法で条例上書き権を認めない条文を各省庁が導入するなどして抵抗するかもしれません。国会がそれを呑気に可決すると、自治法の規定は空文化してしまいます。どっちもどっちということです。私は、どっちでもいいです。しかし、条例上書き権についての「理屈」については、シンプルに考えるべきだと思っています。 この点について、元自治省事務次官の松本英昭氏が、地方自治法に条例の上書き規定を導入すべきだと提案されたうえ、次のように述べられています。
松本英昭「地方分権改革委員会の「第一次勧告」と政府の「地方分権改革推進要綱(第一次)」を読んで」(自治研究9月号)からの引用です。 しかし、地方自治法の法的性格を、突如、特別法の特別法と妖怪のように変化させることには、かなり抵抗感を覚えます。そんなことが本当に許されるのかということです。しかも、松本氏の条文案は、次のようなものであり、わざわざ特別法の特別法と性格を変化させる必要性があるのか、疑問を持ってしまいます。
結局、最後に、「ただし書」で法律で条例の上書きを認めない規定を入れれば終わりということです。特別法の特別法だと言っておきながら、個別法=特別法で上書きを拒否できる余地を残しておくなら、わざわざそんな回りくどい、一般市民にとって理解し難いことを言う必要はないということです。 単純に、条例は法律の範囲内で制定できるという憲法94条の規定を根拠に、地方自治法という「一般法」において、条例の上書き権に関する包括的な規定を導入することは不可能なのでしょうか。上書き権導入施行時の既存法令は、上書き権の対象となる旨を改正法の附則に明記しておくことは必要かもしれません。自治体はこれに基づいて法令の規定が地域特性にそぐわないと判断すれば条例で法令の規定を上書きできるようにする。国が、条例の上書きを認めないと判断すれば、国会で地方自治法に基づく法令上書き権を認めない規定を導入する法案を提出すればいいわけです。市民にとって分かりやすい法律をつくるのが重要で、そのためには不要な理屈を創造することはやめなければなりません。もっとも、法制執務担当者からは、「立法技術的に難しい」という声が聞こえてきそうです。 <12月1日 記述を少し変更しました>
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公契約条例、提案される 兵庫県尼崎市
読売新聞29日付記事からです。 尼崎の公契約条例については、先月、記事にしたところでした。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-110.html 条例案そのものをみることができませんので、あくまで推測ですが、提案されている公契約条例の大きな論点は、この新聞記事にもあるように、最低賃金法を遵守しているが、条例には違反しているような企業を、条例違反を理由に契約を解除できるのかということです。 条例案を提案した議員たちが、法律と条例の関係について、例えば徳島市公安条例事件最高裁判決をはじめ、特に政策法務の分野で議論がなされている法理論をどの程度検討されてきたのか知りたいところです。最低賃金法は労働基準法10条の使用者に課された最低賃金に関する標準的なもので、かつ、最低賃金法9条、10条の地域別最低賃金についても、あくまで標準的なものだと解釈し、市が独自条例でこれを上回る最低賃金を定めることは法的に問題がないと理解されたのでしょうか。また、最低賃金をアップするならば、当然、契約額にも影響してきます。来年度予算は2月議会に提案されるでしょうが、この議員たちは条例との整合性をどのようにふまえて審議されるのでしょうか。単に、労働者を大切にするというメッセージだけでの提案ならば、無責任でしょう。 市議会と市長が公契約条例をめぐって、カンニングペーパーなしで丁々発止法律問題について議論すれば、麻生と小沢の党首討論よりははるかに面白いかもしれません。あり得ないでしょうけど。
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定額給付金、再考すべき
産経新聞28日付記事からです。1ヶ月ほど前に、給付金方式の減税というタイトルで記事を書いていますが、わずか1ヶ月でかなり様子が変わってしまいました。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-147.html まさか国・総務省・政権与党が、ここまで無責任で阿呆とは思いませんでした。こんなことして景気浮揚になるはずがありません。実施する市町村はまるで総務省や自民党の家来、いや、奴隷のように使われるということでしょうか。総務省や霞ヶ関の官僚が、市町村役場で給付金の事務を手伝うというならともかく、ああいう人は一般国民と接することを汚らわしいとでも思っているのでしょう。決してそういうことはいたしません。 2兆円もカネがあるのなら、この際、効果の薄いバラマキはやめてしまったほうがいいと思います。障害者自立支援法にもとづく1割負担のさらなる軽減、介護保険料の軽減、後期高齢者医療保険の軽減の3点に配分し、それでも余剰金があれば国民健康保険料の軽減にもあてる。現金のバラマキ、つまり不労所得というのは、人間としての自尊心を破壊し、勤労への真摯な態度を後ずさりさせるような気がしてなりません。それなら、「負担の軽減」という方式で実質的に手元にお金が残りやすくすることで、ほんの少し気持ちを楽にするような施策を採用するほうが良いのです。血税で障害者や高齢者の負担を少しでも軽減することになれば、現役世代としても少しは社会貢献したような気持ちになります。相互扶助というのは、そういうものでしょう。貰うものは貰うが、応分の義務は果たさないといった卑しい乞食根性が広まらないようにしなければなりません。
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中央分権としての道州制
時事通信社26日付配信記事からです。 国や都道府県は、市町村合併には熱心ですが、道州制となるとかなり慎重なようです。都道府県知事らにすれば、ポスト削減、議員削減、そして職員削減など、かなりの影響が生じるため、表向きはともかく、内心は先送りしたいというのがホンネではないでしょうか。そんななかで全国町村会が道州制反対を公式に表明したことは、都道府県にとっては渡りに船の気分だろうと思います。 現行の47都道府県を広域化し、8つほどの道州にした場合、それが果たして憲法が予定している地方自治体と言えるのかどうか、確かに抵抗感があります。現在の都道府県でさえ、人口が数百万となれば、普通の市民が都道府県政を意識し、これに参加することは極めて限られているわけです。私も生まれも育ちも同じ県ですが、いまだに県知事のお顔をじかに拝見したことがないのです。選挙のときでさえみる機会のない自分たちの代表というのは、おかしなものです。 ではオマエは道州制に反対なのかと問われることになります。どうせなら、地方自治体としてではなく、政府機構の一つとして道州制を設置すればどうなのかということです。国−地方という相対立するようなものとしてではなく、今までとは異なる別の枠組みを設計し、新たな国のかたちとしての道州制を考えることはできないものなのかと思っているところです。 こうした考えはなかなか煮詰まりませんが、問題意識として、現在の都道府県の実態が、(会計検査院によって補助金不正経理が判明したように)市民の監視が行き届かないということ、行政執行についても国の言いなりにしている団体も少なくないことなどから、そもそも本当に国と対等独立した地方自治体なのかという不信感を強く持っているのです。それならいっそうのこと、都道府県を廃止し、新しい政府機構としての道州制を導入し、中央集権ではなく中央分権とし、市町村を中心とした地方分権と並存させるようなことを考えてもいいのではないかと思っているわけです。ものすごい荒っぽいものですが、現在の都道府県制にも疑問、議論されている道州制もイマイチということからの発想です。
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教育討論会 大阪府
朝日新聞24日付け記事からです。 1700人も参加する討論会というのは、橋下知事の発言問題という影響を差し引いても、大阪府民の教育問題への関心の高さを窺知できます。 競争一辺倒の教育が良いとは思いませんが、全国学力テスト結果の市町村別公表が、なぜ、過度な競争をあおることになるのか理解できません。学力テスト結果が悪い場合、当然、毎年、議会から追及を受けることになります。教育委員会にすれば、そうした対応に追われることが面倒なだけではないでしょうか。結果を公表しないで、学力向上政策を実施するための予算などを、どうやって議会に説明するのか?それを議会がすんなりと受け入れるとなれば、議会そのものが怠慢だということになります。 荒れている子は、自分がわからないことに苦しんでいるという、分かったような分からないような府教委委員の発言は、何としてでも教育に競争を持ち込ませないような論法のように思われ、そこに根強い悪意さえ感じます。荒れている子というものを人質にして、ともかく競争させようとしないという考えなのでしょうか。「教育」とか「学力」というものを都合よく意味を改ざんしているのです。 現実問題として、進路指導で有名校に進学するのか、三流校にしか進学できないのかを決めるのは、中高とも3年次ですが、それまでの間に競争というものをまったく知らないまま過ごさせることのほうが無責任です。
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裁判員制度への不安、誤解
中国新聞4日付記事からです。 来年5月から始まる裁判員制度ですが、法曹界においてもいまだに異論反論があるようです。個人的に裁判員制度に期待しているのは、法曹業界内部の常識が崩壊することです。弁護士会は検察や裁判所を批判・非難し、検察・最高裁も相互に牽制しあっているのですが、一般市民が裁判員として加わることで、法曹業界の常識や構図が変革し、本当に国民本位の司法になれば良いと思っています。 では、国民本位の司法とは何かとなりますが、この記事にもあるように、裁判官が無罪判決を出すと出世できないといった、およそ市民常識では考えられない人事システムが改革されること、逆に、過去の判例の相場で構築された量刑が通用しなくなり、残虐非道な犯罪者には厳罰を下すことに躊躇しなくなること、といったことです。 裁判員制度については、おそらく、裁判官、検察、弁護士の法曹業界が皆、それぞれの立場でいろいろ意見を主張しているようですが、一様に嫌がっていることは間違いないでしょう。事実認定、法令の適用、量刑の決定といった、刑事裁判のシステムを支えてきたという法曹としてのプライドが、素人市民によってズタズタにされてしまうことへの危惧とも言えるかもしれません。沖縄弁護士会会長が言うように「推定無罪」への理解を裁判員がせず、厳罰化に拍車がかかるという可能性は、否定しきれないでしょう。 一方、マスコミ報道から、まるで裁判員が判決を言い渡すかのような誤解を招くものが見受けられます。中でも、死刑廃止を主張する朝日新聞などは、裁判員によって死刑が激増することを抑止したいのか、「あなたは死刑判決ができますか」などといった「脅し」の報道をしています。しかし、これはおかしいのではないでしょうか。裁判員は評決は行いますが(裁判員法67条)、判決を言い渡すのは、あくまで裁判長裁判官です。裁判員が判決を言い渡すかのような錯覚を与えるような報道は、いたずらに裁判員制度に対する不安を煽るものであり、適切な報道とは思えません。
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服装で高校不合格は違法か−神奈川県立神田高校−
神奈川新聞5日付記事からです。 学科試験について合格水準にありながら、服装や髪型、態度などが悪いとして不合格にしていたというのは、この高校はかなり生徒指導に苦労されている学校のようです。いわゆる、「底辺校」なんでしょう。 私も「底辺校」の卒業生ですが、入試の段階では合格しても、入学後の服装、髪型、生活態度などは厳しい指導がなされ、同級生の中には留年や退学をした者も何名かいたと記憶しています。入学後の生徒指導の負担を軽減するために、いわば「玄関口」で門前払いをするのであれば、そういうルールを策定し、公表すべきだったのです。しかるに、この学校の対応は「手抜き」という印象です。いったん入学したら、なかなか退学処分には踏み切れないという事情もあるかもしれませんが、むしろ学校の規則に違反するような生徒は遠慮なく退学処分にすればいいわけです。不真面目な生徒のために教師が労力を費やされ、真面目にやっている生徒の学習権がないがしろにされていることが問題なのです。早い話、学校運営のあり方を変革すればいいのです。ルール違反には厳しい制裁があり、そのことで人生設計自体が狂ってしまうということ、それは全て自己責任であるということを高校生くらいの段階で徹底しておかないと、後々、自己責任というものを軽視する大人になってしまう危険性があります。 ただし、底辺校での教師たちの苦労も軽視できないのも事実です。このような「ルール違反」をした校長が解任されたことに対して、擁護する声が多いことも理解できます。神奈川県教委は、ことなかれ主義に終始するのではなく、より有能な校長を配置し、底辺校からの脱却に全力を注ぐようにすべきです。
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県民投票条例の実施可能性
時事通信社20日付配信記事からです。 私の理解では、神奈川県は情報公開条例発祥の地であり、地方分権・政策法務の先進自治体でもあります。そして、神奈川県が自治基本条例を制定することについても、好意的に受け止めています。 しかし、県民投票条例となると、果たして実施できるのか疑問が生じます。この点、すでに北村喜宣教授(上智大学)が、自治実務セミナー11月号の「よりみち環境法」の中で指摘されています。北村先生のご指摘を要約すると、次のようになります。 1 県選管の組織では、直営的実施は無理。したがって市町村選管が実施することになる。 2 旧地方自治法153条2項による機関委任事務が廃止された以上、県が市町村に県民投票の実施を義務付けることはできない 3 県は市町村と契約を締結し、相応の費用負担をしたうえで実施することになる。 しかし、問題はここからでしょう。北村先生の指摘は続きます。 4 契約である以上、市町村に実施拒否の自由がある 5 県と市町村の利害が対立する場合、市町村の協力は得られない 6 市町村の財政支出がある場合、それを違法と考える市町村民が支出差止を求める住民訴訟が提起されるかもしれない 7 民意を代表していると自認する議会の反発もある。上記の諸点を議会から指摘された場合、知事はどう答弁するのか。 私見は、住民投票というのは、市町村ならではのものだということ。県レベルで実施となれば、莫大な経費を要します。潔く条例案を撤回されることをお勧めします。
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公金支出差止め 那覇地裁
中日新聞19日付夕刊記事からです。 自治体の公金支出を差し止めるという判決は、改正前の行政事件訴訟法であれば、ほとんど認められなかったと思います。裁判官というのは、条文があると「安心して」判決を出す習性があるということが理解できます。 行政計画の処分性を認めた最高裁判例が9月に出されたのは記憶に新しいところです。こうした裁判所の中での「空気の変化」を、この裁判官もある程度理解しているのかもしれません。 問題は、原告側の弁護士の方がおっしゃっているように、自治体が控訴すれば、判決が確定しないため、公金支出がなされることでしょう。
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介護報酬アップ、期待できない
産経新聞17日付記事からです(一部省略)。 介護保険制度の根幹を支えている現場の職員の待遇の悪さというのは、確かに早急に改善すべきだと思います。せめて平均的な労働者の賃金並にすべきですが、一般的に、そうなると介護保険料など負担が激増すると言われています。労働者に適正な賃金が支払われていないということは、介護事業所そのものの経営も苦しく、経営者の収入も同様に低いはずです。 しかし、おかしなことに、都市部では介護事業所は過剰なほどあります。人口が多く、それだけ需要があるということでしょうが、介護保険制度をそれほど理解していないような経営者が金儲けだけのためにやっている例も多いと認識しています。つまり、経営者はかなり儲かっているということではないでしょうか。介護保険制度創設時、保険あってサービスなし、ということが危惧されていましたが少なくとも都市部では杞憂に終わっています。事業所に相当な利益を得させるような仕組みがあると思っているのですが、どうでしょうか。 先日、某人気テレビ番組で、有名人が描いた絵をオークションにかけ、売上金をカンボジアの学校建設に使うということをやっていました。その中で、老人ホーム経営者がある有名人の絵を数百万円で落札していた様子が放映されていました。普通に買っていれば、そんな高額にはならないだろうと思います。その老人ホーム経営者は数百万円の絵をキャッシュで買うだけの余裕があるということです。そんなにお金が余っているのなら、カンボジアの子どもを助けるといった見栄を張る前に、自分の経営する施設で働く職員たちの激安の給料を少しでも改善しようとする考えはないのかと憤りを覚えたところです。また、何よりも、老人ホームというのは、やはり儲かっているということを強く認識できたシーンでもありました。経営者として社会貢献したいという気持ちはいいとしても、何よりも従業員の生活向上が経営者の大きな使命であり、今の時代は、それ自身、社会貢献ではないのかと、テレビをみながら思ってしまったわけです。 こういうものを観てしまうと、公金を投入して介護職員の給与アップを図るだけではなく、ボロ儲けしている経営者の利益を使って給料をアップさせるようなことを国家として行うべきではないかとも思ってしまったのです。
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自治体コンプライアンス(4)−ムシとカビ− コンプライアンスに関する文献は多数ありますが、ほとんどが企業におけるものだと思います。しかし、企業も自治体もコンプライアンスが要求されることは共通しており、企業コンプライアンスに関する知見は、自治体コンプライアンスにも転用できるのではないかと思います。
私が読んだコンプライアンスに関する文献として、最も参考になったのが、郷原信郎『コンプライアンス革命』(文芸社、2005年)です。著者は元検察官で、桐蔭横浜大学法科大学院教授で、コンプライアンス研究センター長となっています。本書の中で、印象に残ったものとして、表題にしているムシとカビに例えた記述があります。
これは、アメリカ企業を前提とした記述ではありますが、おそらく、アメリカの政府や自治体も類似のものだろうと推測されます。しかし、日本の自治体はトップダウンは例外で、ほとんどがボトムアップ方式による意思決定であることは、言うまでもありません。
引用箇所は50頁から51頁です。この記述は、自治体における不祥事防止策、コンプライアンスというものを考えるときに最も示唆的ではないかと思っています。しかし、いざ解決策を提案せよと言われると、なかなか難しいのも正直なところです。 この数年、自治体での違法行為と言えば、公費乱脈、偽装請負、公金横領、そして偽計業務妨害と多岐にわたっています。何よりも、一見、バラバラの組織で、バラバラの個人が、バラバラの違法行為をしているので、それぞれが無関係なようですが、いずれも関連性があるということになるわけです。福祉事務所での不正も、建築部での不正も、出先職場での不正も、同じ市役所内での違法行為であり、バラバラのものと理解することは誤りだということです。 先日発覚した、兵庫県尼崎市における偽計業務妨害についても、単に個人の違法行為として理解するだけでは不十分です。しかし、市長や幹部にすれば、構造的な問題があるとは、到底認めたくないでしょう。それは、市長や幹部が組織を掌握していないことを白状することを意味するからです。したがって、奥深くまで腐食が進んでいるカビであるにもかかわらず、またしても表面にバンソウコウを貼り付けて終わりにしようとする過ちをするのではないでしょうか。
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市町村合併の功罪 公職研から出版されている、地方自治職員研修臨時増刊号88『合併自治体の生きる道』は、市町村合併に関する論稿が16本収められています。合併に関する最新文献の1冊になると思います。
さて、1995年に3,234市町村だったところ、2006年3月末に1820市町村に、そして2008年4月の時点で1788市町村にまで減少しています。政府目標は2010年3月末までに1000市町村にするということです。これは無理にしても、かなり近づくことは確実だと思います。また、市町村合併は、多くの町村の市化であると考えることに抵抗感はありません。 合併の利点として、財政基盤の充実強化があったはずですが、実際には合併特例債を使って身の丈以上のハコモノ整備をしたため、かえって財政悪化がひどくなったという自治体も多いようです。合併特例債では7割を交付金措置するという触れ込みだったのですが、三位一体改革で雲散霧消したため、借金だけが残ってしまったというのも大きな原因です。これは国の責任でもあるわけです。 実のところ、市町村合併については、幸か不幸か、住んでいる市も、勤めている市も、まったく取組みがなされていないので、それほど関心がありません。しかし、今後は、人口20万以上の市であっても、例えば近隣の政令市との合併などで、超巨大政令市が誕生するような事態もあり得るのではないかとも思っています。
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自治体コンプライアンス(3) 偽計業務妨害−兵庫県尼崎市で発覚−
神戸新聞13日付記事からです。 コンプライアンスについては、すでに2回記事にしており、便宜上、これを(3)としておきます。 http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-5.html http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-29.html 偽計入札妨害というのは、自治体契約の現場で、しばしば表面化するようです。この尼崎市の事件は、卸売市場での清掃業務委託契約をめぐるもので、出先職場での「偽計業務妨害事件」です。(誤っていたので訂正します)監視の行き届きにくい場所での違法行為ということになります。 逮捕された尼崎市職員たちと事業者との間で、金品の授受はなかったのでしょうか。要するに、職員個人にとって何もメリットがないのに、特定業者に有利な取り計らいをするということは、やや不自然なように思います。仮に、贈収賄の事実がないとすれば、事業者が何らかの政治的背景を武器に、職員に圧力をかけていたということが想像できます。これに対して、尼崎市は職員個人レベルでの対応に任せきりにし、組織的対応を怠っていたとのではないでしょうか。 違法行為が表面化してから、いろいろ騒ぎ出し、改善策なるものが講じられるのですが、往々にして、小手先による形だけのものになってしまうようです。コンプライアンスとは、一般に「法令遵守」と訳されています。しかし、形式的、外形的に法令を遵守しているように装っていればそれでいいという考え方が、共有化されているような印象です。このような考え方が存在すると、違法行為が表面化しても、法令遵守がなされていたかどうかを検証するだけで、なぜ法令の目的に反する違法行為がなされたのかは、決して検証されることはないでしょう。コンプライアンスに対する誤った理解や根底にある職員たちの損得勘定優先の思考が、その大きな要因だと思っています。
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関東大震災発生を希望する兵庫県知事
朝日新聞11日付記事からです。 仮に、首都圏に巨大地震が発生すれば、日本の政治・経済は大打撃を受けるでしょうし、これ幸いにと言わんばかりに、無法国家・中国が日本の支配・統制にかかってくることも考えなければなりません。関東大震災が発生したら、関西にとっても危機であり、国家としての存亡にかかわることになりかねないわけです。関西のチャンスなどというのは、あまりにも理解力に欠けています。 阪神淡路大震災のとき、全国から支援を受けたことを、この知事は知らないのでしょう。副知事になったのが震災の翌年、知事になったのは01年からですから、震災の怖さ、苦しさというものを体験していないのでしょう。だから、こんなお気楽なことが言える。当時、首都圏の方たちからも絶大な支援を受けていることは、多くの人が知っているはずです。都知事に対する意趣返しだと解釈する人もいるようですが、災害の発生を期待するような発言をするという首都圏の人たちを馬鹿にするような、この知事の資質がいかなるものなのか、官僚出身の天下り知事だからこそのものなのでしょうか。
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法学博士は3割未満 以前にも記事にしたことがある、博士のNさんと、また、意見交換する機会がありました。
http://seisakuhomu.blog19.fc2.com/blog-entry-58.html Nさんによると、大学法学部教員で博士号取得者は3割未満とのことです。もちろん、博士号を取得しているから必ず有能な教員とは限りませんし、学位がなくても多くの業績を残されている方もいらっしゃいます。しかし、それでも法学博士号の取得というのは、なぜ、殊更、難しいのでしょうか。博士号の価値を維持するための政策的意図があるのかどうか。部外者の私には、まったく分かりません。 Nさんの悩みは、修士課程時代にお世話になった教授に、学位取得の報告ができないということのようです。なぜなら、その恩師が学位を取得していないからだということで、やはり妬み、嫉妬などが生まれないわけではないということです。もちろん、以前の記事にも書いたように、職場の上司に知らしめるなどというようなことは、もってのほかでしょう。 そう言いつつも、Nさんは、私に学位取得を検討してはどうかと勧めてくれました。簡単に取得できないと教えてもらった直後に、そんなことを勧められても、萎えてしまいます。
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「改め文方式」VS「新旧対称表方式」 先週の研究会後の懇親会の席上で、話題になっていました。法制執務については、私は、今や素人同然なのですが、「改め文方式」と「新旧対称表方式」については、現在も、なお、改め文方式が優勢であることに大きな変化はないようです。
長年にわたって、国、自治体ともに、改め文方式を継続してきたこともあり、主として法制執務関係者からは、アンチ新旧対称表方式という意識が根強いようです。これに対して、アンチ改め文方式あるいはアンチ従来型法規事務の立場の人は、新旧対称表方式の採用を主張しているという、一応、単純な分類が可能かと思います。 法制執務に長年従事されている人たちにすれば、いわば「伝統」を守り続けたいという意識が、おおかれ少なかれあると思います。新旧対称表方式に対して、立法技術的な側面からクリアが困難な点が少なくないことを主張し、従来の改め文方式の合理性を主張しているのは、その懇親会の席上でも同様だったと思います。 私としては、現時点で、どちらに与するのかは判断しかねるところですが、ただ、改め文方式に対して、ケチをつけるとするならば、特に議会での審議対象となる条例の改正案について、議員が正式な議案として提出されている条例改正案、すなわち、改め文方式で作成された条例改正案だけを読んで審議ができるはずがないという疑問です。参考資料などとして添付されている新旧対称表などを読まない限り、議案書だけで審議ができるとは到底思えないのです。つまり、市民の代表である議員が読んで理解できないようなものを、ごく当たり前のように議案となっていることに、誰も不思議がらないことが理解できないということです。当然、一般市民が改め文方式の議案を読んで、理解できるはずはありません。 そうなると、改め文方式を維持したいということのホンネの中には、技術的な困難性を根拠にしつつも、法制執務という職域を守りたいという意識がかなり色濃いのではないかという印象を持ってしまうのです。あるいは、法律にせよ条例にせよ、できる限り分かりにくくして改正しようとする姿勢が、法制執務というもののなかに浸透しているという理解も可能ではないでしょうか。そして、そうした考え方の人たちが優勢となっている現状で、アンチ改め文方式である新旧対称表方式の技術開発というのは、なかなか進まないのではないかという見方をしているわけです。
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格差問題、団塊ジュニアの意見 昨日、政策法務の研究会が終わった後、研究会場のすぐ近くにあるホテルで懇親会を催しました。研究会の参加者には、数年間の民間企業での勤務を経て、社会人採用として某市役所職員となり、法務担当をしている人が2名いて、話をする機会に恵まれました。2人とも年齢は30を超えているため、年代的に団塊ジュニアであり、かつ、今、世間を賑わせているニート・フリーター・ワーキングプアの世代になります。
いずれも超一流大学法学部を卒業し、保険会社等での勤務経験があるようですが、昨今の格差社会論について、感想を聞いてみました。彼ら曰く、この年代は段階ジュニアで子どもの頃から競争が厳しかったこと、その上に就職氷河期にぶち当たったため、かなり運の悪い世代であるという認識を示され、その点については私も同じでした。 席上、私は、格差論が弱者擁護に偏っていること、例えば就職氷河期でもきちんと正社員や公務員になっている人が存在していることを前提に、格差論者は、そういう人たちを単に「運が良かった」としていることに強い憤りがあると述べました。そういう意見に対して、君たちはどう思うかと聞きたかったわけです。運だけで一流大学法学部に合格し、運だけで卒業し、運だけで一流企業に就職でき、また、運だけで公務員試験に合格したのか、と。そんなわけがないだろうということです。二人とも同調してくれたのは、言うまでもありません。運が良かったという論者は、真面目に努力してきた者を余りにも馬鹿にしており、かつ、失礼千万な話だと主張しました。 横で聞いていたベテランの某市職員が、「しかし、障害者などの社会的弱者がいることは事実だろう」と述べられました。これに対して、私も、「もちろん、真に社会的弱者と呼べる人が多く存在していることも分かっている。しかし、今の格差論は、ロクロク努力もしないで、結果として思い通りの人生になっていない現状を、自己責任を棚上げし、すべて社会や国、あるいは家庭環境のせいだとしていることで、真の弱者にそういうエセニセ弱者が便乗して、混合していることが問題である」という認識を示しました。ベテランさんからは、「その論理になると、弱者は死ねということかと反論されるんじゃないのか」と言われましたので、「自分の人生の責任を社会や国や親や他人のせいにするなということであり、死ねと言うことかと問われれば、死ねということである」という返答をしました。この「死ねということか」という論法は、エセニセ弱者がよく使う言い分であることは、かなり広く知られていると思います。しかし、他人である私から死ねと言われて、「はい、わかりました」と言って死ぬ奴はいないでしょう。結局、自分の命を安っぽくして、何とかして自分たちの要求を呑ませようとする薄汚いやり口になるのです。 その2人の某市法務担当職員たちも、自分たちが積み上げてきた努力というものに、相応の自負を持っておられるようでした。年長の方が、「就職氷河期といっても、全ての企業や官公庁で採用がゼロであったわけではない。やっぱり努力の結果だと思っている」という趣旨の発言をされたことに、私としては安堵したわけです。団塊ジュニアをすべてくくって、あたかも全員が同じ努力をしているのに、不幸な結果を招いているといった格差論には、到底同調することはできないのです。
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決して他人事ではない「事例から学ぶ住民訴訟」 政策法務に関する研究会でいただいたものです。財団法人大阪府市町村振興協会が発行している平成19年度共同研究報告書です。「訴訟対応研究会」として、大阪府内の市職員たちによる共同研究の成果で、自治体を取り巻く訴訟の現状分析、住民訴訟の判例45件について見開き2頁で簡潔・明快に整理し、訴訟の予防策のポイントも記述されているというスグレモノです。
この研究会のメンバーで、自治体職員でありながら、なんと司法試験に合格した人も誕生しているとのことです。そのような話を聞いただけでも、相当ハイレベルな議論であったことが想像できます。時事通信社から一般販売もされているようですので、住民訴訟の基礎文献として、一読されればと思います。
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下手な芝居で生活保護
読売新聞6日付記事からです。 生活保護540万円の不正受給で懲役たったの4年です。こういうのをみると、生活保護で不正受給が蔓延するのは、当然でしょう。生活保護不正受給の刑罰をもっと厳正にしないと。 さらに問題なのは、この詐欺師が出所(文字どおり刑務所から出ることです。福祉事務所から他の部署に人事異動で配転されることではないです)すれば、また、ノウノウと生活保護を受けることができるという仕組みも、普通の感覚からは理解しがたい。生活保護法そのものが、反社会的性質を帯びたものだと考えることに抵抗感がないのは、こうしたことも踏まえてのことです。現在の生活保護法は即刻廃止すべきだという私の考えは、この数年間、いささかの変化もありません。また、「善人」を前提に作られている現在の福祉法制全体を見直すべきだという議論が沸騰してほしいものです。 もちろん、下手な芝居をしているのは、この詐欺師だけではありません。全国津々浦々、相当な数の詐欺受給者が跋扈していると認識しています。常日頃から「下手な芝居をするな」と言いたいのを我慢している福祉事務所職員は、この裁判官に敬意を表するでしょう。
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六法、どれを使うか? 毎年この時期は新年版の六法が順次発売されています。どの六法を選ぶかについては、個人の嗜好、必要性、慣れ、価格など、いろいろな要素があるかと思います。
法令集=六法については、私の場合、この10年くらいに限ると、私用では有斐閣の「小六法」と「ポケット六法」を購入してきました。理由は、小六法はやや細かい行政法規も収録されていたこと、ポケtット六法はハンディであり、使い慣れていることです。もちろん、仕事上の必要から特定の行政法規の条文を確認するときは、その分野に特化した法令集が職場にあれば利用し、必要に応じて総務省の「法令データ検索システム」でカバーしています。 残念ながら、「小六法」が平成19年版を最後に廃刊となったため、「後継者」をどれにしようかと悩んでいますが、結局、決められないままでいます。毎年3月下旬に発売される有斐閣の「六法全書」は概ね2年ごとに購入しています。法規担当でもない限り、職場で毎年六法を公費で買ってもらえるところは少数でしょう。 今年は、久しぶりに判例付六法を購入しました。三省堂の「模範小六法」です。以前は、「コンサイス六法」という名称だったのを改名したようです。判例付のものを購入したのは、おそらく20年ぶりくらいでしょうか。 このほか、一応、政策法務の研究をしていることになっているため、条例集も必携です。第一法規の「行政課題別条例実務の要点」も購入しています。これは加除式で、年間2,3回は加除があり、結構お高くついています。 毎月の専門誌、気まぐれで購入する専門書などを含めると、年間の書籍代は20万円を下ることはないでしょうねえ・・・給料が下がっていく時代ですし、少し見直したいのですが・・・
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