−管理人のたわごとブログ− リアル「再生の町」(前編)
本市は、大阪府南部の泉南地域に位置する、人口約10万人、面積約50平方キロメートルの市です。「タオルとたまねぎのまち」であった本市が、「世界の迎都」と称するようになったあげく、現在の危機的な財政状況を招くことになる最大の原因は、平成6年に開港した新空港に関連した過大なまでの設備投資にあります。
「市議会五十年史」で新空港建設に至る当時の様子を見ると、昭和45年6月定例会で「新空港設置反対の決議」を賛成多数で決議しています。これが、新空港に対する市議会としての最初の意思表明です。初めから新空港建設に賛成していた訳ではないということが分かります。ところが、早くも翌年の12月定例会では、「新空港誘致についての請願」と「新空港誘致に反対する請願」とが提出され、特別委員会を設置し、閉会中の継続審査に付しています。その後も、新空港誘致賛成、反対の請願が続出し、昭和49年3月定例会までには、合計37件もの請願が提出されることになります。新空港の誘致を巡って、苦悩している本市が想像できます。結局、航空審議会の結論が出ない中で、同年5月には市議会議員選挙を控えていたことから、この定例会ですべての請願を審議未了にしています。そして、同年8月には、航空審議会が「新空港は、大阪国際空港の廃止を前提」として、「泉州沖、神戸沖、播磨灘」の候補地のうち、「泉州沖が最適地」とする答申を提出します。その後も新空港関係の請願が相次いで提出されますが、この答申があってからは、徐々に新空港を歓迎する雰囲気が出来上がっていきます。その理由は、当時の本市の財政も危機的な状況にあったからではないでしょうか。新空港の建設に本市の未来を賭けたのではないかと思うのです。
一方、この頃の本市の行政は、混乱を極めていました。危機的な財政状況と新空港を巡る意見の対立に加え、当時の民生部長が収賄容疑で逮捕されるという事件や、同和行政を巡って市庁舎が占拠されるといった事件が発生します。こうした中、前々市長が、昭和51年1月、健康上の理由から任期半ばで退職し、同年2月に前市長が就任します。この前市長が、6期24年にわたってらつ腕を振るい、神様のごとく本市に君臨し、後に「国と府に1兆円の投資をさせた」と豪語することになるのですが、現在の評価は、芳しくありません。本市が財政健全化団体になった原因を作ったのは、この前市長であるというのが、その理由です。しかし、個人的には、政治家(市長)としては優秀な人物だったと思っています。よからぬうわさもありましたが、就任当時の数々の問題を解決し、新空港建設を前提としたまちづくりへと本市を導いた手腕は、大したものだと思います。
昭和56年3月定例会では、新空港問題で議場へ警官隊が出動するという事件もありましたが、前市長は、着実に新空港を推進していきます。昭和55年3月定例会では、新空港関連の地域整備計画の核として、埋立地によるユートピア計画について前市長が答弁していますが、それによると、新空港建設によって、12万人から18万人の人口増、そして120億円から180億円の税収増を予測しています。
最近、「無駄な公共事業を中止する」というキャッチフレーズをよく目にします。個人的には、100パーセント必要な公共事業もなければ、100パーセント無駄な公共事業もないと思うところですが、新空港建設は、当時の本市にとっては、かなり高い確率で必要な公共事業であったと思うのです。
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