リアル「再生の町」(中編その2)

 この頃、前市長はよく「今がチャンスや。なんぼでも事業せえ。金が無いんやったら、なんぼでも取ってきちゃる」と言っていました。当時、本市は、大阪で一番忙しい市とまで言われていたように、一部の人間を除いて、確かによく仕事をしていました。今では考えられないことですが、前市長自らが「ウチの職員はよう仕事する」と自慢していたぐらいです。ほとんどの職員が、北高南低と言われている大阪の勢力図を変えようという自負を持って仕事をしていたように思います。しかし、身の丈をはるかに超える事業を無理に進めたことは、後々、財政上の問題だけでなく、職員のモラールに大きな問題を残すことになったのではないかと思っています。
 膨大な量の事業は、仕事をする人間としない人間との間に、大きな差を生むことになりました。それは、事務量の差ではなく、能力の差と言った方が適切かもしれません。しかし、別の見方をすれば、前市長の強力なリーダーシップの下で、闇雲に仕事をさせられていただけであって、誰一人として、前市長に逆らうことは許されませんでした。また、この頃の職員研修というと、国際化と人権ばかりでした。昼休みには、誰も聞いていない英会話を庁内放送で流すようなことまでしていましたが、基礎的な法律や行政実務の研修は、まったく実施されていませんでした。市長がすべてであるかのような仕事上のスタンスと現実からかけ離れた観念的な研修は、職員が地方公務員として必要な事務能力を低下させ、また、様々な行政課題に対し、自ら考え、政策を企画立案し、実行していく能力をも低下させることにつながったのではないかと思っています。
 当然、予算配分も偏ったものになっていました。内部管理的な事務には、ほとんど予算もつかず、ほったらかしの状態でした。ちなみに、自分が文書法規を担当するようになった平成8年度の当初は、行政手続条例も制定されておらず、行政文書のA4判化も実施されてはいませんでした。
 新空港は、平成6年9月4日に開港しました。しかし、バブル景気は、既に終わっていたのです。にもかかわらず、本市だけは、まだまだ祭りの真っ最中でした。
 それから数年後、庁内で実は本市の財政が壊滅的な状況ではないかといううわさが流れ始めた頃、市長選挙で、6期24年にわたって神のごとく君臨した前市長が敗北するという大事件が発生します。

投稿者 おおさか政策法務研究会管理人 : 20:45 | その他

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