法 律 書 感 想 録 <2001年−2005年>
<2005年版>
藤田宙靖 著 「行政組織法」(有斐閣、4,310円)ご存知のとおり、著者は東北大学名誉教授で、現役の最高裁判事です。行政法学会きっての理論家としても知られていますし、第1次地方分権改革に際しても専門委員としてご活躍されたことは記憶に新しいところでしょう。本書を読めば、随所に「理論的には」「理論的に言えば」などといった言い回しが多用されており、行政組織法の理論書としての性格を色濃く出そうとされていることが理解できます。実際、非常に理論的な記述が多いと思います。
行政組織法の理論を論述する姿勢をより明確に知らしめるのは、行政組織法の基本概念である「行政機関」について「理論的意味での行政機関」と「制定法上の行政機関」に分類し、前者について、少し回りくどいくらい「理論的に」記述していることからも理解できます(28頁〜32頁)。また、「制定法上の行政機関概念」についても、理論的意味での行政機関とは異なり、むしろそれらの多くのものによって構成された、一種の組織体であり、このような組織体に法律上一定の権限と責務が与えられれば、その組織体は理論的意味での行政機関としての性質を持つことになるとされています。ただし、現実には理論的な行政機関概念と制定法上の行政機関概念がきっちりと整合性を有した状況ではないことから、こうした議論が生じるのではないかと思いますし、実際、本書においても、行政機関概念の総括として、わが国の行政法でいう行政機関とは、行政組織の部分を成すものであって、何らかの法規範的観点からして有意義であるとして切り出された単位という、非常に抽象的な表現が用いられています。
さらに、行政組織法上の法関係について、行政主体の客観法的地位という概念を提示され、これに伴う諸論点について論じられています。客観法的地位とは、行政主体が他の行政主体との間において、法律による行政の原理を基軸とする行政作用法の制度と法理によって保護されない法的地位に立つ場合であり、これが従来行政組織の「内部関係」と称されてきたものであり、行政組織法の一部を成すものであるとされています。行政組織法の法理論を行政作用法との比較において定義していると思われます。全く初めて行政組織法を学ぶ方が読めば、頭の中が混乱して訳がわからなくなるかもしれません。私も何か迷路にさまよいこんだような感覚になってしまいました。
さて、第1次地方分権改革によって導入された諸制度について、藤田氏がどのような態度を持っていらっしゃるのかは、第3編第2章にほぼ記述されているようです。現役の最高裁判事という立場を考慮され、真正面から批判したり、擁護したりとすることは回避されつつも、第1次地方分権改革を高く評価するような記述は見受けられず、一方で関与制度、国地方係争処理委員会などは国側の譲歩を得るためにやむを得なかったという趣旨の記述があり、十分な成果を得られなかったというホンネが見えてくるような印象です。
学会の泰斗が現在の行政組織法を巡る理論的諸問題を体系的かつ詳細に論じた文献だと思います。もう少しじっくり噛み砕いて読了すべきだと反省しています。(05.12.25記)
國廣正・五味祐子 著 「なぜ企業不祥事は、なくならないのか」(日本経済新聞社、1,680円)著者は企業法務を専門とする弁護士です。民間企業の危機管理に関する、著者の長年に渡る実務経験に裏打ちされた文献であり、自治体の危機管理、公務員倫理などを考える場合にも大いに参考になると思います。自治体もコンプライアンス経営が求められている時代において、いかにして不正を防止し、不正発覚時においても被害を最小限にとどめる方策を講じることができるかは、重要な政策法務上の課題であると思います。
コンプライアンス経営という言葉は流行語になっていますが、企業が法令や各種のルールを遵守して法令違反行為を防止することこそ、企業がリスク管理をし、生き残るための必要不可欠のシステムであると主張されています。現在問題になっている耐震偽造マンション問題などは、建築会社がいかにコンプライアンスというものを軽視しているか、その代表的事例であることに気付くでしょう。山一證券、三菱自動車、牛肉偽装事件、あるいはプロ野球球団の合併問題と選手会ストライキなどなど、多くの人がご存知の社会問題は、ほぼ全てが企業のコンプライアンス体制の不備を実証しているものだと考えられます。
企業不祥事が発生し、危機に陥るのか、なぜいつまで経っても企業不祥事はなくならないのかという素朴な疑問は誰でも持っていることでしょう。まず、本書では企業に危機をもたらす社会的要因として、@日本的風土としてのタテマエ論、A現状認識の欠如、Bリスク管理という発想の欠如の3点を挙げています。そして、大きな事故の背景には、多くのルール違反行為が存在していることが多いのです。こうした考え方は、ハインリッヒの法則という労働災害に関する統計学上の原則からも論証できます。1件の重大な事故の背景には、29件のかすり傷程度の事故があり、事故には至らないが「ヒヤリ、ハッと」する事例が300程度あるというものです。企業には不正や事故は起こりうるものだという認識を社内に浸透させ、そうした危機の芽の土壌や企業風土を組織として検証することが重要であると説いています。企業不祥事は「あってはならない」という思考に呪縛されると、結局は隠蔽工作に走ってしまい、より大きな危機を招くことになるのです。こうしたことを防止するのが、コンプライアンス経営といえるでしょう。
自治体のコンプライアンスを考える場合も全く同様でしょう。政策法務の立場からはコンプライアンス条例を制定することなどが検討対象になりますが、何よりも問題に気付いても意見を出し難い組織風土を変革することが要求されます。職員の人権を蹂躙するような自治体がいくらコンプライアンスを唱えても到底信用できないのです。まずは組織改革に取組まねばなりません。そうでなければ、コンプライアンス条例を制定したとしても、仕組みが組織内に浸透することはあり得ないのです。
何はともあれ、企業と同様、自治体も不祥事は起こるものだと考え、それを防止し、発生時の被害を最小限に食い止めるための政策法務の重要性を認識するべきではないでしょうか。そうした意識啓発を受ける、絶好の著書であると思います。(05.12.10記)
太田勝造・草野芳郎 編著 「ロースクール交渉学」(白桃書房、3,045円)ロースクールにおける交渉教育のための教科書として執筆されたもので、先に紹介した「リーガル・ネゴシエーション」、「交渉ケースブック」などとともに、法交渉学のテキストブックとして、現時点における最高水準のものと思われます。本書の特徴は、先行実績を紹介しながら、それぞれの論点について議論し、考察を深めていくという構成になっていることです。著者には上記のお二人のほか、奥村哲史、鬼沢友直、豊田愛祥、西潟眞澄の各氏がそれぞれの業績などを踏まえて相当詳細に法交渉の理論と実践について論じています。
交渉学において最も基本的な分析概念は、分配型交渉と統合型交渉、BATNA、留保価格になります。これらをここで簡潔に紹介しておきましょう。
分配型交渉とは限られた大きさの利益を当事者間で分配するために両者が競い合う交渉です。一般に交渉と聞けば、こうしたイメージになると思います。一方の当事者が多くの利益を得ると、他方の当事者は取り分が減るという結果になります。敵対型交渉、ゼロサム交渉などとも言われている所以です。統合型交渉とは、双方が交渉の動機・目的を提示するなど、利益の最大化を目指して協力しあうことにより、両者が利益を新たに創造し、それを獲得していく交渉になります。win-win交渉などと言われています。勿論、望ましい交渉の姿は統合型交渉であり、これは自治体職員が従事しなければならない場合は、特に強く要求されるものと考えなければなりません。自己保身、自己利益のみを念頭に置いての交渉は、それが例え組織内部の交渉であっても、結果的に市民の信頼を失う原因になると考えられるからです。しかし、往々にして分配型交渉に突っ走ってしまう実態は、今も昔も大差は無いと思います。
BATNA(Best Altermative To a Negociated Agreement)とは、交渉がまとまらない場合に、選択しうる最善の代替案のことです。交渉に臨む場合には、必ずBATNAを用意しておき、用意しておいたBATNA以下の条件であれば合意を拒否するしかないと割り切ることも重要だとされています。
留保価格とは、取引に合意できる最低水準を言います。交渉当事者が不動産の売買交渉をしている場合において、売主は2000万円から3000万円までなら売っても良いと考え、買主は1500万円から2500万円までが限界と思っているとすれば、2000万円から2500万円の範囲で売買が成立する可能性があることになります。このような範囲をZOPA(Zone Of Possible Agreement)と言います。
法交渉学、交渉法務の面白さは、他の法学分野と異なり、現場レベルでも応用しながら活用でき、理論と実践を常に意識できるところでしょう。机上の議論だけでなく、自治体現場において日々使うことで、個々人が自分なりの理論と実践手法を磨くことによって、逆に法的問題点の発見に結びつくこともあると思います。実定法を最初から勉強することに抵抗を持つ人は多いと思いますが、交渉法務ならば経験則で考え始めることもできるでしょう。(05.10.16記)
田中正博 著 「実践 自治体の危機管理」(時事通信社、2,100円)自治体の危機管理について、基本的な知識・理解を得るために読んでみました。類書が少ないということもあり、2003年4月に初版が出され、2005年2月で4刷目となっています。かなり売れているのでしょう。つまり、自治体関係者で危機管理に関心を持つ人たちが増えている証拠です。遅まきながら私も関心を持つようになりました。
民間企業の危機と自治体の危機との差異について、皆さんも何となくイメージはできると思います。民間企業であれば、業績悪化、株価大幅下落、企業イメージ失墜などで、最近話題になっているように、株の大量取引による企業支配ということも危機の中に含まれるでしょう。本書では、自治体の危機は一点に集約され、「住民(納税者)からの批判の発生と信頼感の喪失」になるとしています。税収の大幅減、大規模な災害なども危機ですが、それらは住民に対して説明ができる内容であり、不当な批判を招くことは少ないでしょう。本書では、あくまで住民に対して説明できないこと、説明しても納得してもらえないことを起こすことが「自治体の危機」であるとしています。
こうしたことを踏まえて、本書では危機管理とは、文字どおり危機を起こさないよう未然防止するための管理(チェック)をすることであり、平常時の危機管理、緊急時の危機管理、収束時の危機管理の三つの局面に分類し、それぞれの課題と具体的業務が論じられています。
組織に危機をもたらす三つの原因について、本書では危機意識の欠落、管理職の部内処理と自己保身、問題があっても指摘しにくい職場風土を掲げています。私の職場では、この三つがすべてあてはまっていると思っています。程度の差であると言われるかも知れませんが、いつ問題が発覚してもおかしくはないボーダーライン上ではないかと感じています。しかも、そうした意識が極めて希薄であるということが何よりも問題であることは、本書が主張するように危機管理は知識ではなく意識の問題であるということになるのです。教習所でいくら安全運転を指導され、知識があっても交通事故を起こしてしまう人が多いのは、知識ではなく意識の問題だと言われれば誰もが納得できるでしょう。問題があれば蓋を閉めるという組織風土は、民間企業も同じような傾向です。企業不祥事の原因について行われたアンケートによれば、1位が問題があっても指摘しにくい企業風土、2位が経営者の自覚が乏しい、であったというデータが紹介されています。自治体も同じでしょう。こんなことまで民間企業のマネをしなくてもいいはずです。(05.10.09記)
中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編 「砂上の障壁−中国人戦後補償裁判10年の軌跡」(日本評論社、2,310円)本書は、戦時中における中国各地で日本軍が行った、様々な戦争犯罪について、その被害当事者たる中国人が日本国や関連企業に対して提起し、現在も最高裁などで係属している一連の訴訟、中国人戦争被害賠償請求事件に関する経過と取組、成果、法的論点などについて、その弁護団メンバーの方たちによって詳細に論じられたものです。訴訟は、1995年8月から2004年12月までの間に18件の提訴がなされており、最高裁に係属しているものが5件あります。いずれも超真面目な熱血人権派弁護士やその支援団体の方たちによる、奉仕的弁護活動であることを最初に明記しておきます。
七三一部隊、南京大虐殺、従軍慰安婦事件などは多くの日本人が歴史上の事実として認識はしています。また、これらの事件による中国人被害者の方たちが、日本国から何らの賠償も補償もなされていないことも、「常識として」認識していても、なぜ賠償されないのか、あるいは、その具体的な被害事実を詳細に知り、考えることは、ほとんどの日本人に経験がないと思います。実際問題として、現在の日本人でこうした歴史上の事実は、「過去のもの」にすぎないという認識でしかなく、その詳細を積極的に知ろうとはしないのが一般的です。私も本書によって、初めてこうした軍国主義時代の日本軍による、戦争犯罪の残虐性を具体的に知ることになりました。被害者にすれば過去のものではなく、現時点においても係属した被害であることを再認識すべきことを、本書を通じて学ぶことが出来ます。
一連の訴訟において、当時の日本軍によってなされた行為は、下級審レベルですが、裁判所が事実認定として肯定しています。つまり、戦争犯罪の事実の存在について、ようやく司法という国家機関が肯定したことになるわけです。本来なら、いかなる残虐行為がなされていたかについて、ここで少し引用してもよいのですが、例えば、最も頻繁にマスコミなどでも取り上げられ、多くの人たちが一定の認識をしているはずの従軍慰安婦事件の詳細な事実関係は、読むのもつらくなるような残酷極まりない非道な行為であり、是非とも本書を読むことによって知ってもらえればと思います。
実際に中国人戦争被害賠償請求訴訟が提起されたのは、最初のものが1995年8月7日になります。つまり戦後50年経ってからの訴訟ということで、事実の確認とともに多くの法的な障壁があることは、直観的に理解できると思います。当時、私は阪神淡路大震災による災害復旧事業などに追われていたこともあり、こうした問題については全く無関心のままでした。今さらながらとは思いますが、本書を読むことで、問題の重要性を少しは理解し、認識できたと感じ入っています。
日本の人権派弁護士と言われる人たちによる中国への渡航、被害者本人からの聞き取り調査は、安っぽい正義感だけでは到底なしうるものではないと思います。また、戦後50年という長い時間によって形成されてしまった分厚く気高い法的な壁を、悪戦苦闘しながらも乗り越えてきた経緯が詳細に描かれています。明治憲法時代の国家無答責の法理、時効・除斥期間、請求権放棄論など、次から次へと被告・日本国から出される法的主張をことごとく突き崩してく様は、ついつい硬直的になりがちな法解釈論について、いかに柔軟性が要求されるかということと、多面的に検証していかなければならないことの重要性を再認識させてくれました。
さて、これら訴訟に対する下級審裁判所の態度は、一部に積極的なケースもありますが、損害賠償請求を容認することには極めて消極的です。事実関係を肯定しながらも、賠償は否定するというパターンが多いのは、法の壁に対する硬直的思考の影響でしょうか。戦後60年の現在、最高裁は日本の国家機関として、この問題に対して、誠実に答を出し、思い切ったケジメをつけるべきではないかと思うわけです。人権の砦たる最高裁が踏み込んだ判断をすることで、国際的な信頼が高まることが期待できます。日本政府は北朝鮮拉致被害者問題に真正面から取組むならば、同様に過去の誤りにも直視しなければならないでしょう。(05.09.24記)
山口道昭・西川照彦 編著 「使える!岸和田市自治基本条例」(第一法規、1,470円)岸和田市自治基本条例は、平成16年12月10日市議会で可決、成立しました。施行日は、条例附則において、公布の日から起算して9月を超えない範囲内において規則で定める日から施行するとあり、平成17年8月1日から施行されています。岸和田市条例は、少なくとも関西の自治体で制定された自治基本条例の中では、最も具体的内容を備えた自治基本条例であると評価できると思います。本書は、その制定過程、制定後の取組、条例の逐条解説で構成されている、第一法規の自治体法務サポート・ブックレットシリーズの第4巻になります。
岸和田市では2003年1月から公募による市民委員を主たるメンバーとした策定委員会を設置し、2004年10月までの2年弱の間に24回もの委員会を開催したうえで、条例素案を作成し、市長に報告されました。学識経験者や市職員も委員会や条例制定には関与しているのですが、本書を読むと、まさに市民が主役になり条例案を作成したことが詳細に綴られています。市民主導の条例制定過程として、一つのモデル事例と高く評価できるものと思います。
岸和田市条例の特徴は、自治基本条例にありがちな抽象的規定の網羅ではなく、できる限り具体的内容を具備しようとしたことにあると思います。そして、必要に応じて、自治基本条例の中で「別に条例で定めると」明記し、意見聴取制度、審議会等の会議及び会議録の公開、住民投票、外部監査について、自治基本条例施行と同時に条例を制定・施行しています。また、議会に関する規定もあり、特に議会基本条例の制定に努めることが明記されていることも注目です。
条例制定過程においては、特に住民投票について、かなり反発があったようですが、徹底的に議論をすることで相互理解ができ、議会も納得された上での自治基本条例ができたことも有意義だと思います。岸和田市議会におかれては、先駆的な条例を可決されたことに敬意を表するとともに、今後、できるだけ早期に議会基本条例を制定されることを期待したいです。
自治基本条例を制定する自治体は、人口規模で言えば10万人くらいまでの中小規模の自治体が目立っていますが、人口20万人を誇る、だんじりで全国的に有名な岸和田市で、具体的内容を具備した自治基本条例を制定されたことは、自治基本条例制定を毛嫌いしているような大規模自治体への刺激にもなるでしょう。自治基本条例に関する最新の文献としてお勧めです。それにしても、自治体職員として、「まちの憲法」を制定する仕事に従事することができた岸和田市職員の方たちには、ちょっと嫉妬してしまいます。(05.09.03記)
松本 昭 著 「まちづくり条例の設計思想」(第一法規、1,575円)第一法規の自治体法務サポート・ブックレットシリーズの第3巻になります。このシリーズは、政策法務の中でも自治立法である条例論を中心にしたものを順次出版されているようです。著者は現役の国分寺市都市計画課長で、鎌倉市からの派遣交流で国分寺市まちづくり条例の制定に携わっていたようです。市職員が単独執筆でここまで詳細な条例論を展開できるというのは、素晴らしいの一言に尽きると思います。条例制定経緯、条例内容、条例理論の構成など、いずれも体系的に整理されています。まちづくり条例に関する理論と実践として、大いに参考になるものと思います。特に、市町村合併で新たなまちを作ろうとしている自治体関係者の方は、是非とも国分寺市のケースを参考にされ、地域の特性に適合した法環境の創出に努めてほしいと思います。
都市計画法の要素を有する「まちづくり条例」は、都市計画法の規制をいかにしてクリアするかという論点と対峙しなければなりません。本書では行政力を高める条例の仕組みとして、思い切った工夫をしています。委任条例と自主条例をいかにして法的に調和させ、地域の特性に適合した法環境を創出するかは、政策法務の中でも重要な位置づけを有するでしょう。国分寺市まちづくり条例においては、法律と条例の関係について、法律補完型条例ではなく、法律連携型条例という考え方を採用し、自主条例と委任条例を連携融合型複合条例として整備したことが特徴の一つになると思います。中でも都市計画法に規定されている3000u以上の開発事業における公園・緑地等の整備基準については、都市計画法では6%を上限に条例で規制できることになっています(法33条3項、令29条1項5号)。これに加えて、国分寺条例においては、自主基準という法的位置づけにより、地域資産たる国分寺崖線においては2%の上積みをし、合計で8%の公園・緑地の確保としています。こうした取組は、従来の発想だけでは実現できず、地域のかけがえのない資産を守りたいという思いとともに、分権改革を契機に開発が進められている条例理論を思い切って活用しようとする姿勢があったからこそではないかと思うわけです。
国分寺市条例では、この他に、市民力を高める仕組みを取り入れています。市民力とは、市民と行政の適正な連携・協力・役割分担のもと、市民が自立して、地域環境の改善に主体的に取組む総体力である、としています。市民力を高める条例の仕組みとして、「自ら計画をつくり、決定・実施・管理する」、「都市計画に参加する」、「土地利用計画に参加する」の3つを導入し、こうした仕組みを積極的に活用できる支援の仕組みも導入しています。また、国分寺条例第6条では、「まちづくり権」を明記していることも特徴の一つになります。
さらに、地域力を高める仕組みとして、市民と市が協働して地域運営にあたるという共治のまちづくりを透明性の高い手続を通して実践すること、そして国分寺の個性に磨きをかけることにより、環境の質を高め、生活環境の改善に寄与する土地利用の手続を基準をルール化されています。
国分寺市は人口11万人ほどの中規模自治体と言えるでしょう。こうした中規模自治体の方が、分権推進に積極的な姿勢を明確にされ、しかも、政策法務に積極的に取組まれる傾向が強いように思います。トップマネジメントが機能しやすいというメリットを活かしているのかもしれません。知恵を絞り、創意工夫を重ねる自治体運営のあり方は、一つのあるべき姿のように思います。(05.08.21記)
太田勝造・野村美明 編 「交渉ケースブック」(商事法務、3,360円)はしがきによれば、おそらく日本で初めての本格的な交渉の教科書である、とのことです。確かに、教科書というくらいですから、教育的な側面からの構成や記述がなされていると思います。第1編 理論編、第2編 実践編の2編構成ですが、交渉の解説という意味での教科書の部分は、第1編第2章から第4章と思います。個人的な意見としては、第1編第1章は、第2編に後回ししてもいいのではないかと思いました。
第1編第2章は交渉の基本原理、第3章は交渉技法、第4章は紛争解決のシステムと交渉として、体系的に記述されています。本書では交渉のパターンを分類するに際して、交渉状況と交渉過程から分類しています。交渉状況による分類とは、現実の対立交渉、対立の可能性がある交渉、状況認識の食い違いのもとに行われる交渉、トラブルからの脱出交渉の4類型が提示されています。交渉過程による分類として、分け前交渉、問題解決交渉、仲間内交渉(交渉前交渉)、態度交渉(関係作り)、自分自身との交渉といった5類型が提示されています。自治体現場での交渉を考える場合にも、こうした分類を知ることは参考になります。見かけ上の分類ではなく、当事者の状況に応じて交渉内容や交渉方法は異なってきますので、問題となっている交渉が、この分類の中でどれに該当するかは慎重に検討すべきでしょう。
本書においても、「ハーバード流交渉術」はたびたび引用されます。原則立脚型交渉は、確かに重要ではありますが、完全無欠のもでもありません。これをベースにして、様々な交渉理論を開発してほしいところですが、交渉学が日本では未だ学問としての認知は低いようですので、まずは、こうした専門書が普及し、大学における交渉教育が当然視されるようにすることも重要だと思います。本書でも触れられていますが、東大をはじめ、先駆的に交渉教育に熱心な大学が増えつつあるようです。できれば政策法務の講座も増えればと思います。
また、カリエールの「外交談判法」(岩波書店)は、今も、なお、交渉術の教科書として重用されているとされています。本書においても引用されており、ルイ14世時代の外交官であったカリエールが優れた交渉家であったことを再認識させられます。このほか、既に私が読んだことがある交渉に関する文献もいくつか引用されており、私の選択が誤っていなかったことを確認できたことは、自信になります。
しかし、現在の私が最も関心を寄せる論点は、「交渉における異文化コミュニケーション」です。最近は余り言われなくなりましたが、「勝ち組」「負け組」として社会成層の中で振り分けられている人たちは、それだけでも異文化に属しているわけです。ましてや、「負け組」にさえなれなかった人たちとの対面的なコミュニケーションは、かえって憲法25条という「葵の御紋」があるがゆえに、理不尽さを感じつつ、独特の困難性を伴います。例えば、自分の過ちは一切省みず、行政のちょっとしたミスを責めることで、自分の犯した違法行為を帳消ししようと躍起になる人たちに、一般社会で通じる反省という概念はなく、まるで治外法権の様相になります。
交渉の定義について、広辞苑では「相手と取り決めるために話し合うこと」と記述されています。外交官同様に、「交渉する自治体職員」にも、誠実、正確、冷静、謙虚、忠誠心が求められるとは思います。ならば、交渉相手にも同様のことが求められるはずですが、自治体現場における異文化コミュニケーションでは、往々にしてそういうことは論外になってしまうことに理不尽さを覚えるわけです。交渉における異文化コミュニケーションというのは、国際交渉が念頭に置かれているようですが、自治体現場では、こうした意味で理解することも可能だと思います。
交渉法務を考える際の、新たな1冊になります。(05.08.01記)
西川伸一 著 「日本司法の逆説−最高裁事務総局の「裁判しない裁判官」たち」(五月書房、2,625円)著者は明治大学政治経済学部教授。拙ホームページにおいて、すでに「知られざる官庁 新 内閣法制局」「会計検査院の潜在力」(いずれも五月書房)について紹介させていただき、感想を述べさせていただいています。西川先生が次はどの役所をターゲットにされるか心待ちにしていたところ、一般市民には内閣法制局以上に「知られざる官庁」である「最高裁判所事務総局」に焦点をあてられました。日本の司法がいかに病んでいるか、具体的かつ詳細に、興味深く論じられています。
本書の主旨は、本来、独立性が保障されている裁判官に対して、最高裁事務総局という本来裁判官が仕事をしやすいようにする裏方にすぎない組織にいる司法官僚たちが、裁判官の任免、転勤、昇給などを統制し、外側に対しては司法権の独立を強調しつつ、内部に対して独立性を剥奪する様々な仕組みを用意し、市民感覚とはかけ離れた裁判の実現に影響を与えていることの問題性を描写することにあります。「司法官僚」という言葉は、もしかしたら聞きなれない用語かもしれません。実際には、最高裁事務総局の主要ポストには裁判官が就き、官僚的司法統制によって、市民のための司法ではなく、むしろ国家のための司法に傾斜していることの危うさを知ることができます。最高裁判事になる裁判官は、裁判官生活の大半を現場ではなく、事務総局で過ごす人が就いているようです。裁判の仕事をせずに、司法行政の仕事を中心に従事し、その最終到達点として最高裁判事になる。極めて簡略化して書けば、日本のエリート裁判官は裁判をしないわけです。まるで裁判をする裁判官は、能力が低いと言わんばかりの実態であり、司法の利用者たる国民をとことん軽蔑した態度のように映ります。
一方、現場の裁判官の激務ぶりは、私もいろいろと側聞する機会がありました。本書においても、都市部の裁判所であれば、1人の裁判官で平均200件程度担当していることが紹介されており、その結果、記録を十分に読まずに訴訟を進行する、判決で手抜きをする、といった事態が現実に生じているようです。裁判官の過労自殺も珍しくはないようです。また、最高裁事務総局によって、本来、裁判官の独自専権事項とも言える法令の解釈権を実質的に剥奪されている状況も本書から知ることができます。判検交流といわれる人事システムの問題点についても詳しく言及されており、昨日まで中立な裁判官だった人が、翌日には国のために法律を語る人に変身しているという事態が生じているわけです。国民が知らない所で憲法や裁判所法の立法趣旨から逸脱した司法統制が実行されてきたことが理解できます。
本書では、こうした司法官僚による統制を打開するためには、法曹一元、陪審制度などを導入し、裁判官の給源を多様化すること、専門家たる裁判官に対して素人たる市民の関与をシステム化することが重要であると主張されています。裁判員制度は極めて限定された市民の司法参加システムですが、これを足がかりに司法参加の拡充を図っていくようにするべきだと私も思います。
本書を読んで思ったことは、今の日本の司法は、実質的に違憲行為をしているということになります。司法制度改革によって様々な仕組みが導入されたとしても、司法官僚による司法支配が崩壊しない限り、違憲状態は維持されるのではないかと猜疑心は拭えません。例えば、行政よりの裁判を改善するために行政事件訴訟法が改正されましたが、司法官僚による統制がある限り、法の主旨からかけ離れた裁判をする官僚裁判官が今後とも続出するのではないかと思うわけです。司法が立法行為を事実上踏みにじっていると言われることになっているのではないか、そんな不信感が芽生えてきました。(05.07.15記)
占部裕典・北村喜宣・交告尚史[編] 「解釈法学と政策法学」(勁草書房、3,360円)今年3月31日をもって神戸大学を定年退官された政策法学の泰斗・阿部泰隆先生(現・中央大学教授)の門下生たちによって、退官記念論文集として出版されたものです。全体で4部構成、11の論文が収められています。以下、特に興味を持った論文について、簡潔に紹介することにします。
[第T部政策法学の展開]では、まず、村上順教授(明治大学)の「政策法務の諸潮流」を挙げることにします。政策法務の意義、学派などを紹介しつつ、阿部泰隆教授の政策法学は、政策法務を超えるものであると明示されています。経済学で論じられている「コーディネーションの失敗」を引き合いに出し、その含意は、それが中央集権的でなく、民間部門の取組みを含む分権化・分節化された方法で、開かれた実験を奨励する自由な環境のもとで、多元的・多様な方法で行われるべきことが重要であるとされています。そして、施策から政策へという政策主体の多元化の下での自主解釈法務と自治立法の多様性が重要であり、行政法学方法論・理論の多様性が必要であると帰結されています。本書の総論とも言うべき論文ですが、村上教授は阿部門下生ではないとのことです。それでも昨今の政策法務、政策法学を丁寧に論証されています。
比山節男教授(大阪経済法科大学)の「わが国における協働主義行政法の成立可能性と射程」では、現在、法制度を構築する際の視点として提示されている特徴的な法的価値について、二つの大きな潮流があるとされ、一つは「効率的かつ効果的な」行政の実現=市場原理主義、NPMであり、もう一つは「参画と協働」であり、情報を共有し、参加の機会を等しく保障することを重視し、多様な主体が対等な立場で参加、討議し、合意形成を目指すものとしています。比山教授は、協働主義の原理を「対等協働の原理」と「情報共有の原理」とされ、「参画と協働」は伝統的行政法原理を補完するものとして適合的であるとしています。もっとも、現状を踏まえて共生社会における行政法を構想するさいには、伝統的行政法原理とこれを補完する協働主義の原理を基本としつつ、効率性や実効性の確保にも留意し、政府の組織と活動を「参画と協働」の視点から制度設計する姿勢を基本的に選択すべきだとされています。
[第U部環境管理の政策と手法]では、北村喜宣教授(上智大学)の「地方分権時代の環境法」があります。北村教授は、地方分権改革を経た環境法に対する評価として、個別法による関与付きの自治事務になったものが多いという認識を示されています。そして、環境法の今後の方向性として、地方自治法が規定する「役割分担原則」「立法原則」「解釈原則」に従ったものでなければならないとされています。その上で、自治体が自主性・自立性を十分に発揮できるためには、国法は枠組法となるべきであり、より多くの決定を条例に委ねるべきとする議論が有力になりつつあると紹介され、政省令による規定から条例による規定に転換すべきこと、条例に委ねる場合に種々の制限をしないことであると主張されています。政令の規制には十分な根拠がないのが通例であるとされています。
[第V部土地利用の政策と統制]では、由喜門眞治教授(京都産業大学)の「事業認定と都市計画事業認可」があります。都市計画事業の認可・承認(都計認可)と事業認定に関して判断合理性審査方式をとり、違法とした最近の判決(@小田急一審判決=東京地判平成13年10月3日、A圏央道一審判決=東京地判平成16年4月22日、いずれも藤山判決)を素材に、都計認可の司法審査において都市計画も対象とされている根拠、事業認定と都市計画の判断過程合理性審査における考慮要素を中心に検討がなされています。
[第W部自治体行政の課題と法政策]では、占部裕典教授(同志社大学)の「外形標準課税」、交告尚史教授(東京大学)の「保育に欠ける児童の広域入所について」が収められており、いずれも自治体現場での法政策に関する論文です。保育所の区域外入所については、大都市における重要な政策課題であり、その実務の法的問題点を論じられているため、保育行政関係者は一読してほしいと思います。(05.07.09記)
長谷川貴陽史 著 「都市コミュニティと法」(東京大学出版会、7,980円)著者は首都大学東京都市教養学部准教授で、本書は2003年11月に東京大学大学院法学政治学研究科に提出された博士論文「都市コミュニティにおける法使用」を3分の2程度に圧縮し、加筆、修正をしたものです。新進気鋭の研究者による本格的な地方自治に関する法社会学の論文であり、私が読んだものとしては、阿部昌樹教授(大阪市立大学)のご著書以来でしょう。私が常に関心を持っている分野の一つになります。特に、東京大学で地方自治関係の学位論文が公表されるということについても、政策法務を志している者としては、プラスのマインドが高まります。長谷川先生のこれからの更なるご活躍を期待したいものです。
本書は、建築協定と地区計画という二つの都市計画制度を素材に、都市コミュニティにおける人々の法使用プロセスについて、法社会学的な分析を行っています。舞台は横浜市と国立市という首都圏の都市ではありますが、一方はわが国最大の政令指定都市、もう一方は人口7万の都市と、地方自治体の地域における人たちの法使用過程でも、その社会的諸状況や歴史は、かなり異なることになり、そういう意味で同質的な事例を対象にしているわけではなく、偏頗な結論や理論の構築を回避することを狙っているものだと推測できます。
本書で言う「都市コミュニティ」とは、建築協定区域や地区計画区域となりうる範囲、自治会町内会といた地域自治組織が形成される範囲、小学校区程度の地理的範囲をさしています。また、「法使用」とは、「人々が自己の抱える法的な問題に対処するために、法(ルール)を利用すること」であるとされています。本書を読もうと思った大きな動機は、こうした地域内における法的紛争過程において、市民、事業者、行政などの人たちが、いかなる法使用によって問題を合法的に解決していくのか、具体的に描かれていると期待したからです。また、紛争過程と交渉法務というテーマを有している者としても、関心を寄せる文献となります。そして、このような私の期待に、本書は応えてくれています。
本書において、都市コミュニティにおける法使用を考える分析枠組として、次の4つの因子を掲げています。すなわち、主体的因子として、「視座の転換」と「専門的知識の獲得」、構造的因子として「組織・集団」と「社会規範」の4つです。本書では、この4つの分析枠組を軸に、横浜市内の建築協定加入区画における「法の援用」、穴抜け区画・隣接地における「規範の援用」、協定の締結・更新過程にみる「法の形成」、国立市の地区計画にみる「法の形成」と「法の援用」について、事例分析を丹念に行っています。
横浜市における紛争事例については、1999年3月に実施した質問調査票の結果がベースとなっており、回答者の中からヒアリングに協力してもらえると応答のあった人たちにインタビューを行うことで、データを収集されたようです。また、国立市の事例については、地区計画紛争地域の住民集会に定期的に参加し、原告側弁護団や運動のリーダーの方たちと知り合いになり、そうした人たちから各種資料を得ていることによるものだそうです。こうしたインタビュー方式による資料収集は、木佐茂男著『人間の尊厳と司法権』(日本評論社)において、当時の西ドイツの司法関係者に対して詳細になされているのが、一つのモデルになると思われますし、阿部昌樹著『ローカルな法秩序』(剄草書房)においても同様の手法による業績があり、本書でも類似の方法が採用されていると理解しています。「自治体現場での政策法務」を考える場合、自分だけの主観的な経験や思考だけでは偏頗なものになってしまいます。「上向的思考」の欠点をできる限り回避するためには、多くの自治体職員や関係者に対して、共通の質問を行うことで得られる結果を活用することで、客観的な論証という研究成果へと結びつける一つの大きな手法として成り立つのではないかと思います。そして、分析枠組をどう設定するかは、客観的な論証を展開していくために極めて重要であることを改めて認識できます。
本書では、国立市の地区計画制度を巡る法使用過程について、特に全国的にも注目された大学通り高層マンション問題の経緯についても詳細に論じられており、これに関する7件の判例についても丁寧な分析をなされています。国立市という小規模自治体における市民が、必ずしも地域の環境保全に主体的、積極的に取組んでこなかった経緯なども詳細に論じられており、この紛争に関する研究としても、価値あるものと思います。また、商店経営者などには、マンション建設反対運動に反対している者も多く、近所の理髪店に行った際に、いつまでやるつもりなのかと問い詰められることもあったこともインタビューの内容として記述されており、利害が交錯する市民運動の難しさを明確にされています。
本書では、最後に、建築協定制度、地区計画制度の運用改革、制度改革についても論及されており、政策法務に関する文献としての色彩も帯びていると思われます。(05.06.04記)
晴山一穂 著 「行政法の変容と行政の公共性」(法律文化社、6,300円)著者は専修大学教授。お名前は以前から存じ上げていましたが、ご著書を読むのはこれが初めてです。全体で4編11章から構成されています。本書は、一部書き下ろしがある以外は、晴山教授がこれまで執筆されてきた論文をテーマごとに再編し、現在の状況に応じて書き直すということはしないかわりに、冒頭に解題を挿入するという方法を採られています。
本書の特徴を簡潔に言えば、80年代以降の諸改革に関する行政法からのアプローチであり、多くの諸論点について言及されていることです。その中心である晴山教授の問題意識は「序章」と「第1編 新自由主義の展開と行政法」において、極めて明確に論じられています。まず、80年代の臨調行革以降のわが国の行政法は、かつて経験したことのない大きな変容を遂げつつあるという認識を明示され、80年代を境に、行政法がひとつの大きな質的転換=変質を遂げつつあるということを指摘されています。晴山教授は、新自由主義による一連の諸改革によって、行政法制が大きく変容してきたことは、行政法理論にも根本的な見直しを迫るものとみてよいとされています。そして、80年代以降、わが国で展開されてきた新自由主義と呼ばれる路線ないし原理に対して、行政法学からの批判的な検討を加えるというのが主眼になっています。
ここでいう新自由主義というのは、言うまでもありませんが、市場原理こそが至上の経済原則だと信奉する見解のことです。新自由主義は、市場原理を至上とするものであるため、市場原理の重荷となる負担を取り払ったり、逆に市場の外部にあるものを市場に取り入れたりすることなどによってあらわれ、規制緩和の急先鋒として小さな政府を目指す行革の推進に向かい、公共部門の民営化や市場化にまい進するのはこのためにほかならないということになるのです。つまり、新自由主義は行政の役割を「国民の福利の実現」から「民間活動の補完」へと転換させる役割を果たしているのです。
こうした考え方である新自由主義は、戦後の福祉国家体制に敵対し、その解体を目指すものであること、市場原理貫徹のために国家介入の縮小を説く一方、治安と市場規律の維持のためには「強い国家」の構築を図ろうとするものであること、近代民主主義とかけ離れた大企業主義の役割を果たすものであること、という特徴を備えたものになります。
実際、新自由主義は、80年代以降の一連の諸改革に大きく影響を与えていることが理解できます。例えば、公的規制の緩和、行革路線の推進、行政の守備範囲の見直し、行政の減量化・簡素化・効率化、事務事業の民営化・民間委託、そして何よりも行政内部への民間経営的手法の導入というものを見れば、これは新自由主義にもとづく諸改革であることは自明です。そして、80年代以降、福祉の見直しの名のもとで各種社会保障施策の大幅な後退・削減が進められてきたこと、周辺事態法・通信傍受法・武力攻撃事態法など有事関連法の整備、行革・規制緩和・民活などほとんどが経団連をはじめとする経済界の強い要求にもとづいて進められてきたこと、などに見られるように反福祉国家、強い国家、大企業主義という新自由主義路線が鮮明になります。
晴山教授は、新自由主義の発想が、社会公共の福祉の実現に行政の役割を見出そうとしてきた行政法学の発想と根本的に対立することは明らかであると指摘されています。つまり、行政の公共性=市民的生存権的公共性と真っ向から対立し、国民の権利利益の保護と民主的行政の実現を使命とする行政法の本来の役割を大きく後退させるものであるという点で本質的な問題をはらんでいるという基本的認識に立脚されています。
晴山説によれば、例えば地方分権改革も新自由主義路線の一貫であることになります。国政のスリム化の受け皿として分権改革がなされたということであり、それが本当に地方自治の充実に結びつけるためになされたものであるとは評価されていないようです。そして、行政手続法、情報公開法など長年懸案事項とされてきた重要法制が、この10年間ほどに急速に整備されてきたのも、元々は日米経済摩擦を背景とした日本の行政の透明性を向上させるためのもので、決して、民主性を発展させるためではなかったということになるのです。
では、晴山教授は、行政の公共性や行政の役割をどのように考えているのでしょうか。この点についても明確に述べられています。すなわち、現行憲法下の行政の基本的役割は、基本的人権の保障を中心とする憲法的価値の実現・具体化であるとされています。これを理念的な意味で「行政の公共性」という表現をするならば、行政の公共性の全面的開花をめざして理論的作業を展開することこそ、憲法具体化法としての行政法の研究に携わる者の役割であると考えておられます。そのため、臨調行革は、現行憲法下の行政の役割=公共性とは全く相容れないものであり、臨調行革の推進は、行政の役割=公共性の大きな後退・形骸化を招くものであるとされています。実際、国政レベルでは郵政民営化法案について議論が集中していますが、各種世論調査では、国民の最大の関心事は年金問題であることは周知のとおりです。国政が民意から乖離していることについて、それを是正するのは究極は国民の責務であると言う点では異論はないでしょう。
晴山教授の見解にそのまま与するかどうかはともかく、この20年間ほどの諸改革、特にこの数年間の構造改革が本当に国民の利益になっているのかどうかを検証する場合の、一つの有効な視角になると思います。特に、新自由主義を背景とする新公共管理論(NPM)に対しては、憲法・行政法学からの批判的なアプローチが十分なされていないように思っていましたし、最近は、批判的な検証をすることに対する力ずくの抑制とでも言えるような原理が作用しているのではないかと思われる組織風土が形成されつつあるように思えます。それゆえ、本書もこうした点において、貴重な業績であると思われます。(05.05.01記)
小林武・見上崇洋・安本典夫 編 「「民」による行政−新たな公共性の再構築−」(法律文化社、5,460円)新自由主義、あるいは新公共管理論(NPM=New Public Management)は、国・自治体を問わず行政のトレンドとして抑止することは不可能な状況になっています。確かに、職員の削減、給与カット、事務事業の民間委託、そして行政評価、成果主義と、組織の内部、外部に渡って民間企業の経営的手法という形を導入している事例は増加しており、もうそれが当然であると言わんばかりの風潮にさえなっています。しかし、こうした新公共管理システムについて、憲法や行政法の観点からどの程度検討されているのかは、今ひとつはっきりしません。本書は、新進気鋭の憲法・行政法学者らによる、「行政の民営化」「民による行政」に関する諸問題を論じた貴重な業績であると思います。
まず、新自由主義による行政の役割転換という問題があります。すなわち、国民生活の向上発展、すなわち、国民の福利の実現に尽くすことから、「民間」とりわけ「活力」を備えた「民」の活動を補充することへと転換する状況となっており、国民の権利保障の理念に立って、公権力行使を統制する法として構成された行政法、さらに憲法のありようにも大きな問題を投げかけているという問題です。構造改革の進展の中、公が担うべき領域、あるいは国家と市場の領域画定が課題となる。行政の「民」化の限界をどこに設定するか、憲法学からのアプローチも回避できないのです。
小林武教授(愛知大学)は、「憲法における国家と市場」について、 憲法はこの問題について明文規定を置かず、民主主義的政治過程の決定に委ねていると解されます。小林説によれば、その条文上の手がかりは、22条、29条、25条ですが、そもそも学説は、これらの条文を経済的再分配を通して個人の生存権保障を図る福祉国家体制を念頭に置いていることの象徴とみなしてきた一方、最高裁は、公共の福祉概念を用いて、社会権保障目的に限定しない積極規制の法理を示し、生存権をプログラム規定説や立法裁量論によって形骸化してきたという経緯があるとされたうえで、森林法違憲判決の分析をされています。すなわち、森林法違憲判決は、薬事法判決という職業の自由規制立法に関する判断を財産権が争われているケースに援用し、しかも規制目的二分論を反故にし、規制目的の合理性と必要性のいずれも肯定することができないことが明らかであることを理由に森林法186条を違憲とし、その後の判例も規制二分論に与しないようになっていると指摘されています。これを踏まえて、最高裁は財産権の重要性を確認し、その保障に強い姿勢を示したと帰結されています。最高裁は、精神的自由の保護などには非好意的態度を採り続ける一方、財産権の保障一般を強く打ち出すことは、強者の経済的自由を厚く遇することを意味するという分析をなされています。
また、行政の「民」化は、政府から離れつつ、それぞれに何がしかの公共性を確保する多用な領域が作り出されるとされ、その領域には、ある種の「自治」の性格を持つため、憲法は保障と統制の両面を任務としますが、現在は、そもそも憲法で保障されている自治の諸領域が、衰退化しているという問題があるとされています。大企業に代表される巨大団体が政治・司法・教育等の過程において発言力を強めており、閉鎖性打破のための市民参加については、市民の内容規定がないため、巨大団体の参加に門戸開放していることになっているのです。それゆえ、憲法的自治の再生には、個人を構成要素とした公共の形成こそが課題だとされています。
三並敏克教授(京都学園大学)は、憲法上、行政権(憲法65条、94条)は民営化できるのかという問題提起をされています。ドイツでは民営化措置について、基本法は民営化を命令したり、禁止したりすることを含んでいない、基本権は憲法的には民営化禁止も民営化命令も成り立たないゆえ、民営化判断は原則として立法者及び法律の範囲内で行政の責務であるという考え方が主流であると紹介されています。そして、この考え方を日本国憲法においてもそのまま当てはめることが可能であるとされています。しかし、この見解は、あくまで「非権力的行政作用」を対象にした考え方として理解するのが妥当なようです。日本国憲法に公権力の行使の委任を禁止したり行政組織に留保する明示的な条文はないものの、公権力の国家独占原則をとっていると考えられるという見解もあるからです。当初、両者の見解を読んで、かなり混乱し、理解に苦しみましたが、少なくとも民による権力行使に対しては、相応の法的コントロールを直接かつ効果的に及ぼすことが出来る仕組みを用意しておく必要があるという見解には与したいと思います。また、非権力的行政作用は、私法形式での行政作用に関する法(行政私法)に基づくと考え、憲法の人権保障規定の拘束を受けると構成されています。
米丸恒治教授(神戸大学)は、民による権力行使を制限的に解しています。あくまで限定された例外的なものにしか認められないとする立場ですが、現実にその例外が激増していることは、憲法上、大きな問題であるということになります。
民による行政というテーマからも批判が強いのは都市再生法のようです。本書においても、諸利益の衡量過程と決定過程について、合理性にかかる判断がどのようになされるかに関わって、手続的コントロールが準備されず、批判の可能性を排斥していると指摘され、また、都市再生事業が政治的に決定されるものとして内閣総理大臣に集権化され、必要性が主張されてきた計画過程のコントロールと無縁であり、行政の市民化(分権化)とも無縁であり、逆行していると批判されています(168頁〜169頁)。計画提案制度についても、地権者の同意権が実質的に骨抜きになる可能性を準備していますし、再開発会社に収用権という地権者にすれば脅威となる権限を付与したことは、「暴走」ではないかとさえ思います。
民営化と言えば聞こえはいいですが、特に国政レベルの法制度整備は、早い話が民間企業の利潤追求のためだけの新自由主義になりつつあるという理解に傾いています。そこに人権保障の理念がどこまで担保されているのかは大いに疑問が生じるところです。
さらに、97年児童福祉法改正によって、保育所入所については、措置から契約へと転換されたと言われていますが、実際に当事者の利用契約関係がどこまで保障されているのか、一方的な利用契約関係の破棄が何ら法的制約を受けないまま可能となれば、児童福祉法改正の趣旨を十分に踏まえたとはいえないのではないかと考えられます。(05.04.17記・05.05.04改訂)
日弁連司法改革実現本部 編 「司法改革 市民のための司法をめざして」(日本評論社、2,835円)司法改革に関する日弁連関係者による文献になります。本書は、執筆者のお一人である旭川弁護士会の中村元弥先生から頂戴しました。改めて厚く御礼申し上げます。
2001年6月12日に司法制度改革審議会(会長 佐藤幸治・京大名誉教授)から意見書が提出されてから、わずか3年ほどの間に司法制度改革が凄まじいスピードで進められてきました。特に司法試験制度が大きく改革され、法科大学院制度になったことはもう十分ご存知のことと思います。
一般に、裁判は時間と金がかかると言われています。こうした認識が形成されている大きな原因は、マスコミの影響なのでしょうか。時折、大々的に報道される裁判では、一審だけでも判決まで10年以上という長期裁判となっているため、最高裁で判決が出される頃には「人生が終わっている」とイメージされていると思います。小泉首相が司法改革に関してしばしば口にしていたのが、「思い出の 事件を裁く 最高裁」という川柳だったようです。日本の裁判が異常なまでに時間がかかることを的確に表現していると思われていたのでしょうか。
しかし、統計資料からは、裁判に対するこのような理解は、正確なものではないことがはっきりしています。2001年の第一審通常訴訟事件の審理期間について、民事は平均8.5ヶ月、92.8%が2年以内で終了しており、62%が6ヶ月以内で終了しています。刑事も同様に、平均審理期間は3.3ヶ月、99.6%が2年以内で終了しています。民事に絞って言えば、最高裁判決であっても、2,256件中83.5%、1,883件が6ヶ月以内で終了しています。しかも、年々短縮の傾向にあるとのことです。これは意外な印象ですが、統計データですからウソではありません。実際、市役所で訴訟事務をやっていた時、訴訟が長引く最大の原因は、両当事者の代理人である弁護士の日程が合わず、次回の法廷が先々になってしまうという現象だったことを思い出します。ただし、「こんな裁判で、何でこんなに時間がかかるの?」と思われるような判例もあるのは確かです。しかし、こういうのはあくまで例外ということなのでしょう。
司法制度改革では、まず、法科大学院制度による新司法試験で、弁護士の数が大幅に増えることになります。2003年(平成15年)4月1日時点で19,523人の弁護士が、2018年(平成30年)には5万人程度になるとされています。新司法試験の合格者が毎年3000人誕生することで、こうしたことが現実となります。競争が激化することで、生活を維持できない弁護士という人たちが出現しかねない状況になることが、将来的にはあり得るのではないでしょうか。一方で、行政法に詳しい弁護士が今後、大幅に増えることによって、今まで法無状態であった圧倒的多数の自治体職員は、ようやく自治体法務・政策法務への転換が促されることも期待できます。(私は、行政法に詳しい弁護士の増加によって、自治体が訴訟でコテンパンに敗訴することが続出し、職員が組織内部で厳しい責任追及を受けるような事態が発生することによってしか、自治体法務への転換は困難ではないかと悲観的な思考に陥っています。)弁護士の大増員時代の到来を前に、日弁連は、報酬規定の改正、懲戒手続の透明化・迅速化・実効化などに取り組まれてきたようです。これと同時に、隣接法律専門職の権限拡大という問題もあります。司法書士、弁理士の一定の範囲における訴訟代理権、税理士の補佐人としての法廷活動などです。これら隣接法律専門職による法律サービスの提供範囲の拡大によって、利用者にすれば、選択の幅が広がり、弁護士にすればただでさえ競争が激化していくのに、非常に厳しい選択をされたと思います。
しかし、法曹人口の大幅な拡大は、裁判官の大幅な増員ということとは直結しないようです。弁護士任官、非常勤裁判官制度など裁判官の給源の多様化や判事補に弁護士経験を積ませるという制度が導入されたりするものの、キャリアシステムを維持したいという最高裁の態度が大きく変化したとは評価できないようです。平成15年4月1日時点で2,302人しかいない裁判官(簡易裁判所判事を含めてもたったの3,096人)という人数が、例えば弁護士と同様に平成30年に倍増の5,000人になるということは全く予定されていません。行財政改革の関係で大幅な増員ができないという理由もあると思いますが、最高裁が裁判官の大幅増員を求めていないのが最大の理由のようです。行政職員の多さから比べると裁判官・検察官の定数を倍増にしたとしても、それほど巨大化するとは思えません。これに伴う人件費などのコストは法化社会のための負担であると割り切ることも可能ではないかとも思います。行政職員を減らす一方で、司法部門を増員するということも検討すべきでしょう。ただし、最高裁の密室人事行政の体質、中でも思想信条等による差別人事に対する不信感はまだまだ根強いものを感じます。本来、人権の砦であるはずの最高裁によるこうした体質の改革という問題を、今後とも日弁連はしつこく追及していくべきでしょう。下級裁判所裁判官指名諮問委員会制度が導入されましたが、御用学者で構成された審議会と同じような機能しか発揮しなければどうしようもありません。
司法改革に関する多数の論点について、日弁連の方々がそれぞれの専門分野において分担執筆されており、司法改革を理解するための必読書と言えるでしょう。自治体職員にとって、司法改革は決して無関係ではなく、今後、大いに関係してくる場面が増えてくると思っています。
さて、本書の執筆者に、宮本康昭氏も加わっておられます。1971年(昭和46年)4月に、当時、熊本地裁判事補だった宮本氏は、最高裁によって具体的な理由も示されないまま、裁判官への再任拒否を受けられました。憲法の教科書などでは必ず「宮本判事補再任拒否処分事件」などと記述されており、まるで歴史上の人物のような錯覚をしてしまいますが、その後は弁護士としてご活躍されているとのことで、今般の司法改革に多大なる貢献をなされたと聞いています。今後の更なるご活躍を期待したいものです。(05.03.16記)
山村恒年 編 「新公共管理システムと行政法 新たな行政過程法の議論深化を目指して」(信山社、7,770円)編著者は行政法に詳しい著名な弁護士。元・神戸大学教授・関西学院大学教授であり、元々は大阪府職員から法律家へと転身された方です。山村氏が主宰されている行政法務研究会での研究成果をまとめられたもののようであり、全体で3部・12章の論文から構成されています。370頁ほどのボリュームですが、密度が濃く、相当ハイレベルであると思われます。もっとも、山村氏以外の執筆者、大寺廣幸氏(総務省近畿管区行政評価局長)、礒村篤範氏(大阪教育大学教授)、金海龍氏(韓国外国語大学教授)、南眞二氏(奈良県立大学助教授)、恩地紀代子氏(志學館大学講師)、荒木修氏(日本学術振興会特別研究員)については、私はどなたも初めて知るお名前で、これまで存じ上げませんでした。
さて、その正確な理解をどれくらいの自治体職員がしているのかどうかはともかく、今やNPM理論と言えば行財政改革のバックボーンとなっています。NPMを知らずして自治体行革は語れない、と言っても過言ではないでしょう。しかし、これまで、公共管理の新手法としてのNPMについては、政治学や行政学、あるいは(公共)経済学などの分野からのアプローチが主流だったように思います。本書は、行政法からのアプローチを試みた先駆的な業績として評価されると思われます。
ここで確認しておかなければならないのは、従来言われていたNPM理論が既に大きく変化・変質し、その意味するところが異なってきているということです。自治体行財政改革プランに書かれがちな、顧客主義、成果主義などは、これが過度になされることによって公正さの軽視、強者の一人勝ち、主権理念の忘却など、諸々の弊害が発生したことを反省し、先進国では、むしろ民主的・効率的・公正という要素をより重視するようになり、「第三の道」「グッド・ガバナンス」へと転換しているということです。本書における新公共管理という概念は、後者の新しい理論を指しています。そして、新公共管理には、参画協働論が含まれており、それは旧来のNPMから発展して導かれているという考え方になっているようです。しかし、参画協働論がNPMから展開されているという主張に対しては、なにか「都合の良いこじつけ」という印象を拭いきれませんし、それがNPM自身の脆弱性を表しているように思います。より根本的に、そもそも短期間でコロコロと基本的な考え方が変化するようなものが、果たして「理論」と呼べるだけの価値があるのか、大いに疑問ですし、そのようなものに舶来モノ好きの日本の学者や役人が振り回されているような見方もできるのではないでしょうか。
その結果、行政学や経済学の立場から、行政における経営手法の導入を試みてはみたものの、民間企業のような単純に営利追求型経営ではなく、公正や平等、過程の透明性などが厳しく問われ、単なる成果主義ではなく、主権者である市民の関与がなければ信頼されないことに気付いたゆえに、NPM自身が変質せざるを得なくなったのだと思います。経営主義化などと言いつつ、民間企業ではあり得ない生活保護行政などはどう位置づけるのか、情報公開や個人情報保護などはどう考えるのか、民間任せにした結果、何の福祉観もない事業者による過剰な利益追求型と変質した介護保険をどう考えるのかなどへの根治療法についての回答はないのです。訳も分からずNPMに飛びついている自治体関係者というのは、自分たちの法的設計能力・法解釈能力などが欠如しているがゆえに、その代替手段としてNPMに依存しているのではないかと、私は見ています。
そして、結局は、法の支配(法治主義)や国民主権原理といった法的仕組みの中でいかに透明性のあるプロセスを確保し、権利保障をしていくべきかという側面を重視することが要求されるようになったのだと思います。本書では、こうした視点から、従来の行政過程法を再構築することが意識して論じられています。ただし、新公共管理システムをいかにして行政法理論体系に組入れるかと問われれば、これはまだ試行錯誤、研究が始まったばかりという状況のようです。
第1部新公共管理論と行政法では、NPMの生成と特質、日本におけるNPM指向と問題点、最近の立法に見るNPM指向の法律、新公共管理論による行政過程法の影響、アカウンタビリティの変容、新しい公共性を構成するための社会共通利益論、住民参加・協働などについて論じられています。いずれも、試論というような印象で、今後、一層、精密な理論構成を進めていくことが期待されます。
第2部海外におけるNPM改革の論点では、アメリカ大都市(ニューヨーク、シカゴなど)における90年代以降の都市再生・活性化政策について、NPMの思想に基づいた枠組みが組み立てられていることを踏まえて紹介されています。アメリカ型NPMは、市場化重視ということでしょう。しかし、ドイツ自治体における90年代の新誘導モデルは、従来のNPMとは拠って立つ基盤が異なるようです。新誘導モデルとNPMの相違については、経済的新自由主義を受け入れないという点であるという指摘がありますし、アメリカ型NPM=市場原理主義とも異なり、基準はあくまで法の支配であり、行政改革は法治国家に構成された枠組みの中で任務の処理を行う、目標秩序よりも法秩序に拘束されるというのが特徴です。そして、公私協働のによる公的目的達成は、新しい行政法理を創出しており、その法的枠組みとして、行政協働法について紹介されています。
第3部日本における行政法のNPM的手法の導入と問題点では、当初は肥大化した行政に対する批判や公共支出削減などを背景として、市場・成果重視型の経営主義という意味でのNPMであったのが、参画協働論へと変貌していることについて論じられています。しかし、先にも述べたような「都合の良いこじつけ感」を私は持っています。NPMと協働論は生成経緯もそもそもの発想も全く別個のものだったはずです。多くの自治体は、「自治体経営」を、旧来型NPM理論を基盤にしつつ標榜し、一方で市民との協働を実践しようという態勢です。NPMと協働の関係について、理路整然とはなっていないような気がします。日本の例として、自然再生法、構造改革特区法、都市再生法について、NPM的手法として紹介されています。構造改革特区がNPM的手法であるということは、特区における成果が上れば全国に広めるということから、「成果主義」という見方なのでしょう。ここでいう成果とは、経済活性化・景気回復、教育や福祉の向上などで、決して経済的収益の向上だけではありません。あくまで市民の公共の福祉向上のはずです。これと経営主義化がどう結びつくのかについて、NPM専門家からの論証が欲しいところです。また、都市再生特別措置法については市民参画の希薄性、事業の都市全体への波及効果に乏しいこと、計画性の希薄性、行政と民間事業者の協働の危険性などについて指摘されています。鳴り物入りで始められた都市再生事業ですが、むしろ従来型の組合施行による都市再開発事業などの方が、地元市民の参画協働を実践することによって、実のある成果が得られることも少なくないことを実務経験者なら熟知していると思います。
国家法レベルでのNPM的手法の導入と行政法理論における体系化、それを自治体で実践することに対する公共利益創出などの法的効果との関係などについては、今後の研究領域として魅力を感じます。(05.03.13記)
大澤恒夫 著 「法的対話論」(信山社、3,675円)副題に「法と対話の専門家をめざして」とあります。著者は弁護士で、2005年4月から桐蔭横浜大学法科大学院教授に就任されます。本書は著者が中央大学に提出した学位論文「弁護士業務における『対話』の理念と技法−『法と対話の専門家』をめざして」に加筆・訂正し、標題を改めたものです。全体の構成は、序論、第1部総論(第1章〜第4章)、第2部各論(第5章〜第9章)となっており、本論はちょうど300頁です。一見、分かりやすい文章ですが、中身は相当ハイレベルで、どこまで理解しているか、正直なところかなり不安です。ただし、私自身が考えている自治体現場での政策法務という問題に大きなヒントを与えてくれそうな1冊であると思います。
「法的対話」という概念は、すでに拙HPや拙著で紹介したように、木佐茂男先生が『人間の尊厳と司法権』(日本評論社、1990年)で西ドイツの行政訴訟の法的聴聞から転じて唱えられた概念であることは、もうご存知だと思います。しかし、本書では、木佐先生がなされた議論とは異質のものとして構成されていると理解できるでしょう。すなわち、それは法律専門家である弁護士が、紛争解決に際して、当事者が自律性を回復させ、納得のいく紛争解決をするために援助することにもっと力を注ぐべきであるという思考に根ざしつつ(その基盤としては、憲法上の個人の尊重、自己決定権、私的自治の原則などを踏まえているわけです。)、法の正当性は対話によって支えられる、また、法は対話を通じて紡ぎ出されることを意味すると主張されています。そして、本書を通読してしばしば目にするのが、「自律的な問題解決」という表現であり、それは人と人とが相互に尊重し、相互の主張・意見を傾聴し、思いのすり合わせを真摯に行うプロセスが「対話」であると主張されているのです。
現実に、訴訟であっても、和解による解決は多いですし、日々の法律相談では「対話による相談」の重要性が高まるわけです。本書では「聴くことの意義」は、弁護士と相談者が2人で一緒に問題解決をしているという実感を産むような共感が必要であると主張されています。それを踏まえて、傾聴の技法を論じておられます。市役所窓口などでの市民からの苦情相談への対応のあり方に、変革を促すための、まさに傾聴すべき議論であると思います。
本書では、予防法務、戦略法務という概念について、対話を軸にした構築をされています。予防法務とは、単に紛争を予防するような法的活動ではなく、自律性と正当性に支えられた納得いく行為を支援するのが予防法務活動であり、予防の方策を企画立案する段階、それを実施する段階まで対話が重要な要素となると主張されています。また、戦略法務についても、基本的に予防法務と同じ理念に基づく支援活動であり、複雑・高度化する社会・経済において、各自にとっての善き生を設計と遂行を支援することを意味するとされています。前者は行為の正当性を支える要素が特徴であり、後者は、当事者が積極的に望む事柄の実現に適合的な法的スキームの企画・立案等を支援するという特徴があります。私は、拙著で、「戦略的法使用の概念」を提唱しましたが、本書で言う戦略法務と近似している部分があると思います。
また、本書では、今後、大きな期待が寄せられるADRについても、法的対話との関係で論じられています。法曹人口、特に弁護士が激増する時代において、裁判ではなくADRで紛争を解決しようとするニーズは増えるでしょう。その際、紛争当事者が感情的対立が激しいことによって対席して話合いをすることで、納得できる解決策が発見できなければ不幸なままとなります。法と対話の専門家として弁護士がいかに支援するか、弁護士の新たな役割が期待されます。
さて、もう言うまでもなく、法的対話は、弁護士だけの役割ではなく、私たち自治体職員にも実践できる可能性があり、それによってより良い地域の形成に貢献できるならば、どんどん率先していくべきではないでしょうか。まずは自治体職員がもっと法務能力の向上に務めることが必要ですが、市民との法的対話を積極的に実践することになれば、何かと批判の多い地方公務員の存在価値が高まるとも思います。私が提唱している交渉法務も、内実としては自治体職員と住民との間でなされる、対話による紛争解決であったり、地域の課題を解決することであったりすることを意味しています。自治体職員による交渉という概念について、私は、「話合いによって地域における課題を解決し、究極的には地域の最適化という公益の実現を目指すための合意を目的とする行動」と述べています(拙著23頁)。ここでいう話合いのイメージとしては、大澤先生の主張される「対話」「法的対話」というものと重ね合わせてイメージできると思っています。(05.02.22記)
浅見宣義 著 「裁判所改革のこころ」(現代人文社・2,835円)本書は、自治体法務合同研究会のメンバーのお一人で、旭川弁護士会の中村元弥先生から頂戴し、拝読させていただきました。中村先生には、改めて厚く御礼申し上げます。
さて、著者は現役の裁判官(大分地裁・家裁判事)で、日本裁判官ネットワークのメンバーでもあります。一裁判官として、司法改革を訴えた初期(1993年から1995年までの間)に、判例時報に掲載された論文を主としてまとめたものになります。著者が司法改革に強い思いを抱くことになったきっかけは、1990年にドイツ旅行をした際、ドイツの裁判官が、大変生き生きとして魅力的であることを知ったことにあるようです。ドイツの裁判官がいかに魅力的で生き生きとされているかについては、木佐茂男先生の「人間の尊厳と司法権」(日本評論社)で詳細に紹介されています。
「第1章 裁判所のイメージアップのために[裁判所CI作戦]」は、裁判所に対するイメージアップのために、郵便局など他の官公庁等の取り組みを参考にし、利用しやすい、親しみやすい建物や設備、法廷、接遇等の改善策を具体的に提案されています。一昨年、自治体法務合同研究会福井大会に参加させていただいた際、福井地裁の見学をしたのですが、得体の知れない集団が押し寄せてきたにもかかわらず、嫌な顔一つせずに、裁判所職員の方が丁寧な案内をされていたのを思い出します。市役所などと同様、裁判所に対するイメージというのも、建物の外観とともに、職員の接遇からも大きく影響を受けることを身に浸みて理解できました。また、昨年、知人が西宮簡易裁判所に調停申立手続に関する相談をした際、同様に職員が親切に応対してくれたという話を聴きました。紛争に巻き込まれた当事者が裁判所に行った際、横柄な対応をされれば、司法から市民はますます遠のくでしょうから、こうした取組みには敬意を表したいと思います。
「第2章 21世紀の裁判官を育てるために」では、判事補研修制度の改善を提言されています。裁判官研修制度の歴史、現状等について詳細に紹介され、判事補研修の基調となっているのは「頼りなく、覇気がない」判事補像となっており、裁判所全体がそれに対する危機感を持つ必要があると指摘されています。判事補研修の中で、司法研修所教官や講師から「判例を無視してはいけないが、気にしすぎてはいけない。判例を変えていくのは下級審であり、その中心は君達若者である」とわざわざ触れなければならない、という実情を紹介されています。これにはちょっと驚きました。いくら経験年数が浅いといっても、「裁判官」であることには違いはありません。最高裁判例があっても、「この事件に、この判例を適用することはおかしい」と積極的に考えてもらわないと、裁判所を利用する市民にすれば、たまったものではありません。それゆえ、判事補研修では、もっと様々な考え方や視点を会得することに工夫を凝らさなければならないでしょう。司法の現状や将来に関心のある学者や民間団体との意見交流を判事補研修に取り入れることは、「裁判所型人間」「裁判所的人間」になりやすい判事補に、自分の仕事に対する今までの姿勢や視点を考え直させ、裁判所全体の在り方等も考えさせる契機になると指摘されています。
「第3章 裁判所の組織、組織文化の改革のために[裁判所リストラ作戦]」は、浅見裁判官による最も刺激的なものとして受け止められた論文で、「浅見は裁判官人生を捨てるのか」という声もあったそうです。しかし、この程度の論文でいちいち難癖をつけられていたのでは、言論の自由という重要な基本的人権に対する裁判所や司法当局関係者自身の理解を疑います。確かに裁判官がこうした改革案を明確に論じることが異例のことであるために、驚きをもって受け止められたのでしょうが、事実を論じ、改善策を提案されている以上、何ら非難するに値しないと思います。
司法改革時代において、現場の裁判官の思考様式・行動様式については、多数が「形式改革派」、つまり「形だけ従っている」という現象が生じているようです。その原因として、現在の裁判所の組織及び組織文化が、裁判所や裁判官の間に上下関係や序列関係を付けすぎ、裁判官の日常の思考、行動様式を、上下関係に従順なものにしすぎているためであると論じています。司法制度改革を実践するには、現場の裁判官が主体的かつ積極的に取組まれることが求められるはずです。消極的かつ依存的な態度ではムリです。法律が改正されても、従来と同じ発想や考え方では、法改正の趣旨が生かされなくなります。
第3章では、最高裁と下級審の関係について、憲法週間における最高裁判事の地方視察における座談会では、事前に出席者や発言者を指名し、発言内容の原稿を事前に提出させるという、どこの役所でも行いそうにないことを行っていること、裁判官会同・協議会では、最高裁事務総局が実質的に支配していて自由な討議ができないものになっていることへの改革案、最高裁事務総局から下級裁判所に対して送られる文書の中でも、法的根拠が曖昧な「書簡」を乱発することでがんじがらめにしていることなどが紹介されています。また、裁判所の間にも序列が存在するのは、何となく理解していましたが、例えば高裁なら、東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌・高松の順で最高裁事務総局が公表する人事異動などが載せられるとのこと。しかも、これが変わることが全くないというのですから、恐れ入ったという印象です。仮にこれが序列だとすれば、裁判所を利用する市民にも序列が付けられていると理解するのがスジでしょう。裁判所にそんな考え方があるのでしょうか。このほか「第4章 令状審査の活性化と公開化のために」、「第5章 夜間の令状執務体制の確立のために」、「第6章 裁判官意識は変わり始めている」「終章 平成司法改革の到達点」などの論文が収められています。
終章においては、平成司法改革の柱として@国民の期待に応える司法制度の構築、A司法制度を支える体制の充実、強化、B司法制度の国民的基盤の確立の3つであることを示し、第1章、第2章における提案は、平成司法改革によって受け入れられているとされるとともに、第3章の提案の受け入れは不十分であるとされています。平成司法改革の中では、国民の司法参加、つまり裁判員制度がどう円滑に始めることができるかが、司法に対する国民の親しみやすさを拡大する大きなポイントになることは言うまでもないでしょう。こんなことを言っている私も裁判員になる可能性があるわけです。もし、そうなったときは、積極的に対応していこうと決めています。
最後に、自治体政策法務に関心がある者として、司法制度改革が具体的な変化をもたらすかどうかの一つの指標に、行政事件訴訟があると思っています。この5年くらいの間に、行政訴訟の動向がいかなる変化をするのか、あるいは変化しないのかに注意したいと思っています。
2002年から2004年までの3年間に、司法制度に関する法令改正が急激に進められました。現場の裁判官に戸惑いも多いでしょうし、自治体関係者でこうした司法制度改革に関心を持っている人たちがどれほど存在するかとなれば、ますます心許ない状態でしょう。それでも司法の独立や発展は、今後、法化社会を構築していく上で重要な問題です。浅見裁判官のような気骨のある御方が、日本の司法の「柱」として、これからも更なるご活躍をしていただきたいと思います。(05.02.11記)
萩屋昌志 編著 「日本の裁判所 −司法行政の歴史的研究−」(晃洋書房・5,040円)本格的な司法行政に関する歴史研究書を読んだのは、初めてです。司法史について関心はあったものの、いざとなるとどうしても後回しになっていました。興味津々で、300頁余りの文献ですが、短期間で一気に読了しました。
ところで、地方自治と司法の共通点は何でしょうか。@両方とも、日本国憲法で独立の章を設けられている重要な制度であること、Aいずれも憲法で独立性を保障されていること、Bにもかかわらず、実際にはその独立性が脅かされ、あるいは侵害されていることが多いこと、ということになります。また、司法に限って言えば、三権の中でも最も組織規模が小さく、政治的権力との緊張関係をいかに回避するかに神経を尖らせているということも特徴だと思います。
編著者は龍谷大学法学部教授であり、民事訴訟法がご専門です。自治体政策法務論において、訴訟法務は重要なカテゴリーとなっていますが、残念ながらこの分野の研究はもっとも遅れていると言ってよいと思います。なぜなら、自治体職員で訴訟対応に追われる機会というのは、非常に限定されており、研究をするだけの素材を獲得することに難渋するからです。また、法制担当などで長年訴訟事務に従事していても、何らかの研究へと結びつけようとする人たちが少ないことも影響しているかもしれません。
しかし、本書は、そんな人たちであっても、三権分立の一翼を担う司法の実態を知る上で、貴重な研究業績であると思います。全体で2部構成で、「第T部近代日本における司法制度改革論議と司法省」が2章、「第U部最高裁判所の司法行政・人事政策」が7章から、それぞれ構成されています。全体を通読した後の第一印象としては、日本の司法権は、一貫して集権的な体制の維持・存続に力を注いでいるということが、実証されていることです。
第T部では、第1章で明治末期から大正期の法曹資格・任用制度の展開として、当時の司法制度を巡る政府(司法省)と弁護士会との問題が論じられています。そこでは、法曹資格は、大学での法学教育課程と切断され、国家試験による知識・技能習得の証明に一元化され、また、司法官試補任用及びその後の修習課程も司法省によって一元的に掌握されていたことは、戦後の司法試験制度にも結びついているように思いました。また、第2章では、昭和初期の裁判所構成法改正の試みとして、大審院の地位の強化と司法大臣・司法省の権限縮小といった法改正の作業が、司法省側によって司法裁判事務の監督という権限にすり替えられたといった問題が論じられています。当時の出来事が、以後、司法行政に通暁することが司法におけるエリートコースになり、官僚としての裁判官というものを生み出した土台になったように思われます。それは現在にまで脈々と続けられているように感じます。
第U部では、最高裁判所の司法行政・人事政策に関係するできごとを、1950年代から2000年代初頭まで、10年ごとに章を設けて、できごとの意味とできごと相互の関連などについての分析がなされています。第U部の特徴は、司法行政・人事政策についての最高裁判所の責任者や担当者の発言や談話が多数引用されていることです。特に最高裁事務総長などの要職にあった人たちの発言には、各時代における最高裁の一貫した立場や考え方が集約されています。では、最高裁の一貫した考え方とは何でしょうか。それは、裁判所外との関係においては、司法権の独立を堅持するという立場を戦後一貫してとってきたということ、そのために直接には裁判所外からの介入を阻止し、裁判官に自制を求めるために、政治的中立性や公正らしい外見を裁判官に求める「公正らしさ論」を展開したことに集約されます。そのマイナスの効果として、個々の裁判官に対してさまざまな萎縮効果をもたらしたわけです。現職の判事補が朝日新聞の「声」欄に令状審査の実態を投書したことで注意処分を受けたり、箕面市忠魂碑訴訟に補助参加をしていた司法修習生の裁判官任官拒否をしたという事件は、最高裁の方針に反するからということになります。裁判官が組織犯罪対策法制定の反対運動団体主宰の集会に出席し、発言しただけでも「公正らしさ」が国民から疑われるという考え方のようです。しかし、本当に国民はそうした裁判官を不公正な人だと決めるのでしょうか。それほど国民は馬鹿ではないでしょう。むしろ、政治的権力との緊張関係が生じることを怖れているように思います。
裁判官という職業の人たちが、最高裁の考え方である「公正らしさ論」から導かれる「裁判官像」のために、社会生活と分断されていると感じるのは誤りでしょうか。人権の砦である司法に携わっている人たちが、行政よりも閉鎖的、官僚的、集権的であり、言論の自由などが大きく制約されていると感じるのは誤りでしょうか。こうした司法権を担っている人たちが、地方分権との直接的な関連性を形成することは難しいのではないかと思いました。官僚的体質の強い司法権が、分権改革によって自治体が獲得した法令の自主解釈権を法廷に持ち込まれた場合、果たして分権改革の考え方を十分に理解した上で判断ができるでしょうか。(04.01.31記)
江藤俊昭 著 「協働型議会の構想 ローカル・ガバナンス構築のための一手法」(信山社・3,780円)著者は山梨学院大学法学部教授で、地域政治論がご専門です。政策法務論、特に自治立法論を考えるに際して、議会の役割の重要性は誰もが理解しているはずですが、分権時代を踏まえての自治体議会に関する文献は少ないように感じています。私は、自治体で政策法務が普及する条件としては、東大を中心に有名国公私立大学法学部や法科大学院で政策法務の講座が増えることと同時に、自治体議会が自分たちの権限である「条例制定権」にもっと関心を高めてもらうことにある、と思うようになっています。その場合、自治体議会がいかなる機能を有するものであるべきかを考える場合の視点として、江藤教授の主張される協働型議会という考え方は大いに参考になると思われます。協働型議会とは、監視型議会とアクティブ型議会をあわせ持った議会であり、監視型議会は政策立案機能とともに監視機能の役割を、アクティブ型議会は市民参加制度を議会に配置し、議会も市民参加に主体的にコミットする役割を担うことを意味します。ただし、議会は、住民が提起したオプション内での選択にとどまらず、新しい提案を行うことも重要な役割として機能しなければなりません。議会の調整機能も重要です。
市民参加や協働が進展するにつれて、議会の存在意義が希薄になっているという認識は、自治体関係者ならば多かれ少なかれ有しているでしょう。しかし、そこは発想の転換が必要なわけで、議会自身が市民参加や協働を推進することで、さらに存在意義を高めることができるというのが、協働型議会の構想であると思います。例えば、新基本構想と第3次基本計画の策定に当たり、公募市民によって素案を創り上げた東京都三鷹市の「市民21会議」のケースのように、素案段階から市民が積極的に関与していれば、議会がこれに口出しすることには躊躇し、むしろ協働や参画を否定したいという気持ちが強くなるかもしれません。しかし、むしろ市民の意見を踏まえて、議会ならではの高見識を示すことで、新たな考え方をまとめあげるアクティブ型議会の機能を発揮するチャンスかもしれません。住民との討議=熟議による政策形成です。本書では、熟議とは、合意を目指しつつも合意にいたる過程を重視し、至らぬ場合も視野に入れる討議を意味しています。
協働型議会へと変革するためには、監視型議会としての役割を拡充することも必要です。そこで、地方自治法96条2項によって議決権の拡充をすることも考えられます。福島県月舘町や三重県四日市市のように、基本構想の下位計画である基本計画、あるいは重要な個別計画を議決の対象とする条例を制定する事例は増えています。計画策定を行政任せから議会も関与することで、そのオーソリティを発揮できるわけです。計画策定段階から議会として関与することで、一定の責任を負うことになります。
市民参加の代表例が住民投票です。本書では原子力発電所建設を巡って行われた新潟県巻町の住民投票のプロセスを克明に描き出し、住民投票が議会の透明性、政策形成能力、政治的経済的社会的属性の接近などの変化をもたらし、議会の活性化を生じさせたことを論証しています。議会関係者の多くは住民投票条例導入には否定的でしょう。しかし、住民投票は決して議会の存在意義を失わせるようなものではなく、また、協働型議会へと変革することで住民投票の必要性は薄れていくのです。
分権時代における自治体議会のあり方を示す貴重な業績だと思います。(05.01.19記)
六本佳平 著 「日本の法と社会」(有斐閣・3,990円)本書は法社会学の第一人者・六本教授による最新の法社会学のテキストです。とは言っても、内容的には、2000年に放送大学教育振興会から出版された「日本の法システム」の実質的な改訂版となっています。(「日本の法システム」の書評は、法律書感想録2001年版で簡潔なものを執筆しています。)改訂版であるがゆえに、基本的な内容はほとんど同じで、データが最新のものに差し替えられていること、ボリュームが若干コンパクトになっていることくらいなのですが、それでも改めて全体を読み返すと、以前よりは私の理解度は多少なりとも進んでいるように思っています。人間、少しは進歩するものです。
本書の主たる内容は、日本における法と社会の相互作用を実態に即して描こうとしているものです。法を法の側からではなく、社会の側から見て、それが社会の中でどのようなはたらきをしているかを見ると同時に、法のはたらき方が社会によってどのように影響されているかをも示そうとしたものです。そして、ここでいう「法」とは民法や刑法などの法規範の体系ではなく、「法システム」を意味します。法システムとは、全体社会の中で法的秩序を担当する部門、いわば法的秩序を運営する仕組みという意味になります。法システムという概念を提唱されている背景には、法の実現過程への着目があります。どんなに立派な法規範が作られていても、当事者が自分の権利を主張しなかったり、弁護士の助力を受けにくかったり、裁判所の手続が利用しにくかったり、行政が動かなかったりすれば、法の働きが妨げられ、法規範は「絵に描いた餅」になってしまうからです。
本書の内容は、第1章法システムと法過程、第2章法文化、第3章紛争、第4章法使用、第5章紛争処理と、前半は私が政策法務の研究を進めていく上で大いに参考にしている諸概念を体系的に論じられています。
また、第6章法律家、第7章法役務T、第8章法役務U、第9章裁判制度、第10章民事裁判、第11章刑事司法と規制は、特に弁護士など法曹の問題、それに伴う裁判制度の問題などを詳細に論じられています。中でも、弁護士に関する論述は多く、同時に準法律家としての司法書士の役割にも言及されています。司法書士は、一般的には不動産登記などに関する事務を扱っていると理解されていますが、現実には市民からの法律相談に対応しているという実態の存在を指摘されています。弁護士よりも司法書士の方が、市民にとっては敷居が低いと受け止められているのは、どういう理由からなのでしょうか。土地・家屋の登記などに関する事務を扱っているため、比較的身近な存在として市民が感じているからでしょうか。そうなると、今後、さらに法化社会が進展する中で、司法書士の役割が拡充する可能性は少なくないでしょう。また、交渉法務との関係で改めて確認できたことに、裁判所における紛争処理の手続においても、処理過程は両当事者と裁判所との協働の過程であること、そして、それは裁判の過程が、提訴以前の裁判外過程からの連続する過程であることを意味するという点です。絶えず予測される法的判断を基準とし、その許容する範囲内で当事者が具体的な事情に応じて和解をさぐる過程は、「法の影の下の交渉」と言われています。
最後に、第12章法と社会変動T、第13章法と社会変動Uで締めくくられています。法過程を媒介として、法システム自体が変化していること、つまり、法システムの要素である法規範や法制度の内容が変化することが重要であると主張されています。社会変動という関係で、離婚法、農家相続、借地借家、男女雇用均等法などについて論じています。法による社会変動、あるいは社会変化によって法が変化するという視点は、地方分権の進展に伴い、自治体が自治立法権を駆使することによっても生じることであり、関心を持つべき論点であると思います。(05.01.10記)
<2004年版>
神原勝 著 「北海道行政基本条例論」、神原勝 編著「行政基本条例の理論と実際」(公人の友社、各1,155円)
今年最後の感想録です。2冊とも、本論が正味70頁ほどのコンパクトな文献ですが、内容は充実しています。まず、自治基本条例と行政基本条例の相違点は、簡単に言えば、前者は議会も含めた、市民・首長の三者間の相互関係を規定したもの、後者は議会が抜けているものです。議会改革が進んでいない段階での、本当の意味での自治基本条例の制定は、北海道ではムリがあったということのようです。そうなると、全国的に見て、真の意味での自治基本条例を制定できる自治体は極めて限られてくるような気がします。
さて、市町村初の「ニセコ町まちづくり基本条例」に次いで、都道府県として初めて北海道行政基本条例が2002年10月18日に公布・施行されました。しかし、ニセコ町条例が全国から高い評価がなされていることと比べて、残念ながら北海道条例はそれほど評価がなされていませんし、注目度も希薄です。北海道は1995年以来、分権時代の到来を強く意識して、全国で最も精度の高い情報公開条例、政策評価条例、オンブズマン条例など、先進的な道政改革を実施してきました。そのトータルな整備状況は全国的に見ても群を抜いているのです。行政基本条例を制定する場合、各論の制度化が相当進んでいなければ、レベルの高い条例を制定することは不可能なことを理解しなければなりません。自治体関係者の中には、自治基本条例や行政基本条例を制定すれば事足りると考えているふしがありますが、これは大きな誤りなのです。神原教授は、各論的制度は自治基本条例を制定した後に委ねるとなれば、その基本条例は極めて抽象的な理念だけの作文条例になり、また、その抽象性が原因となって、基本条例制定後の個別制度の整備も進まないことになると鋭く指摘されています。自治の実践を地道に推進することの重要性を改めて認識させられます。
さて、北海道はこれらの条件を満たしていると神原教授は主張されています。ところが、現実に出来上がった条例は、非常に抽象度が高く、「行政理念条例」にしかならないこと、道民の権利規定がないこと、最高規範性に関する規定がないことなど、多くの問題点があることを指摘されています。行政基本条例は、これまでの道政改革の集大成であり、集大成というのは、これまで実行した改革の成果を集約すること、まだ達成できなかった改革の課題をこの条例で実現するという二つの意味を含むはずですが、後者についての言及が少ないのです。
北海道行政基本条例が検討されると同時に、神原教授たちは研究会を組織して、「北海道行政基本条例案」を作成されました。条例案を読んだ感想としては、内容が具体的で、詳細であるということになります。条例案はあくまで、北海道がこれまで取組んできた、優れた道政改革の成果を踏まえた、ハイレベルな条例案だということで、どこの自治体でもこれを制定できるわけではないということです。
では、現実の条例は、なぜ後退したものとなったのかと言えば、それは議会の理解が不十分だったからという点に尽きます。基本条例イコール道民投票条例のようなイメージが先行し、肝心の内容について十分な議論がなされなかったようです。こうした誤解を招いたことは、マスコミにも責任があると言えるでしょう。道議会は、道民投票を実施されると議会の存在意義が消滅するとでも考えていたのでしょうか。神原教授が主張されるように、行政基本条例の内容が具体的であれば、議会の行政監視機能の向上に役立つという点を忘れてはなりません。行政運営が条例に即したものなのかどうか、明確にチェックできるからです。決して議会軽視などではないことを理解すべきでしょう。逆に、抽象度の高い条例では、行政側に裁量権を付与することになり、職員はいかようにでも説明できることになります。それが果たして自治体の憲法と呼ぶに値する条例として、職員や市民が尊重するようになるかと問われれば、当然に否定的回答になるわけです。
何度も言いますが、自治基本条例・行政基本条例を制定するならば、各論的制度の充実した整備が要求されるのであり、当然に政策法務の推進が必須となるのです。条例を創ることは自分の首を絞めるようなものだと平然と言ってのける幹部職員がふんぞり返っているような自治体では、仮に自治基本条例が制定されても、単なる作文にしかすぎないものになるわけです。そのような条例を創ることは、それ自体が税金の浪費となるのです。自治基本条例を創る目的は、自治体政策の質的向上を実現するためであり、職員が行政の基本的システムを十分理解した上で政策遂行するためなのです。そうすることで、意識も変革できることになるわけです。勿論、自治基本条例・行政基本条例が政策法務の今日的到達点であることを知らないまま、条例制定に取組むことは茶番劇として全国から失笑を買うことになることを肝に銘じるべきでしょう。
(04.12.26記)
松下啓一 著 「協働社会をつくる条例 自治基本条例・市民参加条例・市民協働支援条例の考え方」(ぎょうせい・3,800円)
著者は大阪国際大学教授で、横浜市職員OBです。自治基本条例や市民参加条例は、どちらかと言えば中小規模の自治体で先行的に取組まれ、政令市など大規模自治体での取組みは、やや遅れてのスタートといった印象を持っています。本書においても21の自治基本条例が取り上げられていますが、ほとんどが中小自治体のものとなっています。では、なぜ、こうした現象が生じているのでしょうか。あくまで私の想像にすぎませんが、ニセコ町まちづくり基本条例の制定を知った中小規模の自治体関係者が関心を持ち、条例制定に着手した反面、「プライドの高い」(?)大規模自治体は中小自治体の取組みのモノマネなどはできないという意識が強かったということでしょう。ところが、分権改革の開始、長引く不況による税収減などで拡大路線の転換、新しい公共領域の出現などの諸要因が重なり、自治体の自主・自立を実質化するためには、自治のあり方について条例で明確化する必要性が認識された結果、大規模自治体においても取組みが始められた、という構図ではないかと思っています。少し前までならば、先進的な取組みを政令市などが実践し、それを中小自治体が追随するという構図が一つの典型例だったと思うのですが、自治基本条例に関してはそれが逆転しているというのは、中小自治体の危機感がいかに高いかということの裏返しでもあると思います。
自治基本条例は、自治に関する基本的事項を定めた「自治体の憲法」とされる条例です。では、「あなたの勤務する自治体における自治の理念や基本的制度、権利は何か」と問われて即座に応答できる人はどれくらいいるでしょうか。「協働とは何か」と問われて答えられる人はどれくらいいるでしょうか。自治基本条例を制定していなくても、事実として自治の理念や協働が地域全体に浸透していれば、わざわざ条例化しなくてもよいのではないかとも思います。逆に、自治基本条例を制定しても宝塚市のように市民の4分の3以上、市職員の6割以上が知らないという状況が発生するわけです。介護保険課職員で介護保険条例の内容を諳んじて説明できる者が果たしてどれくらい存在するかを思い浮かべれば、こうした現象が発生することは予測可能だと思います。こうしたことを覚悟したうえで、それでも自治基本条例を制定するならば、我がまちにおける自治の基本は何を拠り所とするのかが重要となり、制定過程では多くの市民参加が必要となるのです。また、自治基本条例は未来志向型条例のはずです。しかし、前文では新しい自治のあり方を高らかに謳いあげながら、本則になった途端、現状確認的内容になってしまう可能性は大いにあるでしょう。それが「自治体の憲法」なのかと疑いの目を持ってしまうことにもなりかねません。そうなると、本当に「自治体の憲法」と呼ぶに値するだけの条例を制定できるだけの力量がその自治体にあるのかが問題になるでしょう。その点を市民との協働による制定作業で補完していくことができれば、それは一つの自治の姿であり、非常に重要と言えると思います。
市民参加条例や市民協働支援条例と呼ばれる条例は、位置づけとしては自治基本条例を補完する、自治基本条例附属条例とでも呼ぶべきものだと思います。これらは比較的内容が具体化しているため、取り組みやすく、条例運用も安定的に可能だと思います。自治の基本を定める条例を制定する前に、むしろこうした条例を先行させ、具体的取組みによって仕組みを浸透させてから自治基本条例の制定に着手しても良いかもしれません。もっとも、自治基本条例と市民参加協働条例を同時に制定するケースも目立ちます。しかし、市民参加にはコストがかかるという点も見逃すべきではないでしょう。住民投票を県レベルで実施となれば、十億円単位の経費を要することになるとともに、合意形成にも手間がかかるということは覚悟しなければなりません。
自治基本条例は、単に条例を1件制定すればよいというのではなく、既存の条例や規則などの洗い出しが必要です。自治基本条例の内容と矛盾衝突するような規定は見直す必要があり、あるいは時間の経過によって陳腐化している条例は思い切って廃止することも必要かもしれません。要綱の条例化という問題もあるでしょう。それだけの苦労をして自治基本条例を制定するヤル気、根気があるかどうかということも、自治体の真剣度、自治能力の有無を見極める一つの指標だと思います。
本書は、今後、自治基本条例等の制定を進める上で、欠かすことができない1冊になると思われます。
(04.12.11記)
西尾隆 編著 「住民・コミュニティとの協働」(ぎょうせい・3,000円)
「自治体改革」シリーズの第9巻になります。全体で5章構成で、第2次地方分権改革の柱の一つである住民自治の拡充を大きな論点として、コミュニティ行政、協働型まちづくりの実践事例などについて、論じられています。
協働概念については、今やほとんどの自治体が行政を展開する上で導入している、最もメジャーな概念になっていると評価できるでしょう。しかし、自治体内の個々の職場単位まで浸透しているかと問われれば、それには疑問符がつきます。特にNPOとの協働関係の構築については、自治体・NPO双方が疑心暗鬼なまま歩み寄りがなされていない状況となっている地域も少なくないと思います。協働という言葉は定着し、様々な公文書で使用されるようになっても、真に組織の末端までコンセプトとして浸透していないわけです。自治体職員にすれば、自分たちがやろうとしていることに外部の者が偉そうに口出しするなという(歪んだ)プライドが影響しているかもしれません。また、NPOの中には残念ながら「胡散臭い」ものもあり、その見極めがつきにくいという問題もあります。それゆえ、協働型のまちづくりを推進していくためには、まずは長年に渡って地域住民で組織している団体、すなわち、自治会・町内会などとの連携を強化して、コミュニティ行政を推進する手法を好む自治体が多いのではないでしょうか。文献において、NPOとの協働事例が殊更取り上げられるのは、まだそうした事例がレアケースであることの裏返しとは言えると思います。
地域住民との協働によるまちづくりと言っても、まだそれほど成功事例が多いわけではありません。第2章、第3章では東京都三鷹市での取組事例が相当詳細に紹介されています。情熱を持って協働型まちづくりに取組まれた関係者の方たちには敬意を表しますが、これがスタンダードな協働のモデルであると言われると尻込みする人が多いと思います。基本構想を公募市民だけで構成される審議会で素案を作成することなど、ちょっと考えられませんし、場合によっては議会軽視だと反発を買うことになります。それゆえ、本書を参考にしつつも、まさに地域の特性に応じた協働型まちづくりを作り上げるしかないでしょう。徐々にレベル向上を図るしかないと思います。第5章で紹介されている所沢市の協働型福祉政策や神戸市長田区真野地区の震災対応事例を参考にする方が先かもしれません。
第4章では近隣政府の展望が論じられています。自治体が地域住民との協働を推進し、住民自治を拡充するための装置として、地方自治法が改正され、地域自治区制度が導入されました。2003年11月13日に出された第27次地方制度調査会答申を踏まえての法整備となります。今後は、地域の特性に適合した地域自治区に関する条例を制定した上で、都市内分権・住民自治の拡充を促進する自治体と、条例化しないままでいる自治体に分かれていくことになるでしょう。しかし、自治体がかりそめにも協働型まちづくりの展開を標榜するならば、なぜ、地域自治区を設けないのかについて、住民に対して明快な説明をする義務が発生すると言えるでしょう。まさか地方制度調査会の答申内容を全く考慮しないとは言えないはずです。言い換えれば、協働型まちづくりが本物か偽物かが、明確に判別される時代になると思います。そして、地域自治区制度の登場は、住民自治の拡充のための政策法務に取組む自治体とそうではない自治体とに二分されることにもつながると思われます。
(04.11.28記)
木佐茂男 著 「人間の尊厳と司法権 −西ドイツ司法改革に学ぶ−」(日本評論社・5,250円)
本書は1985年7月から1987年6月末までの2年間、木佐先生が(旧)西ドイツ・フンボルト財団の奨学生としてミュンヘン大学で研究されていた時に、1986年9月から取組まれた司法問題についての論稿を単行本化されたものです。基礎となった論文は、判例時報1264号から1293号(1988年4月11日号〜1989年1月21日号)にかけて連載された「開かれた親切な裁判所と行動する裁判官―最近の西ドイツ司法事情」(1988年−89年)というもので、木佐先生ご本人によれば、連載期間中は、毎週、原稿用紙100枚ペースで執筆されたとのことで、肉体的あるいは精神的にもかなりの緊張状態の中での大がかりな仕事であったようです。特に、当時、西ドイツの司法制度改革の実情を日本で詳細に紹介されることは、司法当局関係者にとっては、ものすごく「迷惑」で「腹立たしい」ことだったでしょう。なぜなら、木佐先生の論文によって、いかに日本の司法が閉鎖的で、市民に不親切かを実証することになったからです。それゆえに、木佐先生の本書に対する思い入れは格別に強いのではと思います。研究者としての面目躍如といったところでしょうか。
さて、日本の「三権」の中で、国民から最も縁遠く、近づきにくいものが司法であることは、ほぼ共通の認識であると思います。現在は司法制度改革が進められており、今後、かなり市民にとって分かりやすくて使いやすい、しかも実効的な救済制度に改善されることが期待され(?)ます。しかし、そもそも裁判所に一度も行かずに人生を終える人は非常に多いでしょう。市役所に一度も行かずに人生を終える人が極めて少数であることから考えても、その差は歴然です。特に、日本の司法制度が、国民から遠い存在であることの理由としては、形式主義と専門用語の壁があると思います。厳格な書式に準拠した書面の作成が要求されるとともに、法律家にしか理解できない専門用語(業界用語)の前に立ち往生する市民は多いことと思います。その中でも、行政庁を相手にした行政訴訟では、却下件数の多さ、勝訴率の低さ、という点から実行的な救済制度としてほとんど機能していないのではないかという見方も可能でしょう。行政法の体系書で「行政救済法」と名づけている文献は多いですが、本当に救済法の名に値しているのか、疑問視しています。この状況を劇的に改革しない以上、国民が司法に親しみを持つという現象は発生しないように思います。
こうした日本の司法制度状況を踏まえて本書を読むと、西ドイツの訴訟制度は日本のそれと比べると、「エエッ!」と驚くくらい脱形式的であることを知ることができます。例えば、訴状は「手紙」のような非形式的なものでも受け付けられ、また、「口頭」による出訴でもよく、あるいは裁判所に常駐している司法補助官が訴状を作成してくれるというサービスもあります。これは日本では考えられないでしょう。できるだけ訴訟はさせないような仕組みになっている日本と、法的問題があれば裁判所で解決するのが当然だという法治主義国家としての考え方に根本的部分での差異があるように思えてきます。ドイツの訴訟制度がいかに市民に親切なものかは、この点だけでも十分に伝わるのではないでしょうか。
皆さんは、裁判官や検察官で知人はいますか?仮にいるとして、気軽に会って話すことはできますか?あるいは、面識のない裁判官に申し出て、直接会い、裁判のことや世の中のことを話したことがありますか?あるわけないですよね。(ちなみに、私は、ある会合で裁判官の肉声を聴く機会に恵まれたことがあります)本書を読んでいて、ふと気付いたことに、木佐先生が裁判官にインタビューした資料をベースにして執筆されていることは、ドイツでは裁判官が日本の法律学者に気軽に会って、インタビューに応じてくれるということです。日本では、例えば、最高裁判所判事に直接インタビューするようなテレビ番組は、民放では皆無ではないでしょうか?こうしたことからも、裁判官が市民に身近な存在であることを感じさせてくれます。ドイツの裁判官たちに対する、こうしたことが実現可能なのは、「裁判官の独立」が形式的にも実質的にも実態的にも保障されているからだと思います。日本で裁判官が独立しているとまともに信じている人がどれだけいるのでしょうか?司法改革をするならば、裁判官の独立は第一の課題のはずですが、話題になりませんね。
もちろん、ドイツの裁判官が初めからそうしたものであったわけではないようです。1960年代から70年にかけて、権威主義的な司法を、裁判官自身によって「内から」の司法改革を進められたということです。当時、社会裁判権での実務は「法律の素人に分かりやすい形式で法律と事実に関して包括的な対話をすることがいかに不可欠であるか」「裁判官は、裁判官が国民の真っ只中にいるとの認識を訴訟手続実務の中で実現しなければならない」と考えていたことなどが紹介されています。こうしたことは、自治体職員にも同様に受け入れられるべき考え方だと思います。日本では、そもそも裁判官たちによる改革など、ほとんど考えられないように思われるため、それだけで驚きです。もっとも、これは行政にも通じる問題でしょう。
本書を読んでいて惹かれたのは、旧・西ドイツの行政訴訟に関しては、裁判官、ことに裁判長は口頭弁論の際に原告にその主張を全うさせるように援助をしなければならず、さもないと手続は違法となるとされ、この意識は現役裁判官を強く支配していると紹介されている点です。そして、行政訴訟の審理手続の諸原則の中で、「法的聴聞」の原則があり、これは基本法103条・ヨーロッパ人権規約で保障されているほか、訴訟法にも規定がおかれていることが紹介されています。基本法103条の法的聴聞規定は、法治国家原則と人間の尊厳を具体化した規定なのです。日本の行政訴訟法に人間の尊厳を具体化したような格調高い規定は見当たらないでしょう。人間の尊厳を具体化するとは、人間を裁判手続の客体におとしめないことを目的とするということです。木佐先生は、この「法的聴聞」であるドイツ語Rechtsgesprächを、むしろ「法的対話」として直訳するほうが適当であるとされたのです。ドイツにおける人間的な司法、そして法制度への関心を高めてくれます。法的対話の重要性は、自治体政策法務を論じる上でも欠かせない論点となっているわけです。
本書は1990年4月に出版されており、既に15年近い歳月が経過しています。それでも旧西ドイツにおける司法改革、司法制度、その実務などは驚くほど市民に身近なものであることを感じさせてくれます。ドイツの法制度に馴染みの薄い私は、当初、本書を読み進めることに相当苦労しました。しかし、時間をかけて読むことで、外国法制を学ぶことの面白さを認識させていただいたように思います。(04.11.20記)
田村秀 著 「政策形成の基礎知識−分権時代の自治体職員に求められるもの」(第一法規・2,415円)
著者は新潟大学法学部助教授で、自治省OBです。岐阜県・香川県・三重県での勤務経験を有されており、自治体現場の実情を熟知されていることが本書を読んでいても窺えます。東大工学部卒という経歴も目につきました。ところで、市役所で仕事をしていても、最近は「政策」というのは、ほぼ日常用語となっています。本書においても、政策概念を明確に定義することは極めて難しいとされています。私が以前に言われたことは、何らかの新たな付加価値を加えることになる事業は政策であり、現状維持を主目的とするものは単なる事業ということでした。これは市の基本計画で採用するか否かの基準の1つになっているとも聞かされました。しかし、これでも具体論となれば迷うことが多いでしょう。
本書は全体で14章構成、本論280頁余りのボリュームです。今までにない視点や論点を提供しており、非常に興味深く読み進めることができたと思います。内容は、法務論よりも、政策論であることは著書の標題からもご理解いただけると思います。私が特に印象深く残った点について、簡潔に紹介することとします。
第2章・世論調査と住民アンケートでは、質問内容や回答の選択肢、そして回収率の重要性、相関関係と因果関係の相違などについて関心を惹きました。新聞の世論調査でさえ、質問事項として不適切なものが少なくないことを知るとともに、質問の仕方によって回答が大きく変わることを具体例を挙げて指摘されており、目からウロコの思いになりました。また、素人感覚からも回収率の低いアンケート調査にどの程度信頼できるのかと疑問に思っていたところ、具体例を用いながらの論証で明確な理解を得ることができました。事務事業を進めるに際して市民意向調査を実施しようとしていたところでしたので、今後の実務に大いに役立つと思っています。
第3章・統計データの料理法も、私にとって新たな視点を提供してくれます。先が見えない現在において、地方自治体は限られた情報から真に必要な政策を選択し、実行するためには、統計データの正確な分析能力は重要性を増すことは言うまでもありません。税理士の平均年収3000万円と専門学校が紹介しているパンフレットを見れば誰でも税理士になりたいと思いますが、現実には年収ではなく収入であれば、全く異なる結果になるわけです。収入から諸経費を差し引いたのが年収であり、税理士のモデル給与収入は40歳で800万円から1000万円とのことになるので、相当異なってくるわけです。例えば、国家公務員の冬のボーナス支給額平均75万円などと新聞記事になっていても、「管理職を除く」という記載に注意すべきだということです。管理職の平均ボーナス支給額はさらに多額になることが理解できるでしょう。公務員の賞与を少しでも低く示すための工作でしょうか。
第6章・組織内外の調整と組織の改革では、調整業務の現実として、「県庁の場合は、各部がミニ省庁のごとく、縦割り行政の弊害が著しい霞ヶ関における権限争いの代理戦争を繰り広げることすらある」と言われていますが、それは市役所でも大体同じようなことだと思います。組織内部での責任のなすりつけあいが相変わらず多いのではないでしょうか。そのような中、岐阜県多治見市と福島県の組織改革の取組みが紹介され、組織のフラット化による行政効率のアップや意思決定のスピードアップが図られています。
第10章・結果よければすべてよしか?も印象深く残ります。公務員の世界でも成果主義なるものが注目されていますが、法律による行政の原理を遵守しつつ、成果を出すことが重要であることは、言わずもがなのことです。この数年、とにかく法令遵守を軽視するような事例をたびたび目の当たりにしているため、成果主義が本格導入された場合、第2の雪印になる可能性があると思っています。本章では政策法務の必要性も強調されており、心強いばかりです。
第12章・NPOとの連携については、行政施策がNPOの活動を阻害するような状況が多いことを指摘されるとともに、NPO側の問題として、情報公開や第三者評価への取組みがより一層必要であると言われています。確かに、自治体とNPOとの間で連携を実現するためには、相互に信頼関係が構築されていることが必要ですが、市職員にはNPOに対する不信感を持つ人が少なくないと思います。各論になれば、まだまだといったところです。昨年度の話ですが、外郭団体等に対して、ある事業の委託を検討していた時、「NPOは、実質、何の担保もない。委託料だけ受け取って、夜逃げされたら終わりだ」といった発言を上司がしていました。そして、私も、それに対して同調していました。しかし、NPOとの協働がなければ、行政の効率化とサービスアップは実現困難な時代になっているように思うようになり、各論としての具体的取組みを推進する必要があると考えています。最近、私は、NPOにも事業の一部を委託できないものかと考え、担当している事業の改定について提案を試みましたが、職場では何の議論もされずに却下されました。
第14章・NPMは絶対か?−まとめに代えて−では、世界を席巻し、日本の自治体でも熱心に導入を進めているNPMについて、やや批判的に論じています。従前から、私もNPMの導入については、法制度や市民意識、地域風土などが異なる日本で、舶来理論をそのまま適用できるとは到底思っていなかったため、疑問視していました。
本書は、公共経営論などとも異なる、独自の体系による政策論に関する文献です。著者の豊富な実務経験も披露されており、「面白い政策論」と言えます。価格も手頃なので、特に法務が苦手だという方は、本書から勉強を始められてもいいでしょう。
(04.11.07記)
礒崎初仁 編著 「政策法務の新展開−ローカル・ルールが見えてきた−」(ぎょうせい・3,000円)
西尾勝・神野直彦編集代表「自治体改革」シリーズの第4巻になります。全体で6章構成で、第1章から第5章までは政策法務総論に位置づけられる内容であり、第6章は政策法務各論として位置づけられる、「自治立法のスタンダード」という標題で、第1節から第10節で構成され、行政分野別の条例に関する論文が収められています。本書は政策法務論の中でも、条例論が中心で、必要に応じて執行法務論にも言及している内容と言えるでしょう。私としては珍しく後半部分である第6章から読み始めました。条例論については各論として多くの論点があり、私の考え方についてまとまったものを別稿で提示したいと思っています。そこで、ここでは第5章までの内容と感想を簡潔に述べておきます。
第1章・政策法務の現状と課題は礒崎初仁教授(中央大学)が執筆され、政策法務の意義、政策法務(実務)の到達点、政策法務論(理論)の到達点、政策法務の課題と展望について論じられています。礒崎説をほぼ体系的に整理されていると思いますが、執行法務の課題として、法令の自主解釈・運用については、多くの自治体で取組みがなされておらず、早期に自主的な解釈運用のスタイルを身につける必要があると指摘され、具体的な方法として法令事務を執行する上で条例、規則等で定めるべき事項がないか検討すること、法令に基づく審査基準等について見直しを行うことなど、5点提示されています。自治体政策法務と言っても、圧倒的に多くの自治体職員が関係してくるのが執行法務で、それがゆえに、新たな取り組みに着手することはなかなか困難であるのが実感です。
第2章・政策法務の論点は、山口道昭教授(立正大学)が執筆されています。山口教授も、分権時代における自治体の法令解釈権の拡大について強調され、それが条例制定権の拡大とも結びつくことになることを論じるとともに、条例制定には立法事実が重要性を帯びることを主張されています。条例の権威は立法事実にあるという論じ方は、条例制定に際して、自治体職員が立法事実をいかに把握し、論証できるようにしておくことが重要であるかを認識させてくれます。
第3章・政策法務のプロセスは、出石稔氏(横須賀市役所・関東学院大学法科大学院非常勤講師)が執筆されています。政策法務プロセスの前提として、集権時代の国照会法務から自己決定・自己責任法務になっていることを要するとされています。これが実現できていない自治体はまだまだ多いでしょう。そして、出石氏の政策法務プロセスの特徴は、法執行法務から政策法務が始まるという考え方です。私も政策法務における執行法務の重要性は認識しつつ、その実態を描写することに心がけてきましたが、政策法務プロセスの冒頭に法執行法務を位置づけることまではしていませんでした。出石氏の考え方は、より実務に対応した理論体系であると思います。第2章と第3章では具体的事例として、地下室マンション問題が取り上げられており、この問題に対するお二人の関心の高さが窺えます。ちなみに、2004年になってから、横浜市・川崎市・横須賀市の3市が一定の連携を取りつつ、地下室マンション条例を制定しました。政策法務先進都市・神奈川における素晴らしい先進事例でしょう。
第4章・政策法務のマネジメントは、田中孝男氏(札幌市・札幌大非常勤講師)が執筆されています。つまり、第1章から第4章までは政策法務論の四天王(?)が執筆されていることになります。経営学やマーケティング論から政策法務のマネジメントというテーマを論じるのは、おそらく初めての取り組みでしょう。田中氏は「地域の自主的な法システムの設計・運用について、各自治体の置かれている諸事情・環境に照らし、当期の目標達成に必要な限度において、諸資源を有効に活用して最大の効果を得るための諸活動」と定義されています。政策法務に関心もヤル気も全く持たない自治体及びその職場で生きている私としては、かなり難解な論文で、ここまでできるようになるには早くてもあと1世紀は要するのではと思ったくらいでした。再度、じっくり吟味しなければならないと思っています。経営学等を活用した政策法務論は関心を惹きます。とは言うものの、そもそも政策法務もマネジメントも成り立っていない自治体で、政策法務マネジメントが議論できるはずがありません。
第5章・政策法務と協働型社会は名和田是彦教授(東京都立大学)が執筆されています。自治体における「協働」について、構造的不況から脱却するために行われた新自由主義改革の帰結として出てきた新局面であるとし、自治体としての公益のあり方の判断を市民と共有するという「協働」型の考え方がこれからの政策法務に求められていると主張され、実際、多くの自治体ではこの考え方に立脚して条例創りが進められているとされています。そして、市場重視の新自由主義の考え方(リバタリアニズム)は、一方で競争に敗れた者などが貧困などの病理現象を生む原因となるため、協働型社会構想(コミュニタリズム)との間で奇妙な相互依存関係にあると論じられています。自治基本条例や市民投票条例などは協働型社会への試みと理解できるとされ、今後はコミュニティの制度化についての政策法務、つまり、改正・地方自治法の地域自治区の条例化による政策法務が必要となると帰結されています。地域自治区条例について、まだそれほど話題が沸騰しているという状況ではなさそうですが、住民自治の拡充を標榜する自治体首長が多い中、どれだけ特徴のある条例が制定できるか、実質的に部外者である私としては外野席から見物するしかありません。近隣政府論については、別途文献を読んだ上で紹介したいと思います。
最後に一言付け加えるとすれば、本書は最新の政策法務の論文集ですが、関西地域の自治体関係者が誰一人として執筆者として加わっていないことが気になります。やはり「条例を創ることは、自分で自分の首を絞めることだ」と考えている職員が多数派ということなのでしょうか。
(04.11.03記)
和田仁孝・樫村志郎・阿部昌樹 編 「法社会学の可能性」(法律文化社・6,090円)
法社会学の泰斗・棚瀬孝雄教授の還暦記念論文集です。全体で5部構成、17本の論文が収められています。
皆さんは、「ザ・ジャッジ」とか「行列のできる法律相談所」というテレビ番組をご覧になるでしょうか。日常生活で起こりうるトラブルを紹介し、例えば損害賠償責任を負うべきかどうか、弁護士が見解を示すという内容のものです。こうした番組を見ていると、テレビのフリップで「意外な結論にスタジオは驚き!」という表記がなされることが頻繁にあります。法律に疎遠な一般視聴者にすれば、自分たちが持っている常識と乖離した結論が出されることで意外性を演出するわけです。これを法社会学の立場から表現すると、「法と社会の分断」という言い方になるわけです。これは、法的には正しいことを意味しても(合法性)、端的に正しいと受止めるわけではないということになります(正当性)。リーガリズム(リベラル・リーガリズムとリーガル・コンベンショナリズムの2者があります)とは、まさに、合法性が正当性に取って代わることを肯定する思想にほかならないということになります。しかし、リーガリズムこそが法と社会の分断を招いた張本人であり、両者は一体として分離できない輪を作っています。この輪を解くための外側からの挑戦を行うのが法社会学の役割だということです。社会とは独立に与えられた法が社会を支配したり、法律家共同体の世界に内閉するのではなく、法は社会に内在するものとして理解されなければならないわけです。正当性によって合法性を規定すべきだというのが、リーガリズムへの批判であるわけです。(第1部 法の理論と法主体 佐藤憲一「ポスト・リーガリズム」)
北海道ニセコ町の「まちづくり基本条例」は、自治基本条例の嚆矢として、もう皆さんもよくご存知のことでしょう。しかし、いくら自治基本条例を「自治体の憲法」として制定したとしても、法的な効果が発生するわけではありません。裁判を通して強制的に実現可能な権利義務関係の創設という、伝統的に立法の機能とみなされてきたものとは異質な、条例が果たしうるもう一つの機能への期待があるのではないか、それは住民自治の担い手としての「集合的アイデンティティ」だということです。これは、「集団成員の共通の利害関心、経験、および連帯から派生する、自らがいかなる集団であるかについての共有された定義」などという意味とのことです。もう少し簡単に言えば、ある範囲の人々の間で間主観的に共有された「我々はいかなる集団であるか」についての自己定義だということです。ニセコ町条例の制定は、集合的アイデンティティを構築するための、アイデンティティ・ワークであったと考えることができるわけです。自治基本条例の制定を考えている自治体関係者は、この論文を精読すべきではないでしょうか(第2部 法意識と法行動 阿部昌樹「集合的アイデンティティの法的構築」)
本書は、他にも法律相談や医療過誤の本人訴訟の問題など、興味深い論文が満載です。私も職務上、多くは法律の素人である、市民との間で、介護保険法というものに関する「法的な対話」を毎日しています。法の語りというテーマは、自治体職員にとっても重要ではないでしょうか。
「法社会学の可能性」として、やはり紛争解決というテーマが大きく存在していると思います。特に、民事訴訟法の改正によって、専門委員制度が導入され(92条の2以下)、医療過誤訴訟などの専門訴訟の審理充実が期待されます。また、批判が強かった行政事件訴訟法も、研究者にはまだ不十分という声があるものの、一応、原告適格の要件が緩和されるなど、大改正がなされたことにより、行政訴訟の判例動向に変化が期待できるのではないでしょうか。当然ながら自治体訴訟法務にも大きく影響してくるでしょう。制定法の解釈中心の法律学が重要であることは否定しませんが、これに加えて、政策法務を推進するためにも、独自の理論的視点から議論を展開している法社会学の知見を活用することは非常に意義のあることだと思っています。少し値段が高いですが、一読の価値十分ありだと思います。
(04.09.27記)
加藤新太郎 編著 「リーガル・ネゴシエーション」(弘文堂・2,310円)
編著者の加藤氏は裁判官出身で、現在、司法研修所教官です。加藤氏のほかに、柏木昇・中央大学教授、豊田愛祥・弁護士、堀龍兒・早稲田大学大学院教授、佐藤彰一・法政大学教授が著者として、分担執筆されています。本書は、文字どおり、法的交渉論に関するテキストです。法的交渉論を横文字にしてリーガル・ネゴシエーションなのです。法的交渉論は、今までならば法社会学の一領域としての文献という位置づけで出版されるものが多かったと思いますが、最近出版されているものは、どちらかと言えば実務と理論の両方を意識した文献ではないでしょうか。そして、本書は主として弁護士や企業法務マンなど、法律実務家に必須の基本スキルであることを前提に、学としての法的交渉論の構築を意図したものとなっています。私としては「待ってました!」と飛びついた文献になります。
本書では、ネゴシエーションとは「利害の対立する複数の関係当事者が、コミュニケーションを通じて、合意形成(交渉妥結)を目指して、互いの利益を調整し実現していくプロセス」と定義しています。そして、リーガル・ネゴシエーションとは、ネゴシエーションの対象が法的に規律されるべき事項、または法的規準によって解決されるべき事項であるものとされています。私が主張している自治体の交渉法務と関連性を有していると思っています。
多くの人は、まだ、「交渉」なるものを学問あるいは科学として研究、考察の対象にすることは論外ではないかと理解されているでしょう。しかし、本書においては、「学としての法的交渉論」は一つのディシプリンとして十分成立するばかりか、むしろその形成と展開が望まれているというのが現状であると明確に述べられており、私もこの姿勢に共感を覚えるわけです。ただし、科学とは言っても、「普遍的な」交渉戦略や理論というものはありません。交渉の全てに妥当する一般理論はなく、あくまで相手方との相互関連的な作業を展開して、結果が生じるものであるという理解に立脚しています。もちろん、より広い汎用性のあるネゴシエーション・スキルが存在することまでを否定しているのではありません。有名なハーバード流交渉術である原則立脚型交渉は、広い汎用性を持った交渉理論として評価されてますが、あてはまらないケースも多いということです。交渉の一般理論がないということは、相手の持つ文化、心情、マインドセット、価値観、好みなどの主観的要素によって、効果的な交渉のやり方は大きく変わることであると指摘されています。勿論、ハーバード流交渉理論が日本の法的交渉論や交渉学に影響を与えていることは言うまでもありません。特にBATNA(Best Alternative To A Negotiated Agreement:交渉が決裂したときの代替措置=不調時対策案)については、支持者が多いですし、私もなるほどと思いました。ハーバード流から影響を受けていることは、拙著「交渉する自治体職員」においてもそうですし、既にここで紹介させていただいた田村次朗教授の「交渉の戦略」を読んでも明らかです。もっとも、自治体内部交渉で感じることは、立場駆引き型交渉に余りにも偏頗しすぎているという点でしょう。これが住民との交渉になったときにも援用されてしまうため、住民との信頼構築という点で支障が生じると気付いている人は、まだ皆無に等しいと思います。
本書では、日本人の交渉術の特徴の一つに、意思決定については、御神輿担ぎのように、全員参加型の意思決定システムであると指摘されています。純粋なボトム・アップではなく、意思決定システムの中心になる有能な部下が、社内関係者から意見を聴取して、調整を行い、根回しもするため、情報が集中し、その者の地位とは必ずしも関係なく、説得力を持つ者の影響力が大きくなるのです。これは自治体交渉においても、ほぼ同様に考えられるでしょう。決定権限は異なる部署でなされ、一線現場で交渉に従事する者にはほとんど権限が付与されていないため、代替案の提示が交渉現場でできず、その結果、交渉が円滑に進まないという事態が頻発するわけです。もっとも、最近になって、損害賠償に関する示談交渉の相手方から「どこが決定権を持っているのか」と問いただされ、賠償金の所管部署を示した結果、怒った相手方が賠償金の決定権限を有する部署に乗り込むようなケースもあるようです。こういう対応は、少し前までならタブー視されていたのですが、自治体現場の職員の意識が高まってきた結果、こうしたケースも発生しているようです。対外的交渉については、権限・責任と交渉は一つに集中させるほうが、私は早期解決に寄与するのではないかと思っています。
自治体交渉法務というものを考える場合に、非常に参考になる文献です。
(04.09.05記)
金井壽宏 「組織変革のビジョン」(光文社・756円)
新聞広告を見て、久しぶりに衝動買いしました。タイトルに惹かれました。やっぱりタイトルって重要ですね。著者は神戸大学大学院経営学研究科教授で、経営学の立場から組織論を主張されている研究者のようです。「ようです」というのは、もちろん、私は今まで金井先生という方の存在を知らなかったということになります。地元にある大学に経営学に関する立派な研究者がいらっしゃるということで、何となく嬉しく思いました。
金井教授によれば、変革をひとりだけでなく組織のなかに起こしていくのが組織変革であり、さらに能動的に夢を追う気持ちとともに行うひとにとってのテーマが「組織変革のビジョン」ということになります。読んでいて最初に気付いたことは、組織論やリーダーシップ論について、数多くの研究者や経営者による名言や実践事例が引用されていることです。経営は理論と実践の複合的なものと考えれば、当然かもしれません。特にアメリカの研究者や経営者の名前が目立つように思います。アメリカは経営学も先進国なのでしょうか。
さて、個人にとって組織とは何か、皆さんは考えたことがありますか?自分と組織の関係を2つの円で描けばどうなりますか?勤続10年以上のビジネスマンにこの質問をしたら、会社という大きな円の中に自分という小さな円が含まれている回答が多いそうです。
「組織は安定している方が不安定」という考え方を持ったことありますか。自治体組織(というよりも公務員という職業)は安定していますが、その方が不安定と言い換えた場合、何を思い浮かべることができますか。組織は不安定が当たり前であり、安定していることの方がおかしいということを、私たち自治体職員は常識にしなければならないのかもしれません。また、企業組織と従業員との関係について頻繁に出てくる言葉に「忠誠心」があります。一見、ネガティブな告発の中に組織を浄化する希望が潜んでいることもあるとのことです。優れた経営者はそうした「発言する忠誠心」に耳を傾けるでしょう。逆に愚かな経営者は無視することになると思います。組織変革の大きなテーマとして、「声なき忠誠心」から「発言する忠誠心」にどう変わるか、どう変えられるかは非常に重要であると主張されています。職員の中には「住民に忠誠心を持っている」とシャアシャアと真顔で言う人もいるでしょう。しかし、実態をを知れば知るほど、とてもではありませんが、そんなことをまともに信じることはできません。
また、組織論学者であるミシガン大学教授のカール・E・ワイクの名言「適応は適応力を阻害する」も印象的です。組織環境に適応しているがゆえに、新たなことへの適応力が衰えているわけです。分権5年目になっても寝たきり職員が多いということを考えればわかる事です。
今の自治体で、どこの自治体にも真似ができない独自のビジョンや理念を住民に対して提示しているところはあるのでしょうか。分権推進に関する独自戦略は何か、そもそも分権改革とは何かと即座に問われて答えることができる自治体職員はどれだけ存在するのでしょうか。「組織改革」ではなく、「組織変革」という言葉の意味は、変化を意識的にもたらすことが変革であることから理解できるでしょう。
変革にはパッション(情熱)が必要であり、さらに変えてはいけない原理としてのミッション(使命)が必要です。そして、それを実行することでどういうゴールが待っているのかを示すものとしてビジョンがあるのです。経営学の立場からの組織論として、非常に興味深く読むことができました。
(04.08.23記)
幸田雅治・安念潤司・生沼裕 「政策法務の基礎知識−立法能力・訟務能力の向上にむけて」(第一法規・1890円)
政策法務について、伝統的な学問上の体系に位置づけるとなれば、行政学として扱われることがあるとのことですが、本書は行政法の一環としての政策法務として執筆されたのではないかと思われます。政策法務研修を導入する自治体が増加しているものの、行政法の基礎知識をほとんど有していない職員が政策法務研修を受講したところで、果たしてどれだけの効果が生じるのかという疑問は払拭しきれないところです。私も政策法務は、あくまで従来の行政法の延長線上にある、あるいは、従来の行政法では不十分であるとされる部分について、独自の体系を構築していくべきではないかという意識を強く持っています。逆に行政学を学んだところで、政策法務へと結びつけることは、かなり遠回りになるのではないかと感じています。勿論、行政学の知識や理解が不要だとは思っているわけではありません。
こうした認識から、行政法の基礎知識・理解を全く有していない自治体職員が政策法務を議論しても、薄っぺらいうわべだけのものにしかならないと考えています。その薄っぺらな議論をしなくて済むように、しっかりと基礎的な知識を習得できるテキストとして、本書が出版されました。こうした問題意識を持っている者にとって心強い存在になります。
本書は、全体で6章構成で、第1章から第4章までは、自治立法論、特に「政策実現のための条例制定権」というテーマに重点を置いて展開されています。しかし、それだけではなく、政策法務を学ぶために必要な憲法と行政法の基礎についても、丁寧で分かりやすい説明がなされており、特に初めて政策法務論を勉強する人が陥りがちな「法令用語の壁」を何とか乗り越えることができるように配慮されています。政策法務は憲法と行政法の延長線上、あるいは、その応用学問であるといった意識が反映されていると思います。
また、第5章では訴訟法務(訟務)について解説がなされており、平均的自治体職員が定年退職まで1回あるかどうかの「訴訟事務」に関心がない人であっても、基礎的な訴訟法務知識を短期間で学ぶためにも、必要十分な情報が盛り込まれていると思います。また、私のようにある程度勉強している者にすれば、全体がコンパクトに整理されており、記憶の喚起や知識整理に貢献してもらえます。第6章は、参考資料として主要判例や主要条例などの情報が整理されています。
こうしてみると、研修用テキストとしてだけではなく、法学未修者が独学で政策法務を勉強する場合の基本テキストとして十分に役立つと思います。「地方分権とは何か」ということを再度考えるための配慮もなされており、これ1冊で基礎は完了というくらいの完成度が高い基本テキストではないでしょうか。それにしても、第一法規は、昨年頃から政策法務に関する文献にエラく力を注いでいます。その甲斐あって、300頁余りのボリュームにもかかわらず、価格も手頃です。一読の価値ありで、お勧めします。
(04.08.14記)
(財)日本都市センター「自治体組織の多様化−長・議会・補助機関の現状と課題−」((財)日本都市センター・2,100円)
本書の構成は、はじめに、第1部 わが国における自治体組織の視点・論点、第2部 わが国における自治体組織の変遷・現状、第3部 諸外国における自治体組織の変遷・現状になっています。特に第3部では、ドイツ、フランス、アメリカの自治体組織の現状と課題について論じられており、外国地方自治法制の輪郭について知るにはちょうど良かったと思います。
今更言うまでもありませんが、現行の自治体組織の中枢は、憲法93条に基づいて議会と長となっています。まるでこの組織形態が当たり前のような意識でいますが、1889年(明治22年)市町村制当時の執行機関は、市参事会という合議体が採用されていました。1911年(明治44年)の市制改正により、市長と市参事会は役割が大きく変化し、市長は「市を統括し市を代表する」者と位置づけられ、執行機関となり、従来の市参事会の権限を担うことになったわけです。そして市参事会は議事機関となったのです。以来、市長が執行機関という位置づけは現在まで引き継がれているわけです。また、市長の選出方法についても、1889年当時の市制町村制では、市会から推薦させた3名の者を上奏裁可した後、内務大臣が選任するという仕組みでした。その後、1926年(大正15年)の市制改正により市長は市会の選挙によって定められることとなり、1943年(昭和18年)には一旦明治22年当時の仕組みに戻るものの、憲法制定直前の1946年(昭和21年)9月20日に大改正され、現在の地方自治制度の基盤となるような直接公選による長、議会の自治体組織が形成され、現在に至っているのです。
そして、現在、急激な人口減少社会の到来や、厳しい財政状況に直面している中、都市自治体は多様な行政需要に柔軟に対応できる組織体制作りが必要とされています。自治制度が根幹から見直されつつある中、執行機関と議事機関という2つの基幹組織に対してもメスを入れるべきであるという議論は当然なされるべきだと思います。
まず、長と議会の関係においては、議会運営上の事前通告と事前調整、審議会委員に議員が多数就任している点、長・議会の相互牽制の仕組みなどについて検討がなされています。また、長の補助機関の筆頭である助役の姿と役割については、設置・非設置、経歴、能力開発、求められる役割などについて、研究報告がなされています。
私個人が関心がある論点としては、自治体としての意思決定についてです。重要事項の意思決定方式は、アンケート調査の結果では、90%以上の都市自治体が定期的な会議を設けることなく、その都度会議を行った後、長が決定するというパターンが採用されています。重要事項の意思決定について、定期的な庁議方式は採用されていないわけです。実際、庁議の議事録を公開している自治体は極めて例外的存在ではないでしょうか。実態として、庁議では一体何を話しているのですかね?
自治体組織の画一性という点との関係で、議会制度と首長制度の改正の意向について調査したところ、都市自治体の76.5%が現状維持という回答であったことから分かるように、「改革」と言っても、あくまで憲法と地方自治法の枠内における改正という意識が強いようです。しかし、構造改革特区で提案があったように、収入役や教育委員会の必要性には疑問を持つ人も多いでしょう。どちらとも余りにも形骸化が進んでいると受止められていると思います。例えば、決算の調製は収入役の仕事というのが法律上のタテマエですが、これを文字どおり考えている人はいないでしょう。また、教育委員会で議論された末に、何か重要かつ具体的な政策決定がなされているという認識を持つ自治体関係者は皆無ではないでしょうか。しかも責任の所在が極めて不透明な実態もあります。非常に厳しい財政事情の中で、完全に形骸化している制度であり、かつ、今後も形骸化を改革できないならば、廃止すべきという意見が出るのは当然です。
また、地方議会の存在意義について、現状では自治体職員も含めて多くの人が懐疑的な意識を強く有しているのではないでしょうか。しかし、だから議会は廃止すべきだといのは逆さまで、制度改正の方向性の一つとしては、議会中心主義にし、長は議会から選出され、重要な執行は市支配人(シティ・マネージャー)にさせるということも考えられるわけです。もちろん、これは憲法改正論議にも関係します。自治体首長の意識と併せて考えると、現状では、実現の可能性は低いでしょう。
(04.06.30記)
小滝敏之 著 「アメリカの地方自治」(第一法規・3465円)
著者は千葉経済大学教授で、キャリア官僚OBです。経歴がすごいですね。東大法学部卒、司法試験・国家公務員上級職試験のダブル合格など。しかも、国家公務員試験は首席合格とかで。全体の構成は、序章・第1章〜第5章で、本論は正味300頁余りです。
本書は著者が1993年から1998年まで足かけ6年間アメリカに滞在し、アメリカの地方自治について実地に研究された成果がベースになっています。住民自治を基盤とするアメリカ地方自治の諸制度について、歴史上の変遷を踏まえつつ、現状の諸問題などを明快に論じられています。今、日本の地方自治は大きな転換期を迎えています。平成の大合併をはじめ、地域自治区、構造改革特区などによって、これまで画一的であった地方自治が多様性に富んだものへと変容していく時期であると思います。このような時こそ、多様性という点では遥かに進んでいるアメリカの特徴は、実は地方自治にあるということを学ぶことで、これからの日本の地方自治のあるべき方向性を考えるヒントを得られるのではないでしょうか。本書はこの点も主眼としています。
アメリカン・デモクラシーが世界最古の成文憲法である合衆国憲法が制定される遥か以前から地方自治によって育まれてきたことは、必ずしも十分に知られていません。世界の超大国アメリカは、実質的に地方自治に基礎を置く高度に分権的な政治社会と統治体制を持っていることが明確に論じられています。そして、アメリカの地方政府は、発足以来、住民自治によって自主的・自律的に管理運営されてきたから、最も身近な政府であり、かつ、最も頼りとなる政府としての機能を果たしてきたとされています。
アメリカの地方自治に関して、私たちが最もよく知っているものが州や州知事でしょう。同時多発テロ後の活躍で注目されたニューヨーク市長がいましたが、市長が注目されることは少ないのではないでしょうか。もっとも、私も州知事の具体名となれば、アーノルド・シュワルツネッガー氏くらいしか知りません。それでも、州知事の職責の重要性についてはそれなりに理解しているでしょう。本書においても触れられていますが、アメリカ大統領に州知事から転進した人が少なくないことからも、直観的に理解できると思います。もっとも、州知事も市長も、職責の重要性、激務ということと比べて、収入という点では恵まれていないようです。日本の首長や政治家と比較するとかなり低いようです。大体10万ドル前後のようですね。
アメリカ国家は、大きくは連邦政府と州政府の2つの政府が存在しているとされています。州政府と地方自治体又は地方政府は明確に区分されています。州政府は連邦とも異なり、地方政府とも異なるわけです。では、連邦政府と州政府の関係はどのようなものなのでしょうか。日本では、県と市、国と自治体の関係が上下主従関係であったと同様に、アメリカでも似たようなものかと思うと、それは誤りになります。確かに連邦政府はその権限を拡大していこうとするのですが、州政府は連邦政府の下部機関ではなく、連邦政府によって州の裁量権が不当に侵害されているとなれば、堂々と司法によって解決しようとし、また、裁判官も州や地方自治を考慮した判決を出す例が少なくないようです。この辺りが日本とは全く違います。そして、州が一つの「政府」であると明確に認識し、理解できるのは、立法、行政とともに、司法権を有していることにあると思います。しかも、州最高裁判所が政策形成に大きな影響を及ぼしているわけです。地域における司法のあり方を考える場合に、アメリカの「司法分権」も関心が向くところではないでしょうか。
アメリカ地方自治が、私たち日本人に理解困難なものとして映る原因に、州の下部単位として「地方政府」が存在することにあると思います。連邦政府と州というのは、国と都道府県と同様に、一応相互に独立したものとして理解できるかもしれません。しかし、地方政府は州の下位機関というわけです。カウンティ、自治体(ミューニシパリティ)、タウンシップ、学校区、特別区という分類がなされています。州の下位機関である地方政府の一種に「自治体」があるというのが、また、混乱の原因にもなります。しかも、自治体とは、各種地方政府のうち、自主性が強く広範な権限を認められているシティ、バーラー、ヴィレッジなど、地域住民主導により法人化されたものを言い、州政府によって上意下達式に設立された地方政府ではないと説明されています。下位機関であるはずのものが、これだけ例外的な存在になるわけで、これを「自治体法人」と呼んでいます。カウンティ、タウン、タウンシップが明らかに州の下位機関であり、「準自治体法人」と呼ぶことと対比されて論じられています。
また、アメリカ自治体政府の形態として、ニュージャージー州では、歴史的に、弱市長・議会型、理事会型、自治体支配人型、強市長・議会方式、議会・支配人方式、小規模自治体方式、市長・議会・管理官型の7種類があるとされ、ニューヨーク州では、弱市長・議会型、強市長・議会型、議会・支配人型、理事会型の4種類が認められています。ニューヨーク州の4類型が基本的な整理であり、弱市長・議会型と強市長・議会型を一括した市長・議会型、理事会型、議会・支配人型の3類型にまとめることもできるとされています。このような政府形態の多様性も、日本の画一性と大きく異なる点であると思われます。しかも、弱市長・議会型、強市長・議会型の中間型・折衷型を採用しているところも少なくなく、アメリカでは市長の権限の強度は自治体によって全て違うというところに、アメリカの多様性を感じることができます。
住民自治によって発展してきたアメリカ地方自治は、その具体的仕組みも町民総会、住民発案、住民投票などの諸制度があり、それぞれ詳細に論じられています。日本でも関心が高い住民投票制度については、「義務的住民投票」と「助言的住民投票」に分類されます。前者は、州憲法改正案について、デラウェア州以外の49州で制度化されています。この他、公債発行や都市憲章改正についても、義務的住民投票を採用しているところが少なくないようです。後者については1982年11月3日、多数の自治体・州で、「核武装凍結」を求めて、史上最大規模の住民投票が行われました。軍事大国アメリカにおいて、核武装凍結について住民投票が実施されたという点が驚きです。これも日本では考えられないと思います。
以上、ごく簡潔に紹介しましたが、アメリカ地方自治を知るには格好の文献です。構造改革が推進されていく中で、日本の地方自治を、本場アメリカ地方自治の視点から再考するのも面白いかもしれません。
(04.06.20記)
天野巡一 著 「自治のかたち、法務のすがた 政策法務の構造と考え方」(公人の友社・1,155円)
著者は岩手県立大学教授で、元・武蔵野市職員です。そして何と言っても自治体職員による政策法務の草分け的存在として知られています。本書の内容は、多治見市で昨年11月に開催された「多治見市政策法務セミナー」での講演録をもとに加筆されたものです。天野教授の政策法務に対する考え方が簡潔、明快にまとめられている絶好の文献であると思います。この本を読んで初めて「政策法務」という言葉がいかにして生まれたのか、その真実を知ることができました。知ると何となく拍子抜けしますが・・・
多治見市は政策法務に熱心なようですが、例えば政策法務に不熱心な自治体の職員に対して、「法務」と「法規事務」の相違点について説明を求めたとすれば、おそらく「法規事務を縮小して法務」という珍回答が返されることは、間違いないでしょう。政策法務の普及状況、浸透度、理解度は自治体間格差が大きいということです。本論100頁余りの、それほど分厚くない本書を読破した職員がどれだけ存在するのかを考えても歴然でしょう。
天野教授の政策法務の基点は、市町村の場合、地方自治法2条4項で議会の議決を要する基本構想、それに基づく基本計画にあり、そこに展開されている政策を実現するために自治立法を制定、施行するという考え方です。その場合、基本構想を概ね10年間の自治体運営の基本とすべきとされています。
最近、私の職場で「社団法人」「財団法人」「特殊法人」という概念の相違について話題になりました。少なくとも前二者は、民法の基礎知識があれば細かい説明ができなくても、少なくとも法的な概念であることは理解できるはずです。ところが、職員たちは何がどう違うのか、なかなか理解できない。本書では自治体における民法の重要性も論じられていますが、現状がこれではどうしようもないのです。
訴訟法務に至っては、とてもではないですが原課が対応など不可能なのが実情。訴訟は「あなた任せ」というのが現実です。訴訟法務ではなく、訴訟事務のままですし・・・似ているけど、違うと思います。(04.05.12記)
田村 次朗 著 「交渉の戦略−思考プロセスと実践スキル」(ダイアモンド社・2,520円)
著者は慶応義塾大学法学部教授で弁護士です。私は5年ほど前から交渉という問題に関心を持っており、ハーバード流交渉術に関する文献をはじめ、交渉に関する専門書をほんの少しずつですがチャレンジしてきました。もともとは住民との間で発生した事故やトラブルなどの紛争に伴う交渉実務を幾度となく経験してきたことが交渉について関心を持った直接の動機ですが、年々私自身の考え方に変化があることは言うまでもありません。例えば、市役所では交渉とはその組織内の立場を活用して行うものだと思い込んでいる人が多いのですが、そのような考え方に基づいて交渉が数多くなされてきていることが、本来解決すべき重要な問題の先送りという病理現象が生じている大きな原因ではないかという問題意識につながっているわけです。
最近は交渉学という研究分野がかなり広く認知されつつあり、学会も設立されているようで、その重要性もようやく認識されてきたように思います。現実に北朝鮮の拉致被害者問題を中心とする国交正常化に関する日朝交渉、先日来問題になっているイラクでの日本人の人質解放交渉など、国政レベルにおける交渉は極めて重要な課題になっています。一方、地方分権改革によって自治体と国は対等・協力関係になり、例えば法定外税の創設に伴う事前協議などに見られるように、自治体が国と交渉しなければならない状況が増えてくるでしょう。住民との協働によるまちづくりが流行ですが、それは住民との対話によるまちづくりでもあり、対話とは客観的には交渉になるでしょう。交渉が重要な研究対象として認知される環境は整ってきたと思うのです。本書は、そのような中で法律専門家による数少ない交渉学のテキストとして出版されたわけです。
田村教授はハーバード流交渉術に大きな影響を受けつつも、本書においては異なる視点、すなわち、交渉における論理性を重視すること、つまり論理的思考を重視する交渉学を主張されています。その中でも説得力を高めることと交渉の先を読むことができるという側面を重視されています。説得力がある説明とは、「物語」があること、視覚的なイメージとしてとらえやすいことという二つの要素を持っていることが多いとされています。
また、田村教授は交渉における戦略性を重視されています。交渉の戦略とは交渉において相手の先を読み、自分の行動を選択する行動、そして最終的に目標に到達するための手順全体を意味するとされています。また、交渉の手法としては、ハーバード流交渉術に準拠して原則立脚型交渉を主張されています。そして、原則立脚型交渉で重要な「人と問題を分離する」ということを戦略的交渉の実践の第一のポイントに掲げています。その具体的内容として「人を知る」ということを挙げています。相手を知り、自分を知るということが重要だということです。そして、自分を知るとは、自分の強みや弱みを知ることと、自分は一体どういう交渉スタイルを無意識にとっているのかを確認しておくべきだということです。
本書では次のような例で交渉スタイルを試されています。皆さんが次の事例に対する対応を考えてみてください。それによって自分の交渉スタイルがかなり判明すると思われます。
あなたを含めて、見知らぬ男女10人が丸いテーブルを囲んで着席しています。そして次のような提案がなされた
皆さん、それぞれ向かい側に座っている人に、立ち上がって自分の席の後ろに来てくれるように説得してください。1番目と2番目に早く席を立たせた人には、賞金1000ドルを差し上げます」
(04.04.13記)
地方自治職員研修臨時増刊号75「改革と自治のゆくえ」(公職研・1,680円)
2000年4月に地方分権一括法が施行されてから5年目になり、今は第2次地方分権改革のほか、新しい国のかたちをいかにして創り上げるのかという問題が最大の政策課題になっています。そのような中、本書は「改革と自治のゆくえ」という大きなテーマを設定し、総論5本、各論22本の論考で構成されています。いずれ劣らぬ力作揃いですが、個人的な関心から特に印象的だったもののうち、ほんのごく一部だけピックアップして、紹介することにします。
第T章 総論
第T章は、なぜいまの日本に改革が必要なのか、どこに向かうべきなのかを明らかにしながら、改革の全貌を明らかにすることを目的に5つのテーマについて論じられています。
総論(1)では「地域再生に向けた一歩」というテーマで東京大学の神野直彦教授のインタビューが掲載されています。その中で、日本での改革の方向が全ての分野に競争や市場経済を入れ込もうという方向になっている点に関連して、日本は市場を本来侵入させてはいけない領域に侵入させようとしているため、それが社会に悪影響を及ぼしていると主張されるとともに、公共部門におけるNPM理論導入については、企業と政府は全く目的が違うことを前提として、企業がやっていることのどこを学べるか、というようにしないと駄目だと主張されています。
総論(3)では北海学園大学の森啓教授が「自治体改革と行政文化」という論文で、「協働」概念について論じられており、協働という言葉は英語のコラボレーションの翻訳ではなく、自己革新した市民と行政による協力を意味する言葉であると明確に主張されています。文化行政に対する批判に答えるために、協働に意味を込めて1970年代に使っておられたわけです。元々は国語辞典には載っていない言葉だったわけですから、森教授の造語ということになるわけです。協働概念のルーツを知った上でこれを使ったり、連呼している自治体関係者って、どれくらいいるのでしょうか?
第U章 総ざらい!改革のスケジュールと論点
第U章は国による改革のスケジュールと論点を12のテーマに構成して、詳細に論じられています。
国政レベルでは、憲法改正もかなり具体的な課題になっています。関西大学の木下智史教授の「憲法改正は改革の名に値するか」という論文は興味深く読ませていただきました。改憲論に関する論文をほとんど読んでいない私としては、諸論点がまとめられており、非常に分かりやすかったと思います。木下教授は人権規定についての改憲論に対して、国民は権利を濫用しがちであり、国家が規制しなければ秩序が保たれないという「上からの」秩序優先の発想であることを指摘されています。改憲論の主な主張は、国家権力に対する制限規範としての憲法の機能を著しく低下させようとするものであり、立憲主義の観点から改革の名に値しないと締めくくっておられます。最近の改憲論に関する新聞記事に基本的人権を抑制することの根拠の一つに、公共事業のための土地買収に1人だけ反対している者がいれば、その者のために多くの人が不便を被らなければならないという議論があったというものがありました。早く公共事業を実現できるようにすれば、利権を持つ事業者からは多額の献金がなされることは確実でしょうね。
市町村合併については、大分大学の森稔樹助教授の「自治・分権から眺めた市町村合併」という論文があります。小規模自治体では分権時代を乗り切って行けないという判断のもと、小規模自治体が淘汰されようとしていますが、自治体の能力の優秀さ加減は規模の大小とは無関係であることは実証されつつあります。先進的な取組みをしている小さな自治体が財政目的だけの合併をしようとする大規模自治体に吸収されてしまうと、自治の発展はますます危うくなるように思います。民間企業の経営との対比で言うならば、小さな企業であっても元気な会社はいくらでもあることからも、小さな自治体は自治能力が無いというのは一種の差別、偏見だとも言えるでしょう。
第V章 自治体改革のニュー・スタンダード
第V章では自治体が取り組むべき改革を10のテーマに構成して、詳しく論じられています。
高齢者福祉施策に関しては、長崎国際大学の高橋信幸教授の「高齢者福祉−市町村における課題」には自然と熱が入りました。2000年4月に始まった介護保険制度について、2003年6月との比較で第1号被保険者は1.11倍しか増えていないのに要介護認定者数は1.64倍、サービス利用者数も在宅で2.15倍、施設で1.40倍の伸びとなっていることを示され、特に要支援・要介護1といった比較的経度の要介護高齢者の著しい増加に対して市町村が危機感を募らせていると論じられています。こうした原因について、権利意識の高まり、利用しなければ損という感覚の浸透のほか、サービス提供事業者による過度の掘り起こしがあるとしつつ、措置制度の時代に潜在化していた介護ニーズが介護保険制度によって顕在化したと考えるべきだと述べておられます。確かにそうした要素はあると思うのですが、介護保険の最前線にいる福祉事務所の職員たちの話を聞いていると、やはり事業者の暗躍が目ざましく、かなり狡猾で計算高く介護ビジネスを展開しているように思われます。しかし、明らかな違法行為を摘発しない限り、規制をかけるのは困難でもあるわけです。
議会改革については神奈川大学の後藤仁教授による「自治体議会改革の方向」という論文が面白かったと思います。後藤教授は自治体議会は自治体政府の立法府であること、自治体という公法人の代表機関の一部であること、そして自治体税の課税権の掌握者であることの3点について立ち返って議会改革をすべきだと主張されています。自治体議会は自治体の法を立てるところであるから、まずは古めかしい標準会議規則や傍聴人取締規則などを廃止し、議会基本条例を議員立法で制定すべきだとされています。そして公法人自治体の代表機関である議会の議員は、市民個人として仕事を進めていかなければならない、言論人に徹する責任がある、自治体の法体系の整備に全力を注がなければならない、専門職ではなく良き常識、良識に従っていればよいので、素人として法を立てるべきである、そして議員の活動は公開性と透明性の高いものでなければならない、とされています。そのうえで、自治体税の課税権者である議会は、説明責任を果たすための法整備を行うべきであり、説明責任を法によって担保することと引替えに市民は税負担というものを引き受けることになるとしています。議会による独自の法整備は重要な課題だと思います。
このほかにも自治基本条例や政策法務体制の構築、それに司法改革、あるいはNPO施策や環境・リサイクルなど、興味ある論文が満載です。日本における「改革」と「自治のゆくえ」を考えるための格好の文献であると思います。一読をお勧めします。
(04.03.24記)
武田 公子 著 「ドイツ自治体の行財政改革 分権化と経営主義化」(法律文化社・4,515円)
著者は京都府立大学福祉社会学部助教授。ドイツ自治体の行財政改革について、何か文献は無いものかと探していたら、既に昨年秋に出版されていた本書を知り、読んでみたわけです。なぜ、ドイツ自治体の行財政改革に関心を持ったのかと言えば、法治国家指向の強いドイツにおける自治体行財政改革が果たしてニュー・パブリック・マネジメント理論(NPM)をそのまま「輸入」して活用しているのかどうかを知りたかったからです。本書はこうした私の関心にズバリ答えてくださっています。
分権化の潮流の中で中央政府と地方政府の権限、事務、財源配分の変革、そして社会扶助改革に関する具体的事例を取り上げ、相当詳細に論じられています。特にその中で、中央政府と地方政府の権限と財源配分に関する議論は、日本の地方分権に関する大きな論点の1つとなっていることは周知のとおりです。そしてドイツにおいても同様の問題を抱えながら改革がなされてきたというわけです。
まず、ドイツにおける財源問題については、市町村固有税源が脆弱であるため、移転的財源への依存の必然性が発生するという点が市町村歳入構造上の問題であることが示されています。依存財源である共通税分与として所得税と売上税がありますが、例えば旧州(旧・西ドイツの各州)の市町村においては税収全体の45%を占めているわけです。課税標準や税率に関する決定権が無い共通税への依存度の高さを窺知できます。一方、市町村固有税である営業税は文字どおり企業課税であり、これが主要財源となっていることについては、税収の地域間格差が大きいこと、外形標準的租税であり企業の負担感が大きいこと、市町村税収の8割を占めていたため、個人の地方財政への関わりを希薄化させ、財政錯覚をもたらしやすい状況にあったということです。これまで30年間に渡って税制改革が進められてきたようですが、簡潔に言えば市町村の固有税である営業税を中央政府が侵食し、共通税によってそれを代替するという動向であったということになります。税制で重要な点は決定者、負担者、受益者をできる限り一致させることであり、そのために財政自治、財政的な牽連性原則、財政均衡の3つの条件が必要であると主張されています。こうした主張は日本の地方分権を考える場合にもそのまま当てはまることではないでしょうか。度重なる税制改正の結果、市町村固有税である営業税が骨抜きにされたこと、州事務の自治体への委任、委譲が進められる反面、財政調整が不十分であるため、自治体が州を相手に財政調整制度の不備を問う訴訟が近年相次いでいるわけです。ほとんどの州では自治体が敗訴する中で、ニーダーザクセン州では1995年、97年の2度に渡って財政調整制度を巡る自治体訴訟が起こされ、州憲法裁判所がいずれも州財政調整法に違憲判決を下しています。ニーダーザクセン州憲法裁判所1997年11月25日付け判決では自治体の主張を大幅に認め、州憲法の解釈において、委任事務に伴う費用負担原則は財政力と無関係に事務に応じた配分にすべきであること、州が新たな事務を自治体に課す場合にはそれに対応する財源保障を行うべきという意味での牽連性原則を確認し、配分の対称性という考え方を示しました。そして財政調整は任意的自治事務の執行に十分な財政的余地を保障するものであるべきとし、「州事務と自治体事務の同等性」原則を認めたわけです。日本の裁判所でここまで認められることが果たしてあり得るでしょうか。州憲法を解釈するに際して、裁判所は地方自治への配慮、特に歳入面における分権というものに相当力点を置いたという印象です。もちろん、自治体の主張を全て認めたものではないものの、こうした判例に触れる機会の無い者としては非常に刺激的です。それにしても自治体の歳入自治の不十分性という点については日本とドイツは似通っているという感想を持ちました。正直、少し意外な気がします。
さて、歳入の自治が不十分であるとともに、歳出については一般財政赤字の対GDP比3%以内という通貨統合の参加条件を維持するため、ドイツ自治体は非常に厳しい歳出抑制の必要に迫られていたようです。そこで「新制御モデル」型行政改革が進められたわけです。NPM理論に基づく改革手法としては外部委託化ないし民営化、独立行政法人化、官民関係の見直し、事務事業評価システム、公会計制度改革などがあげられます。本書では日本にNPM手法を導入することの適否については、NPMの基本的発想や全体像を踏まえることなしに当面の経費削減のために都合の良い手法を断片的に導入している観があること、日本では英米における導入事例が強い影響力を持っており、それが日本の政治風土や社会状況に適合するのか否かについて検討を欠いていることなどを指摘されておられるのは、私がこれまで感じてきたことと同じ視点であり、意を強くしたところです。そしてドイツ自治体行政改革はNPM手法を源泉にもちつつも、自国の社会、政治状況に適合するかたちでアレンジを加えた独自の改革モデル=新制御モデル(Das neue Steuerungsmodell NSM)を範として、自治体内部の合意を図りながら進めていくという特徴を持っていることを紹介されています。この手法は必ずしも経費削減を最優先課題としているのではなく、行政の透明化、住民参加の拡充など、「行政の現代化」というスローガンを前面に出し、その結果として中長期的に経費削減に結び付けていこうとする傾向にあるようです。本書では経営主義とは最も乖離する社会扶助問題についても、NSM手法による改革がなされていることを詳細に紹介されており、日本の生活保護行政、失業保険行政にも参考になると思います。NSM型行政改革はほとんどのドイツ自治体に浸透している状況であり、様々な批判もなされつつも、自ら経営体へと再編する動向にあるようです。
ドイツでの行政改革事例は日本の自治体経営改革にも参考になることが多いと思います。外国の取組み事例を参考に行政改革を考え、実践することは良いことだと思いますが、今まで何故ドイツ自治体の行政改革に注目が集まらなかったのかは不思議です。日本人の英米追従型思考がそのようにさせてきたのでしょうか。
(04.03.01記)
津軽石 昭彦・千葉 実 著 「自治体法務サポート 政策法務ナレッジ 青森・岩手県境産業廃棄物不法投棄事件」 (第一法規・1,575円)
著者はいずれも岩手県庁の職員で、この事件の解決を担当された方たちです。本書の「はじめに」の中で、自治体の組織の政策法務能力を高めるためには、第一に「住民のために最も望ましい」施策を法的な側面から一生懸命になって考えること、第二に、政策法務的な対応は、個別具体的、実践的な側面または色彩が強いから、ケーススタディの積み重ねを地道に行い、そこから帰納的に得られる「政策法務的なノウハウ」を組織として共有し、それを使いこなすこと、そしてかかる実践を通じ、「ノウハウ」をさらに「進化」させるサイクルを構築することであるとしています。特に第二の考えは、最近、私も問題意識を持ち始めた政策法務のナレッジ・マネジメントの構築について、含蓄のある表現になっていると思います。とりわけ実践から理論を積み上げていく、実証的方法は帰納論理と言われており、伝統的な知の方法論として知られているところです。
この事件は1998年12月に、岩手県二戸市と青森県田子町にまたがる原野27ha(岩手県側16ha、青森県側11ha)で発覚した全国最大規模の産業廃棄物不法投棄事件です。不法投棄量は全体で82万立方メートルで、香川県豊島の不法投棄量が45万立方メートルといわれているのと比べて2倍近い産業廃棄物が不法投棄されていたことになるわけです。本書はその後、青森・岩手両県がタッグを組んで、関係者個人も含めた措置命令、事業者に対する原因解明調査の指導、事業者に対する民事保全法による財産保全措置、排出事業者の責任追及などを実行されました。環境法規はもちろん、民事法も総動員しての対応ぶりの記述から、高い法務レベルの取組みを窺知できます。そして、自治立法として循環型地域社会の形成に関する条例、県外産業廃棄物の搬入に係る事前協議等に関する条例、岩手県産業廃棄物税条例の循環3条例を制定、2003年4月に施行されるに至ります。自治立法過程という視点から見ると、組織内部においては法務担当と所管課との連携が機能し、法務担当からは法制執務偏重の法規審査ではなく立案支援がなされたこと、組織外部からは学識経験者の助言が得られたという点が特徴でしょうか。研究会・懇親会においては公害等調整委員会委員として豊島事件を手がけられた南博方教授(岩手県立大学)のご指導・ご助言があり、実際の条例立案過程においては北村喜宣教授がご活躍されたようです。
また、自治体職員の法使用という視点から本書を読んだ感想としては、非常にアグレッシブに、そして戦略的に法使用をされたということです。産業廃棄物不法投棄という犯罪行為に対して、行政としていかなる法的対応ができるのかを素早く察知し、臨機応変に法的対応を行う、自治体として主体的な法行動に転換していく重要性をあらためて確認することができたと思います。著者のお二人はご自分の職務上の経験を詳らかに記述されておられるのですが、自分のやってきた仕事を正確に表現することは簡単なようで実は非常に難しいと思います。特にこのような大事件の発生から行政対応の一部始終を詳細にまとめあげて記録として残すことは、県庁の後進の人たちへの貴重な贈り物にもなるでしょう。私は政策法務の次の段階は、自治体における政策法務のナレッジマネジメントであると考えています。そして本書はその端緒として、金字塔となりうる一冊ではないでしょうか。
(04.01.18記)
武藤博己 著 「入札改革 談合社会を変える」 (岩波書店・735円)
著者は法政大学法学部教授。公共契約における談合は無くなるどころかますます巧妙になっています。現行の競争入札制度において、いかに工夫を凝らしたところで談合を完全に排除することは不可能と言った方が正確だと思います。談合排除に積極的な自治体もありますが、多くはどちらかと言えば消極的でしょう。指名競争入札が入札方式のメインである間は、こうした実態が大きく改善されることを期待するのは無理だと思います。指名競争入札制度をはじめとして、現在の入札制度の根本的な考え方を改革する必要があるということです。
財政難を理由として自治体は事務事業の外部委託を積極的に進めています。しかし、外部委託を進めるということは、受託する民間事業者は安い価格で請け負い、その結果、そこで働く人たちの賃金水準は低く設定されてしまうことになります。行政が民間事業の従業員の給与水準を引き下げることに寄与することになるのは、果たして好ましいことかと問われれば否という回答になるでしょう。武藤教授はこうした問題意識に基づいて、外部委託の問題点を学校給食の外部委託事例を素材にして論じておられます。価格が安ければそれでいいという考え方は公共契約の場合、必ずしも妥当しない分野があるということです。また、こうした考え方は私たちが何かモノを購入するときにも類似の判断がなされることも指摘されています。
さて、現在の入札制度の最大の問題点は、価格の低さが唯一の焦点となっていること、つまり価格入札になっていることが談合を生み出す最も大きな原因であると武藤教授は主張されています。そして、談合を排除するためには、価格の低さだけではなく、現行法制において認められた総合評価型入札への転換を推進すべきであると主張するとともに、さらに高次な「政策入札」への変革を主張されています。政策入札とは、環境、福祉、男女共同参画、公正労働条件などの価値は行政が政策・施策・事務事業を通じて追求すべき政策目的であり、その手段として総合評価型入札を使うべきであるという考え方である。総合評価型入札の枠組みの中にこうした社会的価値を判断基準として組み込むことができれば、入札制度そのものが社会的価値を追求する政策手段として機能することになるというわけです。そして特に自治体でこうした枠組みを採用することによって、独自の政策を推進していく場合の有効な政策手段にもなるということを主張されています。
本書では政策入札導入の手順として、第一に、自治体契約基本条例なるものの制定を提唱しています。自治基本条例の契約バージョンと呼べるものであり、自治体で制定されている契約規則の上位規範になるものと考えられます。この条例では落札の評価基準に社会的価値を導入する前提として、その社会的価値が尊重されなければならないことを条例で示す必要があるという問題意識に立脚されています。条例においては自治体としての義務に加えて、事業者としての義務も明記されるべきだとしています。そして、事業者が自治体が定めた尊重すべき社会的価値の実現に取り組むのであれば、それを評価し、優先的に契約を締結するということの正当性を条例によって明記することになるということです。これに続いて政策領域ごとの社会的価値の検討、そして落札者決定のルールの制定を定めることになるわけです。
自治体が入札制度改革を実施する場合、私が最初に思い浮かんだことは、自治体の契約担当課(調度課など)職員の在籍期間の短さです。在籍期間が決まっている職場に配転された職員が、入札制度改革のような面倒な仕事を真剣にやろうとする意欲は発生し難いと思います。組織横断的な検討チームに参加させつつ、入札制度改革を実施するのが現実的対応だと思います。もっとも、入札制度改革を実施するとなれば、様々な干渉がなされるのではないかと危惧します。余程の決断力を要するでしょう。
(04.01.02記)
野中郁次郎・紺野登 著 「知識創造の方法論 ナレッジ・ワーカーの作法」 (東洋経済新報社・1890円)
ナレッジ・マネジメントに関する専門書です。本書では、日本の企業人の弱点は、現象の本質を洞察し、概念化するというコンセプト創造力、すなわち知力の乏しさであるという問題意識をベースに、経営はあらゆる学問の総合実践の上に成立しており、経営の質がますます問われる知識社会においては、企業人や官僚に知の方法論が必須であるという思いから執筆されています。すなわち、知識経営やナレッジ・ワーカーにとって、知識創造のプロセスはどのように構築されるべきかを論じているわけです。
「第一部知の方法論の原点」では、知識創造の知の源流を哲学に求め、合理・理性の代表としてプラトンとデカルト(イデアと懐疑)、経験論の代表としてデューイと西田幾多郎(実験と純粋経験)という4人の哲学者たちの知の創り方を示しています。そしてそれぞれの知の型について、プラトンとデューイ、デカルトと西田幾多郎はそれぞれ対極の特徴を有しているとしつつ、例えば真理研究という軸で見れば円を描くように関連しあっているとされています。その後、知識創造のモデルとしてSECIモデルと哲学の知の型とをミックスさせた図を示しつつ論じ、ナレッジ・ワーカーは自らの人生の問題と重ね合わせて実存的主体的に考えるべきだとしています。そして知識創造の方法論の一つとして弁証法を紹介されています。SECIプロセスのスパイラル・アップにつながるものとして、矛盾を孕んだ動的な内部運動と、その過程で綜合していくという弁証法的ダイナミズムの重要性を強調されています。SECIプロセスとは、主体と客体、個人と環境という二項対立が弁証法的に解決されていくことだということです。非常に難しい論述ですが、何度も読むとそれなりにイメージが出来上がってくると思います。ただし、これを実践しようとするならばかなり根気の要る頭脳労働になるだろうと思います。
「第二部社会科学における知識創造の知」では、哲学のほか、現象学や社会学などの社会科学における知識創造の方法論を紹介しつつ、経営の知とは執拗な綜合の知の追及であるということを主張されています。第二部の論述内容も非常に難しいものですが、知識創造の方法論のモデルについて、行為の現場・現象を立ち現れるままに受け入れ、そこから仮説を創出し、メタファーを用いつつ背後にある構造や因果関係を発見していくというプロセスであるとしています。
「第三部コンセプトの方法論」では、経営における知識創造において不可分なコンセプト=知識の方法論について論じられています。コンセプトは概念ではなく、新たな思考形式であり、物事の本質をつかみ取ることができるような観点であると主張されています。つまり、これまで見えていなかった事象、見落とされていたものを明らかにし、新しい現象を見出す手がかりとなるものということです。ただし、重要なことは、個々のアイデアやコンセプトをどうやって思いつくか(発想・連想する)ではなく、革新や新たな実践をもたらす実在的なコンセプトの創造だということです。
「第四部経営と知の方法」では、企業の知の型、つまり組織的知識創造について論じられています。10年に及ぶ知の行き詰まりに苦しみ、組織の紐帯力が衰え、企業成員の間にも知的無規範が蔓延しているのが今の日本であり、自らの知の型を意識し、組織の知識創造プロセスを活性化し、企業を変革することは急務となっていると主張したうえで、組織が全体として知識創造を行うためには、個人から集団へ、自己から組織へという絶えざる綜合、弁証法的な飛躍が行われ続けられなければならないとしています。さらに知識資産を創出する綜合経営のパターンとして、経験からの知識資産創出、対話を通じた知識資産創出、システム的なアプローチ、クリエイティブ・ルーティンによる知識資産創造を示し、それぞれを実践している一流企業の事例を紹介されています。
ナレッジ・マネジメントが発表されてすでに7年以上経過するわけですが、自治体経営においていかにしてナレッジ・マネジメントを導入するべきかについてはほとんど議論されていないように思います。ナレッジ・マネジメントを実践している企業の特徴に観察というものがあります。消費者の生活、行動、考え方、感じ方を実地で観察し、それを新たな知識に転換することで製品化に漕ぎ着けるわけです。自治体現場で仕事をしている職員は、住民の意識や考え方へのアプローチの方法を本書から学び、まずは個人で工夫し、実践すべきでしょう。また、知識創造の経営を実践するための基本文献として、自治体のマネジメント層の人たちが参考にすべきであると思います。その際、注意すべきことは、知識という言葉の意味に対する従来の理解を変革させることでしょう。
(04.01.02記)
<2003年版>
カルロス・ゴーン、フィリップ・エリス 著・高野 優 訳 「カルロス・ゴーン 経営を語る」 (日本経済新聞社・1,680円)
日本の企業経営者で最初に思い浮かぶ人は誰ですか?と尋ねれば、10人中8人以上の人がこの人の名前を言うのではないでしょうか。それくらい存在感のある経営者だと思います。そのカルロス・ゴーン氏が自分の生い立ちから始まり、日産自動車での驚異的な業績回復までのプロセス、そしてこれから将来のことを語っています。企業経営者自身のことを書いた文献を読んだのは、これが初めてです。
さて、カルロス・ゴーン氏に対して当初はいかなる人物評がなされていたでしょうか。それを一言で言い表せば「コストカッター」という表現に集約されているでしょう。特にフランスの自動車メーカーであるルノーで、200億フラン削減計画という合理化を実行し、経営再建を実現したことはマスコミ報道などで多くの人が知っていたことだと思います。そして、そのイメージがインプットされたまま、ゴーン氏は日本にやって来たわけです。1999年3月27日、ルノーと日産自動車の提携が発表されました。その時点で日産は過去8年間で7回目の赤字決算、それも6844億円という巨額な赤字決算を控えていたわけです。従業員148000人の大企業が外国企業に乗っ取られるという印象を持ったのは私だけでは無かったと思います。しかし、本書を読んだ印象は、外国人経営者特有のイメージである血も涙も無い強引なリストラ断行型ではなく、人間尊重、対話重視の経営を行っているというものになりました。
それでも日産自動車のリストラは凄まじかったと思います。98年度末で負債総額2兆1000億円、99年にルノーからの投入資金6400億円余りを差し引いても1兆4000億円の負債が残っていました。1999年10月18日の「日産リバイバルプラン」発表の席上、ゴーン氏は日産自動車の業績不振の理由を5つ挙げています。すなわち、明確な収益志向の不足、顧客志向の不足、部門横断機能・地域横断機能及び組織の階層を乗り越えた業務の不足、危機感の欠如、ビジョンや共通の長期戦略が共有されていないこと、です。一方で、国際的に認知されている企業であること、世界トップレベルの生産システムを有していること、特定の重要な分野での最先端の先進技術を有していること、ルノーとの提携という4つの長所も示しています。
この点を読まれて何か気づきませんか?日産の業績不振の原因と財政難に苦しんでいる自治体と共通することばかりではないでしょうか。逆に、自治体の経営陣が自分たちの組織の長所を要約して説明できる人がどれほどいるでしょうか?これだけでもゴーン氏は優れた経営者だという印象を持ってしまいます。そして、2000年度に黒字転換、2002年度の営業利益率4.5%以上、現在の負債を50%削減という三つのコミットメントを公表し、皆さんもご存知のとおりV字回復を遂げたことは有名です。
このような思い切った経営再建策を断行できたのは、周到な準備が背景にあります。決して強引な手法で実行しようとしても148000人もの巨大組織を簡単に動かすことができるはずもありません。重要なことは全体を明確に示すことで、これ以外に選択肢は無いという意識を共有することにあると思います。また、クロス・ファンクショナル・チーム(部門横断的組織)を立ち上げ、縦割りの弊害を排除しようとしたことは、縦割りこそ命の行政組織にも参考になる取組みでしょう。また、企業が信頼されるための2つの要素として、成果と透明性を挙げています。これも自治体への信頼の要素は何かと問われた時の回答と同じです。今、いずれも達成している自治体がどれほど存在するでしょうか。そして、経営者として対話の重要性を明確に述べています。現場に出かけて社員と対話することで問題点や解決の糸口が見えてくるというのです。これも自治体経営にとって重要ではないでしょうか。
自治体の経営再建計画は3年から5年くらいの期間を定めています。しかし、こうした民間企業の経営再建策は2年程度で成果を出しているところが成功しています。余り長い期間の計画だと間延びするという印象はあります。自治体の場合なら、まずは2年計画で成果を出し、さらに2年という方法が良いのかもしれません。
ゴーン氏の人柄を知ることができたとともに、企業経営の真髄を少しは理解できたかもしれません。他にも自治体経営に参考になることが数多く述べられています。かなり分厚い本ですが、一読をお勧めします。
(03.12.22記)
新原 浩朗 著 「日本の優秀企業研究 企業経営の原点−6つの条件」(日本経済新聞社・1,890円)
著者は独立行政法人経済産業研究所コンサルティングフェローで経済産業省情報経済課長です。今年は経営学の文献にもいくつかチャレンジしているのですが、本書の内容はバブル崩壊以後、苦戦が続いている日本企業の中で、成功を続けている30社の「事実」を検証した結果、6つの共通する条件を抽出して論じられているものです。本書を読んだ感想は、一言、「すばらしい」に尽きます。経営学の面白さを実感できました。これを自治体関係者が読まないわけにはいかないでしょう。
まず、新原氏は、不況になってから日本の企業の取り組みで目立つものに執行役員制や成果主義に基づく従業員評価制度などの「形式」の導入を指摘されています。そして、形式を導入しても今もなお苦戦が続いている日本企業に必要なのは、事業の「本質」まで立ち戻って、時代環境の変化を踏まえて考え直すこと、つまり原点回帰であるという問題意識に立脚されています。そして、この不況下であっても利益をあげている企業が存在するのは、より本質的な点で変革をしているのではないかと考えられたわけです。
さて、本書で論じられている6つの条件とは、「分からないことは分けること」、「自分の頭で考えて考えて考え抜くこと」、「客観的に眺め不合理な点を見つけられること」、「危機をもって企業のチャンスに転化すること」、「身の丈に合った成長を図り、事業リスクを直視すること」、「世のため、人のためという自発性の企業文化を埋め込んでいること」になります。第1の条件は、簡単に言えば事業内容を絞り込むことです。また、トップがいかに現場感覚を有しているかも重要です。成果をあげている企業のトップほど現場に出向き、社員との対話を積極的に行っているようです。そしてそこから新たな製品へのヒントを発見するわけです。第2の条件は、経営とは論理だという表現に凝縮されるようです。第3の条件については、良いニュースの報告ではなく、悪いニュースほどトップに早く報告するような会社ということです。問題の先送りというのは、こうした企業では論外なのでしょう。問題が発生したらその場で考えて解決していくという経営が重要だということです。第4の条件では、危機が発生した際に、冷静さを失わずに自分で考え抜いているとのことです。今までの何が悪かったのか、自社にとっての新しい方向性を考えるにあたって自分の持てるものの中で何が使えるかを冷静に見つめているのです。逆に「あせり」は禁物だということで、これで失敗している企業も多いようです。第5の条件は好結果を出している企業の特徴に資本市場に邪魔されない自律性を有していることを指摘され、それは、キャッシュフロー管理がしっかりしているということです。お金、リスク管理の重要性は言うまでもありません。そして最後の第6の条件は、企業文化というものの重要性が論じられています。倫理、使命感、情熱、こうしたものが企業経営にとっても非常に重要であるということです。
以上を総括することで共通する点を言うならば「顧客主義」ということに集約できると思います。いかにして顧客を大切にするかということが優秀企業の条件ということになると思います。企業経営の原点とはそういうものなのでしょう。
これら6つの条件は、財政難にあえいでいる自治体の「経営」を考える際にも重要な示唆を与えていると感じました。長引く不況による財政難を克服するため、自治体にも「経営」手法を導入しようという議論が盛んになり、特に舶来モノであるNPM理論が大流行しています。しかし、外国での実践によって形成された理論を日本に輸入し、使おうとしても、政治行政制度や国民性などが異なる以上、果たして本当に成功するのか疑問を持っていました。企業経営だけでなく、自治体も「形」から入るのではなく、より本質的な点から考えるべきだということになります。外国の理論が悪いとは思いませんが、何故、日本の民間企業の経営からも学ぼうとしないのかという問題意識もこの1年間強くなってきていたところ、本書に出合ったわけです。本書が企業経営者だけでなく、自治体関係者、特に首長をはじめとするマネジメント層の方たちが読まれ、活用し、実践されることで、独自の自治体経営理論へと発展する足がかりになればと思います。
(03.12.11記)
西川 伸一 著 「この国の政治を変える 会計検査院の潜在力」 (五月書房・2,100円)
著者は明治大学政治経済学部助教授で、昨年の感想録では「知られざる官庁 新・内閣法制局」を紹介させていただいています。本書はそれに続く「知っているようで余り知らない官庁」である会計検査院について、詳細に論じられたものです。
国と自治体が共通していることの一つに、予算重視・決算軽視というものがあると思います。ともかく予算ぶんどり合戦の後、それがいかなる成果を挙げたのかという点についてはそれほど重視されてきませんでした。しかし、それが2003年度末には国と地方の長期債務残高が685兆円にもなる元凶であったわけです。特にNPM理論の影響で、行政にマネジメント・サイクルを導入すべきだという議論の中、決算から予算へのフィードバックは重要視されるようになっています。本書においても、2003年4月3日の小泉内閣メールマガジンにおいて、塩川財務相(当時)がPlan-Do-Seeの機能を重視する必要があると明確に述べていることが紹介されています。
さて、会計検査院を知らないという自治体職員はいないでしょう。特に国庫補助事業の経験者は「カイケンが来る」となれば他の仕事をそっちのけで準備に大わらわになることは珍しいことではありません。万が一、指摘され、補助金返還などの命令が出されればまさに一大事だからです。しかも、会計検査院の調査官は自治体での検査においては極めて厳しい口調なるということもしばしばだそうです。直接関連しない資料を開こうとしたところ、自治体担当者が「これは国庫補助事業とは直接関係のない資料で・・・」と言いかけた途端、「私が見るものにイチイチ口を挟むな」と怒鳴りつける人もいたそうです。ともかく、自治体関係者にとって会計検査院の調査官という人たちは「偉そうに」見えているのでしょう。
しかし、本書をじっくり読むと、意外にも国の行政官庁に対しては力が無いことが分かります。その第一の理由は、検査に強制力がないこと。第二に天下りを検査対象となる行政機関に依頼して世話をしてもらっているということです。これでは検査に対する信頼性に疑いが生じても不思議ではありません。毎年11月末に内閣に提出される「決算検査報告」の指摘金額が、1989年度から1993年度までの平均額が約129億7500万円、同じ期間の会計検査院の年間予算が平均約129億2400万円であったことが1995年にマスコミが指摘し、指摘金額は会計検査院の予算額を目安にしているのではということが問題になったことを紹介されています。その翌年度からは指摘金額は概ね200億円台に上がっているとのことです。余りに指摘金額が多額になれば、検査対象機関から検査の協力を得られなくなる反面、余り少ない指摘金額だと会計検査院そのものが無駄だという話になるからのようです。また、検査の基準はかつては正確性・合規性というものが基本でした。しかし、その限界事例として、東大病院分院において1963年2月と3月に30人から40人の職員に1ヶ月70時間から100時間ものカラ超勤による超過勤務手当の支給をしていたものの、超過勤務命令簿には「17:00〜22:00 5」というゴム印が押印され、その横にそれぞれの事務員の印鑑が押されていたものの、書類に矛盾はないとして検査では問題視されなかったという事件が紹介されています。誰が見てもカラ超勤丸分かりでも、書類不備が無い以上摘発されないようです。以前いた職場で、似たような悪行を私も見ていましたが、こうしたことを分かってやっているとすればかなりの知能犯でしょう。
会計検査院は憲法90条を根拠とする国家機関であるにもかかわらず、多くの人たちは中央省庁の1つであるという理解をしているようです。制度上は独立性が保障されているものの、実態としては意外にも権限が弱いことを示しつつ、決算のあり方の重要性から会計検査院の改革にも論及されています。NPM理論を考える際にも参考になりますし、同じく予算執行の適正を担保する制度でもある自治体の監査制度への関心も高まります。
(03.12.08記)
西谷 剛 著 「実定行政計画法 プラニングと法」 (有斐閣・6,090円)
著者は横浜国立大学大学院教授。行政計画に関する実定法を体系化し、分析した労作です。平成13年末までに公布された法律のうち、計画に関する規定を有する法律(計画法)は314で、その法律で規定された計画の名称による計画数は586に及びます。そしてその中で国の計画は296、都道府県162、市町村91、その他37となっています。法律の数が1770ほどなので、全体の2割弱が計画法ということになります。法定計画数が586もあるというのはやや驚きです。
ところで、自治体で仕事をしていて計画行政という言葉を聞いたことが無いという人は少数でしょう。自治体計画の場合、基本構想などのように法定計画もありますが、必ずしも法で義務付けられているわけではなく、行政限りの判断で策定している計画は多数あります。また、計画とは言うものの、毎年の事務事業の予定表くらいの意味しか有さないものも含まれていますので、実際、どれくらいの数の計画が策定されているのか見当がつきません。さらに言えば、最も重要な行政計画である基本構想、総合計画を一度も読んだことがない職員も多いと思います。自分が勤務する自治体の基本構想や総合計画を諳んじて説明できる職員は皆無に近いでしょう。
こうした意識を持っていた中、本書は行政計画と法の関係について詳細に分析した研究書だと言えると思います。第1章行政計画の定義と機能、第2章法と計画、第3章行政計画体系、第4章行政計画手続、第5章行政計画の効力、第6章行政計画救済で構成されており、私自身、全く無知な行政計画についても取り上げられ、論じられています。特に興味深く読んだ箇所を紹介するとすれば第4章計画手続です。市町村が計画主体として国法に位置づけられるようになったのが昭和40年代以後になってからというのは、戦後から高度経済成長までは国や都道府県が主導して行政を推進してきたことを物語るとともに、高度経済成長によって市町村の行政能力が向上してきたことと相俟って計画主体として認知するようになってきたということなのでしょうか。そして地方分権改革の影響により、国と自治体の計画策定手続が変化していることも指摘されています。地方自治の発展に計画行政の進化・深化は必要不可欠でしょう。政策法務の立場からも法と行政計画の関係はやはり重要です。
行政計画と法に関する文献でこれほど体系的かつ詳細なものは稀有でしょう。一読する価値は十二分にあると思います。
(03.11.18記)
片岡寛光 著 「公共の哲学」 (早稲田大学出版部・3,990円)
著者は早稲田大学政治経済学部教授。現在の社会経済情勢において、「公共性とは何か」について問われた時、即座に適切な回答を提示できる人がどれだけ存在するでしょうか。特に私たち公務員は、「公共性」と言えば政府や地方公共団体が必ず関わりを持っているべき問題であると考えていませんでしょうか。確かにそうした考え方が正しい時期もあったかもしれませんが、現在もなおそれが正しいと言えるかと問われれば疑問符が付くでしょう。
「公共性とは何か」。本書において、この問題について一義的な定義づけを行うことはなされていません。片岡教授は本書の中で「公共性の問題が発生する状況に応じて、これらの諸要素組み合わせを変えたり、新しい要素を加えることによって、その都度、新しい光を当てて問題の核心に迫らなければならない。公共性は事前に模範解答を用意しておくことを許さない問題である」と主張されています。 さて、私が本書を読もうと思った動機は、何と言ってもここ数年間に公務上直接あるいは間接に遭遇した反倫理的・反規範的・反市民的な事例に対する私自身の批判的姿勢や思考が正しいものなのかどうか確認したいと思ったからです。そのため私にとっては「第5章公共性と責任」、「第6章公共性と倫理」が最も重要な箇所になると言わざるを得ません。
第5章では、「人間が個的な存在であると同時に社会的存在である限り、自己責任と社会的責任を同時に負い、そうすることによって初めて人間は公共性の担い手ともなり得る。」、「自己責任と社会的責任は、一人の人間の人格の中で統合され得るものであり、両者を統合し、立派に果たす用意のある人間を責任の道徳的エージェントであり、公共性の担い手と呼ぶことができよう。」とされ、公務員に関しては、例えば「公務員は、任務としての行政責任を負う道徳的エージェントであり、その役割を十分発揮しうる状態に置かなければならない。そのためには、行政任務を通じて結ばれている社会との関係を取り戻さなければならない」と述べられています。第5章は行為責任か集合責任か、心情倫理と責任倫理などについて論及され、示唆に富んでいます。
第6章は公共性と倫理の関係について論及されており、昨今の外務省や警察の不祥事について触れられ、組織の中では非倫理的に行動することを暗黙のうちに求める雰囲気が支配することもありうるとされています。これを打ち破るには、組織内部で社会的通念が通用するようにしなければならないとされています。簡単なようで、最も困難かつ重要なことではないでしょうか。本書によれば、人間は本来は倫理的な存在であるべきはずですが、何故か組織内ではこれから明らかに逸脱している人が少なからず存在し、かつ、そうした人たちが組織内部で堂々と跳梁跋扈しているのです。
日々、市役所で仕事をしていて様々な職員から多くの内部情報が得られますが、こうした公共性という視点から考えた場合、疑問符が付くような事例は枚挙に暇がありません。私のような思考をしている者は結局、行政組織内ではつまはじきにされてしまいますが、これが現時点における地方公共団体の公共的な行動規範となっているのでしょうか?
(03.010.26記)
鈴木庸夫 編集代表 「政策法務の理論と実践」 (第一法規・9,450円)
第一法規が得意な加除式の文献です。生まれて初めて加除式書籍を私費で購入しました。政策法務に関する基礎理論、実務手法について体系的・網羅的に記述された書籍としては、おそらく最も詳しいものになると思います。執筆は鈴木庸夫教授のほか、礒崎初仁教授、山口道昭教授など政策法務の第一人者である研究者、政策法務に詳しい自治体職員など17名が分担し、「Q&A方式」を採用し、それぞれ2ページ程度でまとめられています。
内容としては第1章政策法務の基礎理論、第2章自治立法の理論と手法、第3章法令運用の理論と手法、第4章争訟法務の理論と手法の4章構成になっており、第2章に最もページ数が費やされています。第1章は政策法務の入門的内容をまとめていると思います。第2章では自治立法の制定過程、都道府県条例と市町村条例の関係、行政手法の諸類型、おもな行政分野における政策法務手法について論じられています。第3章は執行法務の視点と手順、自治体の法令運用、法令運用の戦略、おもな行政分野における法令運用の手法について論じられています。そして第4章では、法務のマネジメントとして評価と争訟を軸に論じられています。法制評価と争訟法務を一体として論じている点は大きな特徴だと思います。
本書は全体を通じて一貫して「Q&A方式」を採用しているため、初学者でもスムーズに読み始めることができるようになっており、また、論点を明確にすることで何を論じているのかハッキリ意識しながら読めるというメリットがあると思います。その反面として、一般的な法律書のように体系的な論述ではないがゆえに通読をすることに対して若干の抵抗感を持ちました。また、もう少し掘り下げた説明がほしいとも思いました。今後、改定される場合の検討事項としてお願いしたいものです。それでも情報量については他の関係書を圧倒的に凌駕しており、これ一冊で政策法務の知識と理解は十分に習得できるものと思われます。
本書の活用方法としては、例えば政策法務に関する個々の論点を確認する場合などに辞書のような使い方をするのも良いのではと思います。もちろん、職員研修や自主研究会のテキストとして十分活用できると思います。政策法務に関する最新の情報が網羅されているため、政策法務研究には必須の文献であることは言うまでもありません。
(03.10.19記)
阿部昌樹 著 「争訟化する地方自治」 (勁草書房・3,150円)
1990年代中盤以後、地方自治をめぐって2つの大きな動きがありました。一つは市民オンブズマン組織が中心になって行った情報公開条例に基づく開示請求により、自治体の食糧費予算が中央省庁の官僚に対する「官官接待」などに使われていたことが発覚し、マスメディアとともに全国的な批判が拡大したこと。もう一つは地方分権推進委員会が中心となって行われた地方分権改革によって、機関委任事務が廃止され、地方自治体に対する国の関与が限定化されるとともに、これに対して異議がある場合には新たに創設された国地方係争処理委員会に申立できるようになり、地方自治体が国に対して法的に争えることができるようになったことです。これらの2つの出来事をとらえて、我が国の地方自治に「団体自治の争訟化」と「住民自治の争訟化」という「二重の争訟化」が同時並行的に発生したと論じられています。
本書は、この「二重の争訟化」を中心に、それが従来、国が地方自治体に有していた「法の意味を語る権威」が揺らぐことを招き、また、地方自治体が地域住民に対して有していたと考えられていた「法の意味を語る権威」も揺らいできていることを実証しています。そして「住民自治の争訟化」においては、現在、自治体行政の流行語である「協働」の担保にもなっているとともに、必要な敵、アドバーサリィとしての住民に対して正しい法解釈の要請が強まっていることを論証されています。また、「団体自治の争訟化」を招いた国地方係争処理制度について、その制定過程における中央省庁の官僚たちが、「基本法原則」を盾にして地方分権推進委員会に反論を繰り返してきた結果、譲歩を繰り返し、現行制度になったことを、それぞれ詳細に論証しています。 そして、こうした二重の争訟化を招いたのは、日米構造協議、行政手続法の制定を契機とする「透明性の時代」が社会的背景にあり、透明性という理念の社会的定着が理由であると締めくくっています。
本書は地方自治に関する法社会学の立場からの研究書ですが、自治体の法令の自主解釈を積極的に行い、正しい法解釈を行う要請が強いことや、国地方係争処理制度の存在を放置するのではなく、積極的に活用することで、分権時代における地方自治の実質化を推進するとともに、自治体政策法務の必要性を科学的に論証したものではないだろうかと思いました。分権時代の自治体による法の自主解釈というものがいかなる論理で導かれるのか、再度熟考させられる良書です。短い日数で読み終えることができるほど、私にとって興味深い文献でした。
(03.09.30記)
阿部泰隆 著 「政策法学講座」 (第一法規・2,940円)
阿部教授は周知のとおり政策法学の旗手であり、「政策法務からの提言」(日本評論社)、「行政の法システム(上)(下)」(有斐閣)、「政策法学の基本指針」(弘文堂)など、従来の行政法学から進化させた政策法学の立場からの著書、論文を多数公刊されてきました。本書は阿部・政策法学の最新版であり、地方分権一括法施行4年目の現時点における集大成と言えるものでしょう。随所に"阿部語録"が挿入されており、相変わらず批判精神旺盛な迫力ある文献です。実は、私が8年ほど前に政策法務を学び始めた時は、阿部教授の著書に拠っていました。当時は勉強不足も手伝って私にとっては難解で、なかなか理解できませんでしたけどね。いずれにしても、私を含め、阿部ファン待望の一冊です。
阿部教授の政策法学の特徴に、”100点満点の政策は滅多に無い”、”福祉施策に関して「重い、困った順に」、人間尊重の憲法的視点”などを指摘することができると思います。前者の例として、滅多に無い100点満点に近い政策として、定期借家制度を主張され、あるいは、本書だけでなくかなり以前から下水道が供用されていない地域における合併処理浄化槽の設置を主張されてきました。費用は安く、環境保全にも貢献する合併処理浄化槽の普及は阿部教授の提案に負うところが大きいのではないでしょうか。なるほど納得です。また、後者の例として、介護保険法は若年者差別で違憲であるとされています。介護保険の仕事をしている者にとってはちょっと耳が痛いですね。しかし、本書においても、随所で違憲論を主張されているのは、阿部教授の旺盛な批判精神の賜物でしょう。
地方分権が施行されて、自治体の条例制定権の拡大が言われていますが、現行法令を柔軟に解釈することで、実質的に条例制定権を拡大することの重要性を阿部教授も提示されています。また、内閣法制局がかたくなに変更しようとしない法令改正の「溶け込み方式」についても到底理解不可能であるので、「新旧対照表方式」へ変更するべきと主張され、内閣法制局をシーラカンスとして批判されるのは胸がすく思いです。
もう、言うまでもありませんが、自治体政策法務を学ぶための必須文献となるものと思われます。ぜひ、一読をお勧めします。
(03.09.15記)
野中郁次郎 ほか編著 「知識国家論 序説 新たな政策過程のパラダイム」 (東洋経済・2,940円)
ナレッジ・マネジメントをパブリック・セクターでも活用していくための理論枠組みの提示を試みている文献です。政策決定は知識創造プロセスであるという新たな命題に基づいて国家論の一つの理想型を提示しようとしているのですが、総論は上手くまとまっていると思いましたが、各論の内容が私には今ひとつ消化不良の感を否めませんでした。
知識国家論の構想は、理想に向けたビジョンの提示とこれを断行するリーダーシップ、共有されたコンテクストとしての「場」、その「場」において創造的な「対話」がなされ、知識創造というダイナミックな弁証法的プロセスが繰り返されることをポイントにしています。これをベースにして各論では民間企業における取り組み、公共部門での政策過程について論じられています。各論で分かりやすかったのは、第3章から第5章で、第6章から第8章は私にはやや理解困難な記述だったように思います。その中でも民間企業の取組み事例を素材にして論じられている「第5章ナレッジダイナミクスの発見」での論述は公共部門との対比もしやすいものだったと思います。これからは知識創造自治体を構築していく必要があります。情報の共有から知識の共有へと脱皮することが求められています。しかし、現実問題として、情報の共有でさえ強い拒絶反応をする自治体職員が多い中、トップ層の良識ある強力なリーダーシップが発揮されない限り、実現は困難なようにも思います。知識創造企業として成功している民間企業の共通点としては、やはりトップのリーダーシップがしっかりしているということにあるようです。
本書は野中教授のほか、そのお弟子さんと思われる若手研究者が分担して執筆されているため、記述内容に大きなバラツキがあり、そのため特に各論が理解しがたいのかもしれません。ただ、公共部門における知識創造論に関する文献は他に知りません。とりあえずチャレンジされてはどうでしょうか。
(03.08.17記)
宮脇 淳 著 「公共経営論」(PHP研究所・1,890円)
著者は北海道大学教授で行政学がご専門です。自治体行政にマネジメントが求められると指摘されているものの、自治体職員が読むのに適当と思われる体系的な解説書は意外にも見当たりませんでしたが、本書の登場によって公共経営に対する意識高揚を図ることができるように思います。
本書は、官僚行動メカニズムとその集合体としての行政組織を対象とし、そこに投入された資源の有効活用を目指すものを「行政経営」と定義づけ、そこにとどまらず、地域の公共部門に投入された資源を有効活用する視点から地域公共経営を定義づけています。そして公共経営の定義をこの両者から形成されるものであるとしています。
第1章公共経営総論、第2章現代公共経営の理念、第3章意思決定・組織ガバナンス、第4章政策評価制度の基礎、第5章人材マネジメントと動機づけ、第6章財務会計情報、第7章公共サービス編成の構成になっており、自治体が取り組むべき改革について順序だてて体系的に論じられています。特にNPM理論、PPP理論については相当具体的な論述があり、NPM理論に今ひとつなじめなかった私もそれなりに理解が進んだように思います。
全体を通じての基盤には、やはり官僚行動メカニズムの変革という点でしょう。いずれの課題に対応するにしても、従来のインクリメンタリズムに基づいた行動のままでは、真の改革にはならないということが強調されているように思います。見かけ上の改革ではなく、芯からの改革と言ってもよいかもしれません。芯からの改革を阻むインクリメンタリズムに染まりきった職員をいかにして変革させるかについては、実際、公共経営の理論だけでは太刀打ちできないのも事実でしょうね。やはり実践を積み重ねるしかないようです。
本書は政策法務を考える際にも大いに参考になると思います。公共経営という視点を無視した政策法務論はあり得ないでしょうし、公共経営を推進するための基本書として貴重な文献になると思います。
(03.08.09記)
阿部泰隆 著 「内部告発〔ホイッスルブロウワァー〕の法的設計」(信山社・1,155円)
阿部泰隆教授が「公益通報者の保護及び褒賞金の支給に関する法律」の試案を提示され、内部告発制度を立法化する場合の諸論点についてかなり詳しく論じられています。阿部教授の内部告発法制に対する基本的な考え方は本書の冒頭で明確に述べられています。それは、不正が行われる理由に倫理観や道徳感の欠如だけに求めるのではなく、露見する確率を考慮しても違法行為によって得られる利益が、露見した場合の不利益よりも大きいと認識されているからだとしています。つまり、不正は儲かると金勘定をするからだということです。従って、阿部教授の案は、不正を防止するには、不正が露見した場合の処罰の厳格と同時に、露見率をアップし、不正は損であると思わせるようにすることにあるとしています。
この数年、とにかく官民を問わず不祥事が絶えません。その中でも、以前ならば露見しなかったような企業や官公庁の不正が内部告発によって露見するケースが目立っています。内部告発が激増している理由をどう考えるべきかは様々な意見があると思います。私は、従来なら美徳とされていた企業への忠誠心、我が社意識が長期間に及ぶリストラの実施によって希薄化していることに関係していると思っています。日本社会が法化社会に転換するための過渡期でもあり、阿部教授が提案されているような法制度の整備は法化社会に寄与するものであると思います。
(03.07.27記)
佐藤文俊 編著 「国と地方及び地方公共団体相互の関係」(ぎょうせい・3,200円)
最新地方自治法講座第9巻になります。このシリーズを全て読破する予定は全くありませんが、地方分権一括法の施行によって地方自治法が大改正され、国、都道府県、市町村の相互関係が対等、協力関係に改められたことは皆さんもご存知のとおりです。そこで、本書は、この問題に関するまとまった解説書だと思い、読んでみることにしたわけです。
本書は地方公共団体に対する国等の関与を中心に、判例や行政実例をベースに淡々と解説がなされ、執筆者の個性が出ないようになっているなぁと感じました。もっとも、講座の目的がこうしたものであることや、執筆者が総務省の関係者が中心である以上、個性が出ないのは仕方ないのかもしれません。
しかし、特に『8 国地方係争処理委員会と神奈川県横浜市「勝馬投票券発売税」』では、単に国地方係争処理委員会制度と横浜市条例の内容などを解説するだけではなく、もう少し踏み込んだ記述があっても良かったのではと思います。総務省と横浜市の見解を論点ごとに羅列し、平成13年7月24日に出された国地方係争処理委員会の勧告を資料として掲載するだけでは、何となく物足りません。特にこの勧告は、総務大臣の不同意が横浜市との協議を尽くさずに出されたものである点を指摘し、再協議するようにと勧告したものです。しかも、現在においても横浜市と総務省の再協議は進んでいないようです。これでは何のための制度なのか存在意義を問われるでしょう。国地方係争処理委員会の第1号事件であっただけに残念です。
地方分権時代であっても、国地方係争処理委員会が機能するケースが今後どれほど生じるのか疑問符がつきます。国と対等に法的論争ができるだけの自治体がどれほど存在するのかという問題に加え、どんな地方自治体も最低1回は東京に出向かなければならないという不便を強いられる制度である以上、結局は分権前と大差は無くなるのではないでしょうか。国に有利な制度であることに大きな変化は無いように思います。
(03.07.02記)
高橋俊介 著 「組織改革 −創造的破壊の戦略ー」(東洋経済新報社・2,625円)
この文献も経営学関係のものになります。著者は慶応義塾大学大学院政策・メデイア研究科教授で人事コンサルタントです。今年春から親しい間柄になった某有名シンクタンクの研究員さんが、市役所職員で構成される自主研究グループにおける研究会で成果主義に関するレクチャーをされ、本書を紹介してくださいました。
民間企業において成果主義を導入し、経営改革を成功させるためにはどうすべきかという視点が中心であると思われます。極度の財政難にあえいでいる多くの自治体が職員給与の見直しを進めていますが、その取組み方向は正しいものなのかどうか疑問に思っていたので、私としては格好の文献になりました。
高橋教授によれば、民間企業における人事制度改革が急展開を見せ始めたのは1998年頃だそうです。しかし、年功序列賃金に代表される制度を小手先で改革することに汲々としていて、経営改革までに至っていないとされています。重要なのは制度改革ではなく、人と組織に関するイノベーションだということです。
成果主義との関係では、自治体での取組みが広がっているものに「目標管理制度」があります。民間企業においてはアメリカで80年代から、日本でも90年代から報酬制度と直結するようになってきたようです。しかし、それがうまく機能しなくなってきたのは、報酬制度とのリンクにあったことは間違いないと断言されています。目標達成率を重視しすぎた結果、短期志向が強まりすぎて、期間内に結果に結びつくことしかやらなくなったことに代表されるような、様々な弊害が出てきたとのことです。安全志向の高まりも弊害の一つであると主張されています。目標管理の給与直結の弊害について、高橋教授はもう1点重要な指摘をされています。それは数字重視のために仕事の質が低下するということです。それぞれの仕事には数字としては表れにくいが、いろいろな意味で質を支えているものがあり、それがなおざりにされ、質の低下を招くということです。
では、成果主義の本当の意味は何なのでしょうか。成果主義への誤解としては、給与を成果の大きさに応じて決めることということです。しかし、成果主義の本来の目的は、組織の成果志向性を高めることであって、給与制度改革が成果主義の目的ではないということです。真に行政経営改革をしようとするならば、他都市のモノマネ「目標管理制度」は即刻廃止し、真の意味の目標管理制度を民間企業から学ぶべきでしょう。
本書では「コミットメント」、「コンピタンシー」という外来語が多数用いられており、最初はなかなか馴染めなかったのですが、読み進んでいるうちに、民間企業の人事制度と言えどもいろいろ失敗しながら取組んでいることを知ることになりました。自治体で人事や組織管理の仕事に従事されている方には一読をお勧めします。
(03.06.22記)
A:野中郁次郎・紺野登 著 「知識経営のすすめ−ナレッジ・マネジメントとその時代」(筑摩書房・756円)
B:野中郁次郎・竹内弘高 著 梅本勝博 訳 「知識創造企業」(東洋経済・2,100円)
Aは組織的知識創造理論(ナレッジ・マネジメント)に関する入門書と言える文献です。Bは日本発の理論を初めて出した論文の日本語版と言えるものです。日本企業は組織的知識創造の技能・技術によって成功してきたということを示した文献です。B書は出版年が1996年3月ですから既に7年以上経過しているわけです。つまりこの間、民間企業では知識創造理論をどんどん導入してきたということになります。
さて、以前から、企業経営の資源はヒト、モノ、カネ、情報と言われてきましたが、第5の経営資源として知識を掲げ、日本から世界へ発した初の経営理論がナレッジ・マネジメントということになります。
知識とは「正当化された真なる信念」であり、知識創造のプロセスは、暗黙知と形式知という二つの鍵概念を中心として、その共同化、表出化、結合化、内面化という4つの変換プロセスを経るものであることが論じられています。そして、知識資産の開発、活用、維持。これらがナレッジ・マネジメントの基本的な構成要素だということになります。日本の企業はこれを製品やサービス、業務システムに具体化する組織能力を持っていたから発展してきたということです。B書では、ホンダ、松下電器、キャノンなど日本を代表する一流企業がいかなるプロセスで新製品を開発したのかを紹介し、それが組織的知識創造によってなされたものであることを論証しています。
(03.06.01記)
「自治体と計画行政−財政危機下の管理と参加 」 (財団法人日本都市センター・2,100円)
財団法人日本都市センターがこれからの自治体の計画行政について理論的知見を提供するために出版された調査研究報告です。おそらく、自治体の計画行政に関する最高水準の理論書だと思います。
本書第2部第2章自治体計画行政の姿においては、全国694市区へのアンケート調査の結果がまとめられており、9割近い自治体が「基本構想−基本計画−実施計画」の三層構造の計画体系を策定しており、計画期間としては基本構想は10年、基本計画が5年、実施計画が2年から3年となっています。もっとも、総合計画担当部局以外の職員の総合計画に対する認識レベルは全体としては低いようです。
さて、これまでの計画行政と決定的に異なることは右肩上がりの経済成長を前提とした計画は必然的に破綻するということです。つまり、誰もが納得する総花的な、文字どおりの総合計画の策定と実行は困難であるということになります。そこで、新たな計画行政の推進のあり方として主張されているものが市民参加や対話型の計画過程であったり、長期計画から戦略計画への転換となるわけです。第1部第4章「対話と自治体計画行政」において大橋洋一教授は『市民参加型計画条例要綱案』を提示されています。自治体でこうした条例を策定する動きがあることについては今のところ知りませんが、考え方や手法は大いに参考になると思いました。また、多くの自治体で生じる現象として「計画と予算の乖離」というものがあります。計画は企画、予算は財政という所管課の違いとその連携の悪さからいつまで経ってもこの現象は消滅していないようです。一つの方法として熊本市で実施されたように、財政課の職員を企画課に異動させるという試みもあるようです。組織の再構築という大袈裟なことをせずに、人事異動という手法で改善することは検討の価値ありだと思います。また、最近急速に取り入れられている「評価」制度との連携の悪さも問題になっているようで、評価単位と計画上の事業単位の相違をいかに調整するかということが課題になっています。
厳しい財政状況の中で自治体の計画行政は転機を迎えています。新たな取組みに対する理論的知見を得るためには必読書でしょう。
(03.04.29記)
石井 陽一 著 「世界の汚職 日本の汚職」 (平凡社・756円)
自治体政策法務論の中で、あまり議論になっていない論点に公務員倫理の問題があると思います。分権時代において自治を発展させていく基盤として、自治体職員の倫理は重要問題であることは言うまでもありません。しかし、職員倫理法制・法務に関する専門書、理論書は書店でも見かけたことがありません。この分野での法務論がもう少し議論されても良いのではないでしょうか。
本書はスペイン語とラテンアメリカ地域の研究者による世界と日本の汚職について論じられたものです。まず、ベルリンには透明化インターナショナルというNGOがあり、汚職や腐敗に関する様々な活動を行っていることが紹介されています。汚職の定義について「私的な利益を得るために公職を利用すること」と定め、1995年以後、世界各国の汚職イメージ調査を行い、10点満点で格付けし、公表しています。2001年調査では91カ国を対象とした調査結果を公表し、日本は7.1点で21位という結果でした。91カ国中の21位であれば上出来と言えそうですが、北欧諸国の点数が際立っており、せいぜい中進国の評価です。北欧諸国にはオンブズマン制度が充実していること、米国の内部告発者保護法、英国の公益開示法などの法制度がそれなりに機能していることなどが日本と大きく異なる点のようです。そして、クリーンな国ほど国際競争力も高いということも示されており、経済的繁栄と倫理は無関係ではなさそうです。
本書では汚職根絶への具体的な提言もなされており、その中で内部告発制度導入と官公庁会計を企業会計にすることが含まれています。後者は自治体ではかなり進んでいますが、前者は期待薄でしょう。
私の職場にも公務員は清濁併せ呑むのが当たり前と平気で言う中間管理職者がいますが、こういうことは政治の世界では現状、仕方ないとしても、自治体職員がこれを積極的に実践することは市民への反逆でしょう。こうした考えの管理職が存在するから、汚職発生の土壌が形成され、定期的に汚職事件が発生するわけです。
(03.04.22記)
日本裁判官ネットワーク 編著 「裁判官だって、しゃべりたい!」 (日本評論社)
日本裁判官ネットワークとは、司法改革として開かれた司法と司法的機能の充実強化を目指す、現役裁判官グループで、1999年(平成11年)9月に発足した団体です。メンバーの人数は25名ほどのようです。発足当初は、マスコミなどで大々的に報道され、ニュース番組にも生出演するなど、全国から注目され、現在もなお、精力的に活動をなされています。メンバーには、平成8年に発生した神戸児童連続殺傷事件の少年審判を担当された裁判官もいらっしゃいます。ただ、裁判官が全国で約3000名いることを考えると、こうした取組をされているのは、ほんの一握りの人たちであるという事実が、日本の司法の閉鎖性を象徴しているとも言えるでしょう。
今まで紹介してきた法律関係文献は、全て私が自費で購入し、読了したものばかりでした。しかし、本書は、裁判官ネットワークのメンバーである、森野俊彦・和歌山家庭裁判所判事が私にご恵与くださり、有難く頂戴したものです。森野判事は、日本で初の再審無罪判決となった免田事件の元被告人、免田栄氏と対談をなされ、その内容が本書で掲載されています。元死刑囚と現役裁判官の対談というのは、今までなら到底考えられない、画期的な企画だと思います。
一般に裁判官と言えば、何か堅苦しく、まるで仙人のような生活をしているのではないかという印象を持ってしまいます。これは裁判官という職業に対するイメージであるとともに、裁判官にそうしたイメージを植え付けている国家政策の成果と言えるかもしれません。
本書は、現役裁判官の方たちの、まさに”生の声”がぎっしり詰まっています。そして、最高裁判所による過剰な司法統制とでも言うべき実態を明らかにし、その異常性を厳しく指摘する論稿もあります。司法制度改革が現在進行中ですが、司法の世界をほとんど知らない一般市民が、その実情を知りうる数少ない貴重な文献と言えるでしょう。司法制度改革と地方分権は決して無関係ではありません。自治体職員は、司法の実情の一部を知るためにも、是非、一読すべきでしょう。
(03.03.23記)
細田 大造 著 「ゼロから始める政策立案」 (信山社・1,260円)
著者は三重県環境部企画監という肩書きになっていますが、元職は総務省のキャリア職員。いわゆる出向人事で三重県で仕事をされているのだと思います。
細田氏は、冒頭、21世紀に生き残る自治体の条件として「情報交流能力」と「政策立案能力」を高めることを強調されています。そして、まず、第1章ではケース・スタディとして自治体にありがちな、かなりひどい架空の事例を3つ示しています。それを素材にして、例えば自治体の企画部門といっても、その部署にアイデアマンが多数配置されているわけではなく、「調整部門」、「窓口部門」と呼ぶほうが正確だろうと指摘し、企画部門には組織外の人材活用や自治体内部の横断的な人材活用をもっと積極的に行う必要があると主張されています。細田氏は、3つのケースについて「全国どこの自治体でも、ここまでひどい事例はないはず」と述べていますが、私の経験だけでも類似事例は山ほどありますので、「ここまでひどい事例」の自治体は、少なくとも一つは存在するということになります。この3つの事例、市役所の初級研修などで教材に使うと面白いかもしれません。
また、第2章では2002年4月1日から施行されている「三重県産業廃棄物税条例」の立法過程を詳細に紹介されています。縦割り意識の強い自治体職員が、縦割りシステムではない横断的な体制を作り、その中で政策立案をすることの重要性、必要性、そして楽しさを具体的に説いています。三重県の産業廃棄物条例は、一般的には地方分権一括法によって認められた法定外目的税の導入として注目されたのですが、その立案には、税務、環境、産業の各担当職員が徹底した議論を積み重ねて出来上がったものであり、結論もさることながらプロセスがいかに重要かを論証されています。
第3章では、三重県の環境行政に関するホームページ「三重の環境」へのアクセスが月30万件という途方もないことになったことが紹介されています。自戒も含めて言えば、ホームページは情報の鮮度が命。自治体のホームページが土日も含めて毎日更新されているというのは驚きです。
近畿2府4県の中で、三重県というのは少なくともイメージとしては地味な存在でした。それが北川知事が就任してから数年間で全国から注目される自治体に大きく変貌したのは、こうしたプロセス重視と情報公開が大きく影響しているのではないでしょうか。同じ近畿圏の地味な自治体の職員として、見習うべきことは非常に多いと思います。
(03.03.16記)
佐々木 信夫 著 「東京都政 −明日への検証−」 (岩波書店・735円)
首都、東京都の政治、行政を鈴木知事、青島知事、そして石原知事の時代を中心に検証されています。特に自治体関係者なら誰でも興味を持つであろう、都庁官僚制、財政危機、都市再生などの重要な諸論点についてはかなり突っ込んで論じられています。
現在の都政における大きな問題は、やはり財政危機です。東京都の一般会計は約6兆円。鳥取県の12倍、埼玉県の3倍になり、当然、日本の自治体で最大の財政規模です。しかし、石原都政1年目の99年度一般会計は実質1068億円の赤字。その後も4年連続の赤字財政が続いているとのこと。規模が大きいだけに赤字額も桁違いになります。財政難の要因は、当然ながらバブル経済崩壊による急速な税収減ですが、大規模開発事業のツケという面も大きな要因です。歳入は景気の変動に大きく影響を受けますが、歳出構造を急激に変革することは事実上不可能。バブル崩壊後、東京都も歳入の穴埋めのために巨額の起債で対応してきたのですが、もう限界です。さらに追い討ちをかけて大きな負担になるのが、団塊世代の都庁職員が大量に定年退職していくことに伴う、数千億円規模の退職金支払が毎年必要になることです。
都庁官僚制については、全職員数約17万5000人という巨大組織であるがゆえの問題が生じているようです。例えば昇任試験にチャレンジする職員が対象者の9%から30%程度しかいないという問題が紹介されています。大企業病は東京都庁にもかなり蔓延していることが窺知できます。
このような都庁が抱える諸問題は、内容や程度に差はあるものの、多くの自治体に共通した病理的現象であり、東京都を自分が勤務する自治体に置き換えて本書を読んだとしても、かなりの部分で重複しているのではないでしょうか。
本書は、都市再生という名の都市開発の継続に疑問を投げかけつつ、福祉政策の縮小には批判的な姿勢を示されています。しかし、だからと言って効果的で実現可能な具体的改革論には及んでいないという印象です。東京都の財政危機はまさに土壇場状態であり、全国の自治体関係者が注視していると思います。
(03.03.02記)
佐々木 信夫 著 「市町村合併」 (筑摩書房・735円)
著者は東京都職員OBで、現在は中央大学経済学部教授。自治体職員出身の有名大学教授として、都市行政学や地方自治論を中心にご活躍されていることは、周知のとおりです。
市町村合併は主として小規模自治体にとって重大な政策課題となっており、財政上の優遇措置を盛り込んだ市町村合併特例法の期限が2005年(平成17年)3月となっているため、各地で合併論議が活発になっています。佐々木教授は、カネだけが目的の市町村合併は、手段と目的を取り違えた合併であると警笛を鳴らしています。
合併特例法が用意している特例措置というのは、市となる要件の緩和(通常、人口5万以上のところを2004年3月までに合併するなら3万以上でOKとか)、地方税の不均一課税(合併から3年間)などのほか、合併自治体にとって最も誘惑されるものが地方交付税と起債の特例措置です。まず、地方交付税は合併から10年間は合併時の市町村交付税合算額を保障し、その後5年間段階的に増加額を縮減することになっています。起債については、合併後、市役所本庁舎建設などの新たに必要な公共事業について、95%の充当率で起債発行を認め、その元利償還金の70%は交付税で措置するというものです。地方交付税は実質15年間は保障してもらえるとあって、現状のままなら地方交付税が縮減対象になる小規模自治体にとっては飛びつきたくなるような財政上の優遇措置と言えるでしょう。こうしたエサを目前にしているため、自治体としての将来像を描かず、単に財政上の優遇措置だけを目当てにしたような合併論も少なからずあるようです。佐々木教授はこうしたことには批判的ですが、現場にいる首長や職員にすれば、やはり誘惑に負けそうになってしまうのではないでしょうか。気持ちとしては十分理解できます。
合併後の自治体運営のあり方に関する提言として、佐々木教授は自治基本条例の制定とNPN理論による経営改革を主張されています。合併自治体こそ自治基本条例を制定し、住民参画の機運を高めるべきであるとするわけです。また、政策主体として経営能力、政策能力、評価能力の3つの能力を備えた自治体への変革を強調されています。これなどは合併の有無にかかわらず全ての自治体に当てはまる議論でしょう。
市町村合併論は、私が勤務する市ではほとんど話題にさえなっていませんが、むしろ市町村合併とは必ずしも関係しなくても、これからの地方自治をいかに構想していくべきかというマクロ的視点から考察をする場合、本書は示唆に富んでいると思います。
(03.03.02記)
「自治体法務と自治基本条例ー地域からのルール設計」(財団法人日本都市センター・525円)
平成13年7月2日に開催された都市経営セミナーでの基調講演、事例報告、パネルディスカッションをまとめたものです。正味100ページ足らずの本ですが、もっと早く読むべきだったと思うような充実した内容になっています。
まず、千葉大学の鈴木庸夫教授が提示された自治体法務の領域を整理した図は参考になります。自治体法務や政策法務については、様々な分類が可能でしょうが、自治体現場に即した分類になっていると思います。特に企画法務という概念を採用されているのが特徴と言えるでしょうか。鈴木教授によると政策法務というのは、ややチャレンジングなイメージが強く、一般の自治体職員や関係者に受け入れられないため、なじみやすい言葉として企画法務という言葉を使ったと説明されています。
また、事例報告としてニセコ町の「まちづくり基本条例制定への道のり」というテーマで同町企画環境課長の片山氏が基本条例の必要性や検討過程についてわかりやすく説明されています。ニセコ条例は自治基本条例の先駆けですが、何といっても職員とともに住民の意識変革が重要だということが理解できます。こういう条例が制定できる自治体は、住民意識も先進的だということだと思います。
そして、横須賀市の政策法務への取組については、地方分権に伴い、市長がリーダーシップを発揮され、職員が一丸となって行われているということが強調されていました。「地方分権型条例」という表現は横須賀市長が唱えられたそうですが、分権を実践している実例として貴重な存在だと思います。ただ、残念なのは、条例制定を中心とした政策法務への積極的な転換について、横須賀市以外の自治体ではほとんど見受けられないということでしょうか。
(03.01.27記)
都市問題研究第54巻第11号 「特集 分権時代の自治体法務」(都市問題研究会・650円)
市議会棟にある議会図書室でたまたま見つけて、半分くらい読んだところで返却し、その後購入して残りを全部読みました。こういうパターンは初めてです。
平成14年11月号なので、自治体法務に関する最新の論文集でしょう。千葉大学の鈴木庸夫教授の「政策法務の理論と実践」をはじめ、研究者、自治体職員らによって8本の論文が掲載されています。特に印象に残った自治体職員による論文を2本紹介しておきましょう。
まずは札幌市の田中孝男氏の「わが国自治体における法務研修の課題と展望」です。自治体職員の法務能力の向上については、このホームページでも機会があるごとに強調していますが、法務能力(田中氏の論文では主に条例等による自主的な法制度の設計能力のことをさしています)を向上させるための効果的な研修について、確たるものはなかなか見つからないと思います。田中氏は、法務研修の評価基準として、@戦略性・体系性、A研修項目の的確性、B研修方法の的確性の3分野で設定することを主張され、これに即して法務研修論を展開されています。そして@について、法務研修は法務戦略の一施策であり、自治体の研修戦略、そして組織・人事戦略の中で戦略性・体系性を有していなければならないと述べられています。また、Aについては、必要な法務目標と現有法務能力の乖離を解消しうるための項目が設定されるべきと主張され、かつ、職員には法務能力向上の土台として、常識的な人権感覚が必要になるとされています。この点については、私は特に重要であると思っています。人権感覚の無い職員が実在しますから。また、Bについて、法務研修の目標を達成するために最適なカリキュラムや手法の選択の重要性を主張されています。法務知識が初歩レベルであれば、演習形式ではなく講義形式中心の研修が適切と思いますが、実際には長時間の講義を聴講するだけの意欲や意識のある職員が果たしてどの程度存在するのかという問題と、内部講師にそのような人材が存在するのかという問題を抱えている自治体が多いと思います。
次に所沢市職員の肥沼位昌氏の「政策法務と政策財務」という論文です。政策財務という概念を初めて知りました。財政状況が悪化する中にあっても、福祉や環境を中心に自治体の政策課題は増え続けており、自治体財務のあり方が問われていると指摘され、政策を財務面から支える政策財務の必要性が高まっていると主張されています。政策財務の要点として、@財務情報の整備と公開ー透明性、A長期的な財政の健全性の維持ー長期的計画性、B計画から予算への民意の継続ー市民参画性、の三点を挙げておられます。特に財政の健全性の維持に壁になっているのが「しがらみ」であることを主張され、「しがらみ行政からの脱却」が財政健全化に取り組んでいる多くの自治体の最大の課題のようです。
(03.01.27記)
松下 啓一 著 「新しい公共と自治体」(信山社・1,050円)
信山社の政策法学ライブラリィの6冊目になります。著者は現役の横浜市役所職員です。公共は政府(国・自治体)と民間(NPOなど)が担っているという公共共担論を提案するとともに、政府と民間の活動が重なり合う部分はパートナーシップの領域として、これからのまちづくりを協働で進めるべきであるという主張をなされています。そして、パートナーシップにもいくつかの類型があることを整理しつつ、このような意味でのパートナーシップとは、ある共通の目的のために、協調、協力、提携しあう関係であるとしています(広義のパートナーシップ)。そして、自治体で導入が進んでいる自治基本条例など、政策パラダイムとしてのパートナーシップはこの意味になります。
また、本書ではパートナーシップ型政策づくりの成立条件として、計画段階からの情報公開を示しています。情報公開をまちづくりの計画段階で行うと、計画づくりに時間を要することにはなりますが、計画を実行する段階がスムーズになり、しかも信頼関係が構築できるという指摘は、真の意味での協働のまちづくりを考えるに際して非常に示唆的であると思いました。
著者の松下氏はパートナーシップの相手としてNPOを挙げている反面、いわゆるエセ・NPOの存在も自らの体験から存在することを指摘されています。実際、NPOの認証取得をしている風俗産業やヤミ金融業者の経営者も存在します。パートナーシップの相手を選ぶ眼力も必要になってくるでしょう。
多くの自治体職員にとって「市民との協働によるまちづくり」というフレーズはここ数年の間に聞き慣れてきたと思います。しかし、なぜ協働が必要なのか、協働の意味や領域はどうあるべきなのかについて、考えたり議論したりすることは少ないのではないかと思います。協働のまちづくりを理論的に学び、考えるためには最適のテキストだと思います。
(03.01.20記)
和田 仁孝 ほか編 「交渉と紛争処理」 (日本評論社・2,520円)
すでに紹介した「紛争解決学」もそうですが、本書はズバリ”交渉と紛争処理”という、私の関心が最も高いテーマに関する法社会学の理論書です。3部構成から成っており、特に第1部の交渉と紛争処理の基礎理論については、私個人の経験に基づく理解と学説の間にどの程度の乖離があるのかを確認する上で有意義な論文だと思いました。また、第2部は紛争処理のしくみとして特にADR(裁判外紛争処理)について論述されているとともに、現代の裁判についても制度の構造的問題や裁判過程の実態について詳細に論じられています。さらに第3部紛争処理と法専門家の役割として、裁判官と弁護士、そして司法書士に関して論じられています。
紛争の発生から当事者間の交渉、ADR、訴訟までを全体の過程と位置づけてアプローチしていくという考え方は、私がかねてからイメージしていたものと相当程度マッチングします。ただし、本書が前提としているのは、一般人どうしでの紛争になっているようです。国や自治体との間で生じる紛争に関する特徴的問題については残念ながら触れられていません。
それでも自治体現場において地域住民との紛争を「解決」しなければならない立場に置かれた職員が、交渉を積み重ねることによって合意に達し、円満に紛争を終了させるための法理論的知見とはいかなる内容のものなのか、試行錯誤を繰り返していた私にとって、本書はそれに応えてくれる数少ない書籍だと思います。
(03.01.20記)
廣田 尚久 著 紛争解決学(新版) (信山社・3,990円)
「紛争解決学」という研究分野が独立して存在しているとは知りませんでした。最初の「はしがき」を読むと初版が1993年(平成5年)に出版されているようなので、単に私の勉強不足、無知だっただけのようですが。
本書において紛争解決学とは『紛争解決規範及び合意の形成、構造、内容、使用、効果を解明するとともに、紛争解決規範を使い、合意に到達することによって紛争解決をはかる、当事者の諸現象ならびに紛争解決システムを解明する学』と定義されています。紛争解決学は、弁護士である著者が長年に渡る民事紛争解決の経験と周辺諸学問を融合させて体系化したものと言えるようです。
平均的な自治体職員が、職務上、地域住民との間で紛争が生じ、これを解決しなければならない立場になった際、合理的で納得できる独自の解決策を提示できる能力を有していることは無いと思います。実際、私も3年ほど前までは、職務上頻繁に地域住民との紛争処理に従事させられ、その際、いかにして解決すべきかあれこれ悩んだことが多々ありました。そうした立場に置かれた時に、解決のヒントを見つける書籍をなかなか得られなかった苦い思い出があります。紛争解決、紛争処理に関する理論書は法社会学の分野から多数著されていると思いますが、実務家による紛争解決に関する実務と理論の体系書で、簡単に入手できる数少ない書籍と言えるでしょう。
本書における紛争解決とは、当事者間の合意を重視したものとなっています。弁護士として多数の民事事件を訴訟ではなく、裁判外の合意(和解)という手法によって解決してきた実践的経験とそれによって構築されてきた理論が土台になっており、説得力に満ちていると思います。
本書において廣田弁護士がご指摘なさっているとおり、最近の民事訴訟は判決ではなく和解による解決が増加しており、欠席判決を除けば和解による解決が判決よりも上回っているわけです。そしてそのことは、自治体が地域住民との間で紛争が発生した場合、訴訟にまで発展させず、その前の段階での解決策として合意に到達させるという問題について、貴重な示唆を与えていると思います。政策法務論として私が問題提起している「自治体交渉法務」は、地域住民との交渉によって合意に到達し、その紛争を解決するというイメージを描いていたとは言うものの、その論証も不十分で、誤解を招いた可能性があると思います。この点は反省しなければなりません。ただ、問題意識としては共通のものがあると思います。
また、廣田弁護士はADR(裁判外紛争処理)の拡充を主張されており、内閣に設置された司法制度改革推進本部の下部組織の一つである「ADR検討会」の委員として、その法制化に精力的に取り組んでおられます。司法改革が進めば、裁判所の充実とともに、ADR機関が拡充整備されるでしょう。そうなればより柔軟な紛争解決システムが構築されていくことになると思います。本書はそうした問題についても、様々な提案をされています。
(03.01.13記)
佐藤 幸治 著 日本国憲法と「法の支配」 (有斐閣・4,200円)
言うまでもなく、著者の佐藤幸治教授(京都大学名誉教授・近畿大学教授)は、現在の我が国憲法学の最高権威のお一人です。また、行政改革会議委員、司法制度改革審議会の会長としてご活躍されたことは周知のとおりです。
さて、本書は、この10年余りの間に佐藤教授が執筆された論文や講演録をまとめたものです。年末年始休暇中に超難解な論文集にチャレンジしたわけです。思い上がりも甚だしいかもしれませんが、それでも、じっくり読むと重要な論点が多数含まれていることに気づきます。
本書の基本的問題意識は、第2次世界大戦で敗戦した日本が、GHQの支配下にあった際、「大日本帝国憲法」を改正(廃止)し、アメリカ合衆国憲法を模倣した現在の「日本国憲法」を受諾し、これを制定して50年以上経つにもかかわらず、英米法理論である「法の支配」が浸透しておらず、ドイツ的「法治国家」の浸透が強いという点です。
一般市民レベルの理解においても「法治国家」という言葉を耳にしたり、会話したりすることは比較的あると思いますが、「法の支配」という表現を使用することはほとんど無いと思います。つまり、一般市民レベルの言葉においても、その真の意味を理解しているかどうかはともかく、「法治国家」という言葉は定着しているのです。しかし、「法の支配」という言葉が日常会話で使われないことは、まさに国民に浸透していないことを象徴しているのだと理解できると思います。
では「法治国家」と「法の支配」の差異は一体何なのでしょうか。本書は格調高く、難解な表現がなされていますが、比較的理解しやすかった説明を引用すると次のようになります(204-205頁)。
まず、ドイツ的「法治国家」観については、『社会をカオスとみて、それに対して人間理性の発露である抽象的・一般的法規範の定立によって秩序を与えるとの考え方を出発点にしているように思われます。完結した論理的法体系を措定して、演繹的に具体的法規範を引き出し、事を処理する。それを可能にするのは、全体性・画一性を備え、能動的に活動する組織です。全体性・画一性・能動性・組織性が、この秩序形成の特質です。「垂直下降型秩序形成」あるいは「行政型秩序形成」といってよい・・・(中略)・・・この秩序形成にあっては、害悪発生の予防、事前調整ないし事前規制が重視されます。』
簡潔に表現するならば、「法治国家」とは「行政国家」に結びつくということになるでしょう。これはまさに現在の日本の姿を言うことになります。では、「法の支配」とはどういうことになるのでしょうか。引用することにします。
『「法の支配」観は、裁判所における具体的事件・争訟の適正な解決を通じて形成される法の意義を重視するところに特質があります。国民は専ら法(行政)客体として存在するのではなく、法形成への国民の主体的、能動的参与を重視するわけです。対等な当事者間の、具体的事実に即した対話的討論を通じての法形成を、法秩序の重要な要素とみます。・・・(中略)・・・裁判所を中心とする”法原理のフォーラム”を、個人の権利・自由を維持するうえできわめて重要なものと考えるのです。』
結論として「法の支配」とは「司法国家」と結びつくという理解になります。2割司法などと揶揄されてきた日本の司法制度を拡充・発展させることが「法の支配」を浸透させるための重要なポイントになるわけです。一般市民レベルでは裁判所はまだまだ縁遠い存在です。さらに「法の支配」という言葉に「支配される」という意味に誤解してしまい、逆に抵抗感を感じる人が多いのではないでしょうか。
また、佐藤教授は「法の支配」を再興させるためには「自律した個人」の存在が必須であるということも強調されています。自律した個人の存在抜きにしては「法の支配」は成り立たないことは論理必然です。
一般市民レベルにおいて「法の支配」という言葉が浸透するには、まだ時間を要すると思います。本書は、「法の支配」を機軸に、自律的個人、自己決定権、行政改革、司法制度改革など重要な問題点について論じられております。今後の日本の進むべき方向性を考える際して、示唆に富んだ論文集であると思います。
(03.01.05記)
明石 照久 著 「自治体エスノグラフィー 地方自治体における組織変容と新たな職員像 」(信山社・3,675円)
著者は現役の神戸市役所職員であり、本書は2001年に神戸大学大学院法学研究科に提出した学位論文(博士論文)を発展させたものです。神戸大学大学院法学研究科では10年ほど前から社会人コースを設置し、自治体職員などの受入れに積極的に取り組んできているようです。著者の明石氏も社会人大学院生として研究に取り組まれ、見事、法学博士号を取得されたわけです。関西の、特に兵庫県内の自治体職員の政策(法務)研究で、これほど大きな成果を挙げた人を他に知らない私としては、心から敬意を表したいと思います。
「エスノグラフィー」という研究方法について、私は本書によって初めて知りました。それは、『本来的には文化人類学者が他文化社会の中に住み込んで、そのコミュニティの習俗や文化を理解するための方法であった。未開部族の行動や習俗等を濃密に記述することによって未開部族の文化や社会の構造を明らかにすることがエスノグラフィーの目的』ということです(本書19頁)。
エスノグラフィーという研究方法は、自治体職員が属する組織内部において生じている様々な行政実態を研究する場合に有効な方法であることは理解できます。行政実態に最もアクセスしやすいのは、現場にいる自治体職員そのものであるからです。法社会学で研究実績が多い実証研究とはまた異なる研究手法です。
しかし、これまでそうした取り組みが全くなされてこなかった原因の一つには問題意識の欠如があります。日々、仕事をしていて遭遇する現象を特別意味のあるものと受け止めず、仕事だと割り切って処理しているだけではこうした問題意識はいつまで経っても生じないでしょう。
さらに、自分が携わってきた仕事の実態を研究し、公表するということに対しては、「暴露話」というマイナスの受け止め方をされるのではないかということ、法的には「守秘義務違反」を問われるのではないかということ、の2点が影響していたものと思います。科学的アプローチを試みるのであれば、そうした危惧は除去されることも本書は示唆していると考えられます。こういうことを言えばお叱りを受けるかもしれませんが、神戸市という組織は職員の行政実態の研究に寛容なのでしょう。
私が本書で最も興味を惹いた箇所は「第2部第2章公営住宅管理のエスノグラフィー」の論述です。市営住宅の管理担当課というのは、神戸市役所に限らず、どこの市役所でも職員が配置先として最も嫌う職場の一つのようです。神戸市役所では住宅管理の担当は3年間が「任期」という不文律、暗黙裡が存在したようで、これが職員の意識にも悪影響を及ぼしていたようです。
神戸市の市営住宅管理担当課においても、現場で発生した様々な問題について、長期間に渡って「先送り」を継続してきたものの、これではいけないという意識改革が生じ、ケースごとに解決に向けて行動したことについて詳細に論じられています。そして、こうした取り組みを市の公式記録として残しておくことによって、人事異動によって職員の入れ替わりがあってもスムーズに事務引継ぎができること、それゆえ組織としての取り組みに間断が生じないことを実証しています。記録の重要性を強調しているわけです。
一読すれば分かりますが、博士論文とは言うものの、奇をてらった内容のものではありません。専門の研究者たちがいかにしてもアプローチできなかった行政現場の真の実態について、20数年間に渡る自治体職員としての経験をベースにして、実証したものなのです。自治体職員が社会人大学院で研究する場合、多くの人が実証研究に取り組んでいると思いますが、研究方法においてオリジナリティを有している内容のものが無かったと思います。明石氏の研究は、その点が光っており、大学においても評価されたのだと思います。
本書は、自治体職員が政策研究論文や学位論文にチャレンジする場合の、一つの指標になると思います。一読してみてはどうでしょうか。
(03.01.05記)
<2002年版>
松下圭一・西尾勝・新藤宗幸 編 「自治体の構想5 自治」 (岩波書店)自治体の構想5は、自治をテーマに、市民文化、市民活動をはじめ、自治体選挙の構造など12本の論文、そして最後に編者らによる政治家としての首長、議員に関する討論が掲載されています。
「意外なことに」などと言うと執筆者の方々には大変失礼になりますが、第5巻が私個人としては最も興味深く読むことができたというのが率直な感想です。かなり「強烈」な論文が多いということです。強烈だと感じるということは、私自身の問題意識(潜在的なものもあれば顕在的なものもあります)と一致していたり、あるいは近似していたり、理解不足な問題について新たな理解が得られたということです。特に印象に残った論文について紹介しておくことにしましょう。
まず、松下圭一・法政大学名誉教授の「市民文化の可能性と自治」では、国家統治から出発する限り「公共文化」としての市民文化は育たず、「私文化」にとどまると主張され、さらに、都市型社会においては「自由・平等」ついで「自治・共和」という市民文化の政治文脈を成熟させながら、さらに文化形態を地域個性文化、国民文化、世界共通文化の三分化していくことなどが論じられています。そして、市民政治、市民文化は、つねに未完の可能性にとどまるとしながらも、日本の自治・分権、ついで分権化・国際化は「政策・制度」レベルはもちろん、「文化・理論」としても不可欠・不可避であると結論づけられています。松下先生の論文はいつもながら格調高いです。
また、龍谷大学の田中宏教授の「外国籍住民と自治体参加」は、外国籍住民に関する諸論点のうち、今ひとつ理解できていなかった第2次世界大戦終了間際から終戦直後の対応策について明快に解説されていること、そして「住民」概念の確立について論じられていることに、私個人の理解が決して誤りではなかったことに気づかされました。
山梨学院大学の江口清三郎教授の「自治体の補助金再考」、ジャーナリストの小川明雄氏の「自治体公共事業の破綻と再構築」、龍谷大学の富野暉一郎教授の「開発と景観保全」の3本の論文は、とりわけ従来の自治体政策を反省し、今後の展望を考察するには重要な内容を含んでいると思われ、いずれも旧来型の自治体政策を手厳しく批判されており、かなり強烈な論文です。
そして、最後の論文である毎日新聞社の椎橋勝信氏による「自治体選挙の構造」は、首長選挙において各党相乗り候補による集票型選挙が勝利の方程式から敗北の条件に変化していることを政党がいまだに気づいていないことなどを指摘し、自治体選挙の諸論点について明快に論じておられます。政府が構造改革の推進に躊躇している間に、市民が投票行動によってそれを促進しているような構造にさえ思われてしまいます。
第5巻の最後には松下圭一・西尾勝・新藤宗幸の3氏による討論が掲載されています。政治家としての首長・議員というテーマではありますが、地方分権時代の自治立法、法務職員の養成、自治体法務、自治体財務など職員が関心を持つべき重要な論点について、私の問題意識とも重複する発言も少なからずあり、意を強くしたところです。三人三様の貴重なサジェスチョンが多数示されています。この討論を読むだけでも十分な価値があるのはないかとさえ思いました。(02.12.23記)
中野次雄 編 「判例とその読み方(改訂版)」(有斐閣)なぜか衝動買いしてしまい、予定を変更して優先的に読み終えました。かなり前に読んだ記憶がかすかに残っているなぁと思ったら、初版が1986年(昭和61年)8月に出版されているので、学生時代に大学の図書館で読んだのだろうと思います。買った記憶が全くありませんから。
判例に関する珍しい書籍です。5人の執筆者は全員裁判官で、しかも全員が最高裁判所調査官経験者だとのことですから、エリート裁判官ばかりですよね。編者の中野氏は平成11年にご逝去されているので、改訂版は他の4人の筆になるものです。
このHPでも判例研究らしきものに取り組んではいますが、現実に判例という概念そのものについて考察することはありませんでした。私も恥ずかしながら明確に判例の定義をすることはできませんでした。判例とは、何らかの争訟事件が裁判所に持ち込まれ、それに対して裁判所が判決において示した法的な判断であり、先例としての拘束力を持つものだくらいには思っていましたけど。多分、こうした理解で大きな誤りは無いとは思いますが、本書で議論の核としているのは、判例として意味をもつのは、その判断のうちどの部分が意味あるものなのかということです。
平均的な自治体職員が職務の必要から判例を読む機会など滅多にありません。新聞で裁判の記事が大きく扱われていても全てを精読する人は少数派でしょう。それゆえ、本書もどちらかと言えば法学部学生や法曹実務家向けに執筆されたもののようです。内容的にはかなりハイレベルですし、論理的な文章が多く、読了までに意外と時間を要しました。と言うか、紹介されている判例の中に私自身完全に内容を忘れ去っているものが多数あったのが原因ですけど。知識が消滅してしまっているわけです。もし、興味があれば、前半部分だけでも読まれてはどうでしょうか。(02.12.15記)
地方自治職員研修臨時増刊号 「自治基本条例・参加条例の考え方・作り方」(公職研)地方分権実施後、急速に制定の動きが活発になっている自治基本条例、市民参加条例に関する論文集です。自治基本条例については、現在のところ定まった定義は存在しないようですが、概ね、地方分権時代を迎えて、自治体の地域づくり、まちづくりを進める上での基本理念を明文化し、具体的な進め方もルール化しようとするものだと言えるのではないでしょうか。今までの常識的な理解であれば、基本条例という名称の場合、宣言的条例であって具体的な内容を持つものではないものでしたが、自治基本条例については、制定のあり方によればこうした常識は覆されることになると思います。
ところで、実際に制定されている条例を見ると、自治基本条例という名称を採用している自治体は無く、「まちづくり基本条例」という名称が目立ちます。自治基本条例について先駆的な取組みをしたのは、北海道のニセコ町です。ニセコ町は平成13年12月27日に「ニセコ町まちづくり基本条例」を制定し、平成14年4月1日から施行しています。また、兵庫県では宝塚市と生野町がまちづくり基本条例を制定し、それぞれ平成14年4月1日、同年6月1日から施行しています。
こうした自治基本条例について、松下圭一・法政大学名誉教授を筆頭に研究者、自治体職員によって様々な角度から論じられており、自治基本条例に対して全く無関心だった自治体職員も関心を喚起させられることになると思います。
多数の論文で、特に印象に残ったのは、やはり木佐茂男教授(九州大学)の「自治基本条例の論点と到達点」という論文です。自称・木佐説シンパの私としては、自治基本条例について、市町村合併や権利救済の構想、内部告発権、そして情報管理にまで及ぼして論じられていることに無関心ではいられませんでした。仮にこうした内容を自治基本条例に盛り込むことができれば、自治体の法化はさらに進化すると思います。
また、横須賀市・出石稔氏の「横須賀市市民パブリック・コメント手続条例」という論文は、地方分権実施後、常に先進的な取組みをしている横須賀市におけるパブリック・コメント条例の制定過程や今後の課題などに論及されており、現在、パブリック・コメント条例制定が政策課題としてようやく俎上に上ってきたわが市にとって、有意義な論文だと思われます。(02.12.01記)
松下圭一・西尾勝・新藤宗幸 編 「自治体の構想4 機構」 (岩波書店)自治体の構想4は、機構をテーマに12本の論文が収録されています。特に印象に残った論文を紹介しておくことにします。
最初の論文である辻山幸宣教授(中央大学)の「自治基本条例の構想」は、先進的な自治体において名称は様々ではあるが、内容的に自治基本条例と呼ぶことができる条例制定の動きが活発になっていることを紹介しつつ、その法的性格、内容、正統性などについて論じられています。
地方分権時代において、自治の主役は住民であることを自治体の自治立法である条例によって明確に規定することは、意義のあることではあると思います。
しかし、「基本条例の構成モデル」から気になる点もあります。他の法令と重複する内容が少なからず存在していること、自治基本条例を自治体における最高条例として頂点に置こうとしていること、改正には過半数議決ではなく、特別多数議決を要件としていることなどです。立法過程において、わざわざそのような条例を定めることにどれほどの具体的法規範性を持たせることができるのか、地方自治法など関連法令に違反しないのかどうかという点は必ず問題になると思います。
また、東京都荒川区役所職員の中村順氏の「IT革命と意思決定」は興味深い内容でした。中村氏の問題意識は、従来の自治体における意思決定は曖昧なものであり、意思決定過程にITを導入することで、その曖昧さは改善され、公正性・透明性が高められなければならない、という点です。しかし、それ以前の問題として、自治体職員のITに対するレベルの低さの指摘は強烈です。例えば「これからの2,3年が一大変革期であるという認識は、自治体の現場では、そこはかとない不安となって現れている。それがPCの操作が難しそうだというレベルの不安にとどまっていることが私には不安である」との指摘には思わずうなずいてしまいました。そして、IT導入によって行政過程において「対等性・透明性・還元性」が実現されなければならないという主張には感銘を受けましたが、実現までにはまだまだ道遠しという感想を持たざるを得ませんでした。
この他、小幡純子教授(上智大学)の「住民訴訟と職員責任」は、改正された住民監査請求・住民訴訟制度について、簡潔、明快に解説がなされていました。小幡教授は住民訴訟制度の改正には肯定的立場のようです。(02.11.24記)
山口 浩一郎・小島 晴洋 著 「高齢者法」(有斐閣)今年4月から介護保険課で仕事をしているものの、社会保障法制に関する本格的な体系書や理論書は全く読んだことがなく、一体何から手をつければ良いのか思案していました。そんな折、10月にこの著書が刊行されたのを法律雑誌の広告欄で見て、「とりあえず新しいから買おう」ということで購入し、チマチマ読み進めて、ようやく読了しました。
一応念のために言えば、「高齢者法」という名称の法律が存在しているのではありません。社会保障法とか行政法という名称の法律が存在していないのと同じことです。つまり、これらは学問上の用語になるわけですね。そして、本書は法律の性格に余り拘泥せず、高齢者に関する法制度について広く解説しているものです。高齢者法というのは描写はできても定義づけは出来ないとも書いています。実際、そのとおりでしょう。
さて、高齢者に関する法制度と言えば、年金や各種保険制度を思い浮かべてしまいます。確かに高齢者に関する法制度として重要であることに違いはありません。しかし、実際にはもっと幅広いものです。雇用、財産管理、住宅、交通、福祉機器、ボランティアなどなど多数の諸制度で構成されており、様々な法の理解を必要とします。本書は、こうした高齢者に関する各種法制度に関する体系的理論書として、貴重な存在だと思います。
ただ、やっぱりと言うか、本書が最も重点を置いて詳細に解説しているのは、健康・介護・福祉に関する法制度です(第3章)。本文323頁中175頁をこれに充てています。老人福祉制度、介護保険制度、老人保健制度そして医療保険制度をベースにして、公的給付利用の法律関係や権利保護、公的給付の法的構造などについて詳細に論じられています。特に介護保険制度については、実務的な書籍は多数ありますが、法理論的な文献を入手していなかった者としては目から鱗の思いで読み通しました。介護保険法制の諸論点が明確に論じられており、実務上も参考になると思いました。
本書を通読して「高齢者法」というものに対して最も感じたことは、次の点です。つまり、各種行政法規によって公的保険制度や年金制度が整備されており、その法理論や法解釈は行政法理論に基づいたものに拠っていること。と、同時に、法の適用対象である個々の高齢者にとって重要となるのは、私法である民法、契約法であるという点です。例えば、従来の措置制度ではなく、契約制度を基盤とする介護保険法は勿論のことですが、それ以外にも雇用や住宅、交通移動、そして財産管理という面においても、民法や消費者契約法など契約関係法の基礎知識・理解が必要不可欠であるということです。つまり、高齢者法は民法と行政法の混合法であるということです。
こうした独特の性格を有する高齢者法は社会保障法から派生したものなのでしょうか。おそらく、社会保障法と必ずしも体系や内容が全て重複しているわけではなく、独自性を有しているものだと思います。しかし、それなら高齢者法と社会保障法との関係をどのように考えるべきなのかということも考察の対象になると思います。(02.11.18記)
西川 伸一 著 「立法の中枢 知られざる官庁 新内閣法制局」(五月書房)著者は明治大学政治経済学部助教授で、政治学者です。実は本書の初版が2000年3月に出版された際、当時もすぐに購入して、読んでいました。今回、新版が出版されたことを知り、早速購入し、読了しました。
私自身、「立法過程論」については以前から関心が強く、多数の文献が出版されている中で、これまでにもその中の主要なものを何冊か購入し、読んでいました。しかし、いずれも理論的な側面からの研究を追及する余り、立法の実態、特に立法に携わる「公務員の姿」について詳しく触れられているものはほとんど無かったように思います。本書は、内閣法制局という一般には余り知られていない役所の仕事を中心に、相当詳細に立法過程の実態を描写したものとして大変興味深く、読みごたえがあります。
中央省庁のキャリア官僚がいくら知恵を絞って先進的な政策立案をしたところで、それを法律にしない以上実現は絶対に不可能です。そして、政策を法律にするに当たって最大の障壁として、全ての省庁の役人から恐れおののかれている役所が内閣法制局だということです。国会における内閣提出法案は、全て内閣法制局の「審査」を通過する必要があります。この審査を通過した法案のみが「法律として問題なし」という「お墨付き」を与えられたものとなり、国会での審議にも十二分に耐えうるものとして認められるわけです。
内閣法制局ではどのようにして「審査」がなされているのか、その具体例として2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロに対する支援策として制定・施行された「テロ対策特別措置法」(正式名称は、「平成13年9月11日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」)の法案審査の実態が紹介されています。内閣法制局では、この法案の「予備審査」(正式な決裁文書として稟議する前の段階での審査)において、法案名称だけでも二転三転していること、憲法9条との問題がある非常に難しい法案であるにもかかわらず、予備審査から成案までわずか8日間で仕上げていることなどが紹介されてます。これは、著者の西川助教授ご自身が情報公開法によって内閣法制局から入手した予備審査関係文書をそのまま本書の中で掲載することによって、知ることができたわけです。実に生々しい立法過程の実態が伝わってきます。このような文献は他には見当たらないでしょう。
内閣法制局は職員がわずか77名しか在籍していない小さな役所であるにもかかわらず、自他共に認める法律のエキスパート集団として、内閣を法制面からサポートする強力な組織となっています。官僚の中の官僚とされている旧・大蔵省(財務省)主計官でさえ、「慣れない」頭を下げて法案審査のお伺いに来るそうです。さて、自治体の政策法務、特に自治立法論に関するこれまでの議論の中で、自治体内部における立法過程の実態を詳しく論じているものがどれほど存在したでしょうか。そうした実態は考慮するに値しないという考え方に立脚するのであれば、それも一つの立論ではあると思います。しかし、実態を十二分にわきまえた上で理論化を図ることのほうが、より一層精緻化された厚みのあるものになると考えられないでしょうか。ごく単純に考えるとそのようなことにつながってしまうわけです。政策法務論が元々は自治体の現場からの問題提起を発端にしたものである以上、こうした問題を回避することは出来ないと考えています。(02.10.14記)
宇賀 克也 著 「政策評価の法制度 政策評価法・条例の解説」(有斐閣)「行政機関が行う政策の評価に関する法律」、つまり政策評価法は2002年4月1日から施行されています。これは、橋本内閣時代の行政改革会議最終報告(97年12月3日)において導入が提言されたことが発端になります。行政改革の一環として成立した「中央省庁等改革基本法」においても政策評価制度の導入が規定され、その後、精力的に検討がなされた結果、政策評価法制が国政レベルにおいて導入されたわけです。
政策評価については、この数年、活発に議論がなされ、様々な文献が出版されているようです。しかし、いずれも評価手法などについて重点を置いたものが目立ち、法的な側面からの文献はほとんど無かったように思います。本書は、政策評価に関する法的な側面からの数少ない解説書ということになります。
本書の前半は、国政レベルの政策評価法について解説されています。施行されたばかりということこともあり、法解釈論としてそれほど大きな問題になるような論点は、少なくとも現在のところは見当たらないという印象です。比較的、淡々と解説がなされていると思います。また、政策・計画等の環境影響評価、すなわち戦略的環境アセスメントについての解説もなされています。まだ導入が普及していない問題について、政策・計画の環境影響評価の特徴について言及されています。
本書の後半部分は地方公共団体における政策評価制度についての解説です。
地方公共団体で政策評価制度を条例制定により最も早く法制化したのが宮城県になります。2001年12月25日に条例が制定され、2002年4月1日から施行されています。その後、2002年3月に北海道と秋田県においても政策評価制度が条例化され、いずれも2002年4月1日から施行されています。
政策評価制度に最も早い段階から積極的に取り組んできた地方公共団体は宮城県です。宮城県は98年に行政改革推進計画を策定し、その中の一つである事務事業システム改革のために政策評価・執行評価・大規模事業評価・事業箇所評価・事務事業総点検の5つの個別評価から構成される「行政評価システム」の構築が決定され、各評価制度が段階的に導入されてきたとのことです。浅野知事の強力なリーダーシップの下で、職員の皆さんが積極的に改革に取り組んでおられるようです。本書では、宮城県の「行政活動の評価に関する条例」についての解説もなされています。
地方公共団体における政策評価制度の導入については、大規模な団体は比較的導入に積極的なようですが、小規模団体はそうではなさそうです。評価制度に従事するための人材に難渋するということも理由でしょうし、小規模団体であれば常時、住民の監視を受けているので必ずしも必要不可欠ではないという判断も存在するようです。
ところで、私が勤務する市でも、2年前に「事務事業評価システム」が試行され、昨年度から本格化されています。導入に際して、全ての職員が研修の受講を義務付けられ、私も受講した記憶があります。わが市で導入された事務事業評価システムは、個々の事務や事業についてコストを算出することにより、決算時において公会計の欠陥を補うことを目的にしています。ただ、現在のところ、さらにこれを発展・拡大しようとしているのかどうかについては、私自身は知りません。と言うよりも、わが市で導入された事務事業評価システムについて、まともに理解している職員が幹部・管理職も含めた全ての市職員の中でどれほども存在するのか疑わしく思っています。研修を受講していたとき、かなりの職員が居眠りしていたこと、現実に事務事業評価システムに従事しているのは各課の予算担当者だけというのが実態ですから。こうした制度を導入するに際して、職員に周知徹底を図るために研修の受講を義務付けるのは一つの方法でしょうが、その職務内容に関係なく一斉に受講させても、現実に効果は薄いとしか思えません。職員の意識改革を図るためだったようですが、人間の思考回路を一晩で180度転換することなど到底無理な話でしょう。(02.10.14記)
山口 道昭 著 「政策法務入門」(信山社)著者は2002年4月から立正大学法学部教授に転身されました。それまで24年間、川崎市職員として勤務のかたわら、政策法務研究に精力的に取り組まれてこられた、政策法務の第一人者です。
政策法務に関する文献は、現在までに相当数出版されていますが、初めて政策法務を勉強する人にとっては難解なものも少なくなかったと思います。そんな時に、山口教授が入門書として執筆されたのが本書です。
本書は、政策法務の意義と内容、分権時代の政策法務、分権時代の条例づくり等、全9章で構成されており、本論110ページほどのコンパクトなテキストです。「政策法務には興味があるけど、いきなり分厚い専門書を読むには躊躇するし、時間も無い」という人にとっては、有難いものになると思います。かく言う私自身、政策法務の重要性がこれだけ叫ばれているにも関わらず、体系的な入門テキストが出版されていないことに対しては不満を持っていましたから。ようやく不満解消というところです。このホームページを御覧になっている方で、まだ政策法務の勉強に未着手の人は、このテキストから始められると良いと思います。
政策法務論の中心は、今までのところ、自治立法論が中心です。分権時代において、自治体の有する権能の中でも、最も重要な自治立法権をいかにして活用し、地域の政策課題に対応するかという問題の重要性はいささかも軽視するつもりはありません。そして、本書においても、最近になって議論が活発になっている自治基本条例やパブリックコメント条例について論じられており、全体の約半分が条例関係の内容で占められています。
しかし、こうした自治立法論に加えて、既存の法律や条例の自治解釈による法的問題の解決ニーズはかなり高いと思っていますし、地域住民との間で対立が生じた場合の円満な合意に向けた交渉法務とでも言える問題も極めて重要であると考えています。こうした問題について、政策法務論において今後、議論が活発になってほしいと考えています。(02.09.16記)
田中 孝男 著 「条例づくりへの挑戦 ベンチマーキング手法を活用して」(信山社)著者の田中氏は現役の札幌市役所職員であり、政策法務研究の旗手のお一人です。2000年4月から地方分権一括法が施行され、自治体における政策法務が重要視されるようになり、先進的な自治体は積極的に取り組んでいることは、皆さんもご存知のとおりです。しかし、一方で、政策法務に消極的あるいは無関心(又は無知?)な自治体も存在するようです。現に、私が勤務する自治体でも政策法務というものを組織として取り組む姿勢は明示していないようです。本書はこのような後発自治体が政策法務を実践するための手法として、条例のベンチマーキングという考え方を紹介するものです。
田中氏は行財政改革の計画にさえ政策法務が盛り込まれていない自治体が、先駆自治体に水をあけられないように法務能力を高めていくためには、先駆自治体以上に戦略的な法務を進めていかなければならないと主張され、これを「政策法務の総合的展開戦略」と呼称されています。そして、後発自治体の条例づくりについて言えば、先駆自治体の先行例を目標としつつ、果敢にこれを上回る内容の条例をつくることが必要になるとされ、「政策法務のチャレンジャー精神」とされています。
さて、田中氏は条例のベンチマーキングの定義について、「他の自治体の最も優れた条例などのシステムを、自己の自治体の現状と継続的に比較分析して、自己の条例の制度設計・運用に活かすこと」とされています。勘違いしてはいけないのは、条例立案を検討する際に他都市の類似条例を調査して、<モノマネ立法>をすることではないということです。モノマネ立法の場合、同規模自治体やより大規模な自治体の先行事例を網羅的に調査し、いいとこどりばかりのツギハギ条例になってしまい、自己の自治体が本当に実現したい政策とは無関係な条項が入ってしまうということにもなりかねません。ベンチマーキングの定義中「最も優れた」とは自己の自治体の立法ニーズにより良く適合したという意味であると田中氏も明言されています。
本書は条例のベンチマーキング総論などに続いて、パブリックコメント条例と公益法人等職員派遣条例の2つの条例立案をベンチマーキング手法により具体的に論じられています。特にパブリックコメント条例については未制定の自治体が多いと思います。私の勤務する自治体も最近になってようやく平成15年度以後の導入が確認されたところのようです。しかし、条例なのか要綱なのかについてはハッキリしていません。そうなると特にパブリックコメント制度導入が政策課題となっているならば、立法政策内容を検討する必要があり、本書は有益な資料となると思います。
公益法人等職員派遣条例を具体例として取り上げられたのは、田中氏ご本人が現在、公益法人で勤務されていることから採用されたのでしょうか。詳細に論じられており、現行の条例について批判的な見解も随所に示されています。
本書は100ページほどのコンパクトなテキストであり、読了までにそれほど時間を要しません。条例立案について未経験の人や今後条例立案に従事する職員には必読書であり、実務にも十分役立つと思います。(02.09.01記)
菊田 幸一 著 「日本の刑務所」 (岩波新書)著者は明治大学法学部教授で、犯罪学者です。そして、死刑廃止論者でもあります。
犯罪を犯し、裁判で有罪判決が確定すれば、刑務所に収容されるというのは、子供でも知っています。しかし、刑務所に入ってから、一体どのような生活を送ることになるのかということについては、時々、テレビの特番などで見るくらいで、その具体像はほとんど知られていないようです。本書は、刑務所の中の生活、特に受刑者の基本的人権がいかに蹂躙されているかという問題について、詳細に検証しています。菊田教授によると、刑務所(法律用語としては「監獄」が正しい)は全国で59箇所あり、1日平均47,684人が既決囚として収容されているそうです。そして、男子受刑者の約53%が窃盗と覚せい剤事犯となっています。しかも累犯者、つまり懲役刑で刑務所に入っていたが、出所後5年以内にさらに犯罪を犯して有期懲役に処せられた者は、男子受刑者の52.5%もいるそうです。累犯者は同じ罪を犯しても初犯者よりも刑期が2倍になってしまいます。つまり、刑務所は初犯者よりも累犯者が多いということになります。さらに、受刑者の1割近くが60歳以上の高齢者であるということも特色の一つとして指摘されています。刑務所の中では、まず何と言っても刑務官の命令に従うことが徹底されています。食事を取るにも、排便をするにも、作業をするにも、何もかもが全て規律でがんじがらめに縛られているわけです。そして、命令に背くようなことをすれば、即座に懲罰がなされるということです。刑務作業中に刑務官が作業室に入ってきた際、服役囚が刑務官の顔を見ただけで、作業中に禁止されている脇見をしたという理由で、10日間の軽屏禁(けいへいきん)という懲罰を受けるというのが、その一例。軽屏禁というのは、受刑者に対する懲罰として最も多く利用されている懲罰で、罰室であることを明示した独居房に収容し、昼夜謹慎させるというものです。起床から夜9時まで1日中正座、手は膝の上に乗せ、顔は入り口に向け目を開けて真っ直ぐに座っていなければならないというもの。京都刑務所では、これをちょっとでもやめると新たな懲罰対象になるとのこと。例えば、軽屏禁の間、両手を伸ばしただけで新たな懲罰対象になってしまうそうです。本当かなと疑わしくなるくらい、恐ろしい刑務所内の実態が明らかになっています。
また、食事についても問題点を指摘されています。まず、1回あたりの食事時間が実質5分から7分であること。いまだに主食には3割の麦が入っているようです。大昔ならいざ知らず、現在は麦は輸入がほとんどで、米だけの主食よりもかえってコスト高であるはずなのに、何故か麦飯を食べさせられるわけです。しかも副食(おかず)も質素そのもののようです。時々テレビの特番で刑務所の食事場面が撮影されていますが、あれって撮影用に特別なご馳走を作っていたのでしょうか?イメージと大きく違っています。
刑罰は応報刑(犯罪への報復措置)という意味だけではなく、矯正教育という意味も含まれているというのはタテマエであって、実際には刑務所の中では、受刑者の社会復帰に障害になると思われる様々な「仕打ち」が待っているようです。刑務所の重要な役割が受刑者の社会復帰を促すものである以上、これは深刻です。刑務所の中で、受刑者に対する拷問とも思えるような懲罰が頻繁になされていることは、確かに人権保障という観点から問題であるとは思います。ただ、強盗殺人などの凶悪犯罪を犯して服役している受刑者と比較的軽微な犯罪の受刑者との間でも、全く同じような扱いをしているのかどうかは、本書からでは分かりませんでした。また、刑務所の中の、もう一方の「主役」でもある刑務官たちが一体どのような人権感覚を有しているのか、菊田教授の指摘が正しいことを前提とした場合、こうした人権蹂躙行為を日常的に行っている職業に、一体どのような人たちが就いているのだろうか?、一体刑務所の仕事にどういう魅力があるのだろうか?、という点にまで関心を抱きました。
宇都宮 健児 著 「消費者金融 実態と救済」 (岩波新書)著者は東京弁護士会所属の弁護士で、消費者金融から借金を繰り返した「多重債務者」の救済などに大活躍されています。この著書が朝日新聞の天声人語で引用されていたこともあり、早速購入し、一挙に読了しました。
消費者金融と言うのは、ご存知だと思いますが、サラリーマン金融、商工ローンなどの貸金業法上の金融会社全般のことを言います。そして、そうした金融機関から借金をして返済できなくなり、その返済をするために別のサラ金に手を出してさらに借金を抱えこんでしまう人たちのことを「多重債務者」と言います。この多重債務者に陥ると自力で借金を返済することは、100%不可能だと思って間違いないでしょう。多重債務者の中には数十社からの借入れをしていた人も少なからずいるようです。
サラ金が社会問題化したのは1980年代初めです。高金利・過剰融資・苛酷な取立ての「サラ金三悪」が問題になったため、業界のイメージ一新を図って「消費者金融」という表現にしたのです。しかし、実態は20年経った今も全く変わらないようです。最も有名な事件が「日栄」事件ですよね。1999年に商工ローン会社である「日栄」の取立人が保証人に対して「腎臓売れ!肝臓売れ!目ん玉売れ!」と脅迫的取立てをしているのが発覚し、大きな社会問題になり消費者金融に対する国民の意識が高まったことは記憶に新しいところです。あのような脅迫的取立ては今でも平然と行われていると考えてよさそうです。多重債務者に陥るのは月収が20万円以下の低所得者で、全体の8割近くを占めているようですが、中には大企業の部長職の人が多重債務者になっている例もあります。市役所の職員にもこうした多重債務者になって苦しんでいる人がいるかもしれません。もしそういう事態になれば、速やかに弁護士に相談し、法的手続きを行うべきでしょう。ところが東京三弁護士会所属の弁護士には、こうした消費者金融業者と手を結んで多重債務者をさらに苦しめるような悪徳弁護士(提携弁護士と言います)も相当数存在しているようです。摘発された弁護士の中には元・東京高検検事という人もいたそうです。借りたことがある人なら知っているでしょうが、消費者金融の貸出利率は25%から29.2%です。銀行の預金利息が0.02%とかいう時代に、その1500倍近い異常な高金利です。そして29.2%という貸出利率は利息制限法に違反しています。それでも摘発されないのは利息制限法には罰則が無く、「出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律」(出資法)による金利規制では年29.2%となっており、これを超えると3年以下の懲役又は300万円以下の罰金などの罰則があるから、出資法の上限金利は守っているのです。要するに罰則が無いから守らなくてよいという発想なんですね。
もう一つ注意喚起も兼ねて書いておきますが、こうした消費者金融業者の多くは貸金業法上の登録は行っています。登録業者だから安心だろうという気持ちを消費者に持たせるためです。そして、中には「さくら共済」、「全国労働福祉振興会」、「生活センター」、「日本クレサラ相談センター」などなど、一見して公的な団体であるかのような錯覚を起こさせる名称を使用している悪質業者もあり、総務省に政治団体として届出たり、特定非営利活動法人(NPO)の認証を取得している業者も存在しているそうです。多重債務者の状態から脱出するための法的手続きなども詳しく書いてます。新書ですので、時間もそれほどかからずに読めると思います。一寸先に何があるか分からない時代です。是非、一読をお勧めします。
松下圭一・西尾勝・新藤宗幸 編 「自治体の構想3 政策」 (岩波書店)1巻から3巻までのうちで、最も内容が濃密なものがこれになると思います。第3巻は、いますぐに取り組むべき政策転換をテーマにしています。
計画、財政再建、法務、財務、政策評価など、自治体が抱える最重要テーマについての論文が収録されています。特に天野巡一教授(岩手県立大学、元・武蔵野市部長)の「自治体法務の手法開発」という論文は、自治体の政策法務の草分けである著者の、現時点における到達点を示す論文だといえるでしょう。「すばらしい」のひと言に尽きると思います。
松下圭一・西尾勝・新藤宗幸 編 「自治体の構想2 制度」 (岩波書店)「自治体の構想2 制度」は、政府としての自治体の制度改革を構想するという主題から12本の論文を収録しています。私個人の感想としては、テーマとして大いに興味を抱いたものと、全く無関心なものとに大別されてしまいました。これは多分に私の経験から「こういうことは無関係である」と感じたからだと思います。例えば、「自治体の国政参加」という問題などは、いくら地方分権改革が実現したからといっても飛躍しすぎではという印象です。一方で、「司法型の政府間調整」、「自治事務・法定受託事務」、「自治立法の可能性」などは興味深く感じました。
いずれの論文も素晴らしいとは思うのですが、もう少し掘り下げたものがあれば良かったように思います。こうした講座モノにありがちな現象ですが、執筆者によって掘り下げ方にかなりの差があるように思います。
松下圭一・西尾勝・新藤宗幸 編 「自治体の構想1 課題」 (岩波書店)岩波書店から地方自治に関する講座が刊行され、久しぶりに講座モノを購入しました。私はこういう講座書籍を買うことはしないのです。大抵は読まずに終わってしまうので・・・ですが、たまにはいいかと思い買いました。「自治体の構想」は全5巻で構成されており、これはその第1巻です。
第1巻は日本の自治体が直面している戦略的な課題をテーマに、12本の論文が収録されています。いずれも地方自治に造詣の深い研究者が執筆しているため、テーマとしてイマイチ興味が持てないものでも、結構面白く、読みごたえがあったと思います。この中で特に印象深く残っているのが木佐茂男教授(九州大学)の「地方自治基本法」という論文です。その中で木佐教授は「自治体規模の大小は、職員の能力の違いや不祥事・汚職の発生頻度と相関関係をもっていない」と主張され、さらに「人口減少地域が、匿名性を許さぬ非民主的社会であり続ける限りにおいて、人は戻ってこない」とされています。
木佐教授の指摘をわが市にあてはめることは十分可能であると思いました。自治体の体質として「非民主的社会」であることは致命的な欠陥でしょうね。要するにプライバシーが守られない、表現の自由が抑圧されるという地域特性は高齢者には受け入れられても若年者には拒否されてしまうということです。若い人を中心に人口減少が続いている本当の原因を市政としてもっと真剣に考えなければならないと思います。また、西尾勝教授(国際基督教大学・東京大学名誉教授)の「分権改革の到達点と課題」という論文も興味深く感じました。地方分権実施後は機関委任事務が廃止され、多くの事務が自治事務になったことにより、地方公共団体は国からの通達等に拘束されなくなりました。西尾教授は、その最大の効果は、「法令解釈権の拡大」にあると強調しています。地方分権実施後はやたらと条例制定権などの自治立法権を行使する余地の拡大が強調されていますが、西尾教授の指摘は正論だと思います。そして法令解釈権の拡大こそ自治体職員の実務にも大きく影響を及ぼしていると思います。
西尾教授の論文は第一次地方分権改革のプロセスを簡潔に論じられていますが、地方分権推進委員会は憲法や行政法、地方自治に関する日本の代表的な学者が取り組んでいたことを思うと、いかに国の官僚の抵抗が凄まじかったかを窺知できるのではないでしょうか。
阿部 昌樹 著 「ローカルな法秩序 法と交錯する共同性」(勁草書房)著者は大阪市立大学法学部教授で、法社会学者です。法社会学という分野は法学の中でも特に地味な分野ですが、阿部教授はその中でも地方自治や住民運動に関する研究業績が優れており、私たち地方公務員にとっては示唆に富むものが多いと思います。
本書の視点は、30年以上前に、当時、民法と法社会学の先達であった川島武宜博士の”予言”をどのように評価するかということにあります。川島博士の予言とは、その名著「日本人の法意識」で述べられたことに基づいています。すなわち、川島博士は「人々は、より強く権利を意識し、これを主張するようになる。そしてその手段として、より頻繁に訴訟=裁判という制度を利用するようになるであろう。人々は個人関係だけではなく、個人と政府との関係も法という規準にしたがって判断される明確且つ固定的な関係として意識するようになるだろう」という趣旨の”予言”をしていたのです。
川島博士の予言から30年以上経った現在、全国各地で政府や自治体が行おうとしている公共事業などに対して住民運動が展開されていること、自分たちの考えを実現するために訴訟という手段を選択することも多いことから、一見、川島博士の予言は見事的中しているように思えます。
しかし、阿部教授は川島博士の想定していたことと、現在の住民運動を展開している市民の意識とは大きな乖離があると指摘されています。まず、川島博士は裁判の利用が活性化するのは、法を超越的権威とみなすがゆえに、法規範を遵守するとともに、他者の違法行為には果敢に闘争に挑むという”法への超越的指向”が普遍化することによってであると考えていました。一方、現在、住民運動の担い手たちの法への指向は「今ここで直面している問題の解決のために法が道具として有効である限りにおいて、ただそのことのゆえに法を利用する」という、法の道具的指向があるからだと言うのです。つまり、阿部教授は結果は同じでも指向が異なるということを示しています。
本書は、市民の「法の道具的指向」という視点から、京都市内の各地域で発生した紛争事例を丹念に検証するとともに、法社会学に関する諸外国の学説と照らし合わせ、実際の紛争が理論とどの程度整合性を持っているかを示したものです。諸外国の研究業績、理論を詳細に紹介した後に、具体的事例を検証して、理論の実証を行うというパターンは阿部教授の特徴的な研究手法のようです。
具体的な地域紛争の最初の事例としては、問題発生が今から25年前にもなる京都市の空き缶条例の制定と施行過程が、J.ウィルソンが理論化した「起業家政治」のパターンに類似したものであることを実証しています。この論文は、阿部教授の修士論文ですが、地方自治体における地域紛争に関する研究として、常に住民運動のリスクに直面する可能性の高い市職員にとっては示唆に富むものであると思われます。
また、京都市左京区東山堤町におけるマンション建設紛争について、行政機関の規制上の決定を私人間の紛争を行政との紛争へと変容させる紛争変容装置として捉える分析枠組みを提示して、検討をされています。
阿部教授はここでいう法秩序とは「ある内容の法がテクストとして存在し、それが社会成員によって動員されたり、あるいは動員されなかったりする、そしてまた法の動員がなされた場合には、そのことを契機として、裁判所その他の法制度の作動を含む複雑な社会的作用が繰り広げられる、それらのことの結果として実現される秩序である」と定義されています。
少し難しいですが、法を道具としてどのように使うかによって、同じような紛争事例(例えば、ワンルームマンションの建設反対運動)でも結論が変ってしまうことになるということです。そうしたものが出来ても、別に構わないと地域住民の圧倒的多数が考えてしまい、特に何も行動を起こさなければ何の変化も生じないということでしょう。住民運動をする場合の道具として法を動員し、その中で知恵を絞り、妥協を生み出すことで、自分たちの要求を実現するように進めていくのです。
これらの事例を通して感じたのは、住民運動は法の制約というものが大きな契機になっているということでした。自分たちの要求が法的には必ずしも正論ではなく、実現する可能性が低いことを十分に分かっていても、逆に、その制約された法を動員することによって、妥協を導き出し、理想に少しでも近づけようとする市民のある種したたかな戦略が見えてきます。したがって、自分たちの要求内容が法的に正論かどうか、法解釈がどのようなものかは、必ずしも重要な要素ではないのです。100%成功することは初めから考えていないとも言えるでしょう。制約された枠組みの中で、結局は知恵を絞り、地域の環境を守ろうとする住民自治の主役たちの姿が映し出されてきます。
地方自治に関する理論書は多数ありますが、地域で発生した紛争事例を理論的な裏づけを提示しながら実証するという研究書はほとんど無いと思います。地方公務員である私たちにとって参考になると思います。是非、一読してください。
丸田 隆 著 「アメリカ民事陪審制度 日本企業常敗仮説の検証」(弘文堂)著者は関西学院大学法学部教授。私が外国法に関する文献を読破したのは、学生時代を通じて、実質これが初めてです。と言っても、全体で251ページ、しかも大部分が資料の掲載となっていて、本論は正味80ページくらいでしょうか。したがいまして、購入して三日目で読了できました。
問題は内容ですね。タイトルのとおり、アメリカの民事陪審制度の実証研究です。まず、陪審制度に対しては、アメリカ国内にも厳しい批判が存在することはご存知でしょうか。
アメリカ国内での民事陪審批判論の第一は、民事陪審はその評決額が途方もなく、不公平で、多くの民事事件は陪審員には難しすぎ、民事陪審はコストがかかり時間も必要であるという主張です。第二に、陪審員にはむら気があるとする批判です。特に医療過誤訴訟で指摘されることが多く、医療過誤における陪審は気まぐれで、複雑な争点を決定するのは無能力で、多くの場合は原告の立場に立っているという批判です。
こうした陪審員に対する批判論がマスコミにおいても取り上げられ、しかも、著名な研究者でさえ同様の主張をしており、陪審員への不信感はかなり強烈なもののようです。そして、その結果、私たち日本人も陪審員に対する一種の偏見を抱くようになっています。その代表的な事例として次のようなケースがあります。多数の人が聞いたことがある話でしょう。 『1人暮らしの御婆さんが唯一可愛がっていたシャムネコが、ある日、大雨のため全身ずぶ濡れになってしまいました。そこで御婆さんは少しでも早く乾かしてあげようと思って、つい2、3日前に購入したばかりの新型オーブン・レンジにシャムネコを入れ、スイッチ・オン!しかし、その結果、シャムネコはオーブンレンジの熱により、ショック死してしまいました。
御婆さんは可愛がっていたシャムネコがオーブンレンジでショック死したのは、オーブン・レンジの説明書に「ネコは入れないでください」と書いていなかったからだと主張し、メーカーに対して損害賠償請求をしました。陪審員は御婆さんに同情し、100億円の損害賠償を支払うようにメーカーに命令しました』
話の内容は曖昧です。シャムネコかどうか、100億円かどうかはハッキリしません。しかし、こうした話がまことしやかになされることで、民事陪審裁判に対する偏見を助長する上では大きな効果があると思います。実際、恥ずかしながら私もこの話をほとんど完全に信用していましたから。
こうした情報もあり、アメリカ民事陪審制度で最も被害を被っているのがアメリカに進出している日本企業ではないかという印象を抱いていたのは、私だけではないでしょう。時々、日本企業が訴えられて気の遠くなるような巨額の損害賠償金を支払わされる裁判の報道を知ると、日本企業はアメリカではターゲットにされ、特に民事陪審になると、アメリカ人で構成される陪審員は日本企業に対する敵意から、高額の損害賠償の支払を求める評決をするものだという、漠然とした理解をしている人は多いのではないでしょうか。つまり、日本企業がアメリカで民事裁判に巻き込まれると、まず間違いなく巨額の損害賠償を支払わされるという「日本企業常敗仮説」が私たち日本人の脳裏に叩き込まれていると言えるのです。そして、それ自身が、まさにアメリカ民事陪審制度に対する根拠のない偏見で、かつ、司法制度改革において導入が検討されている陪審員制度(裁判員制度)の心裡的な障壁になっていると言っていいでしょう。
丸田教授は、「アメリカの民事陪審は感情や偏見で判断し、結局、日本や日本企業に対する偏見で原告を勝訴させてしまう」、「民事陪審なんて理解能力のない素人が担っており、公正な判断が下せるわけがない」という批判や思い込みに対して、「大多数のアメリカの民事陪審は制度上意図されたとおり機能している」こと、「アメリカの民事陪審は日本企業だからといって特別視せず、アメリカの企業と同じように対応している」こと、のたった2つを立証するために2年半もかけて調査・研究をされました。
まず確認しなければならないのは、アメリカの民事訴訟イコール陪審制度ではないということです。むしろ、陪審制度は例外的とも言うことができます。なぜなら、数字から言えば陪審事件は民事訴訟事件のわずか1.5%にしかすぎないからです。こうした事実を知っておくべきです。これは驚きでしょう。私自身も100%が陪審裁判ではないとしても、半分くらいはそうだと思っていたのです。根拠の無い思い込みほど恐いものはありません。
最後に丸田教授の研究結果を簡潔に紹介しておきましょう。アメリカ民事陪審裁判での日本企業の勝訴率は、ナント、63.7%です。敗訴した場合の平均的な賠償額も3,160,000ドル(1ドル=120円として、約3億8千万円)で、べらぼうな数字ではありません。しかも驚くべきことは、アメリカ企業の勝訴率は50.1%であり、日本企業よりもかなり勝訴率が低いということにあります。具体例で言いますとミノルタカメラに対する特許訴訟で勝訴し、巨額の賠償金を手に入れたハネウエル社でも29件の訴訟で勝訴は11件、敗訴8件、和解10件であり、勝訴率は57.8%にしかすぎないということです。
アメリカは訴訟社会と言われており、日本の民事訴訟システムと異なることは漠然と分かっていても、それが著しく不合理なシステムにはなっていないということが分かります。民事陪審制度が機能していないという批判は、かなり的外れな、根拠の薄い議論ではないかというのが読了後の素直な感想です。日本でも陪審員制度を導入すれば、国民の司法に対する関心は高まるでしょうし、遵法意識、人権意識の涵養にも大きな効果があるのではないでしょうか。
<2001年版>
中村 攻 著 「子どもはどこで犯罪にあっているか 犯罪空間の実情・要因・対策」(晶文社)この本を購入したのは昨年の春だったと思います。本棚に寝かせていたままだったのですが、ようやく読みました。
少年犯罪への対策が声高に主張されている昨今ですが、子どもたちが犯罪被害者になる確率はもっと高いと言っていいでしょう。著者は千葉大学教授で、都市計画が専門です。
この著書では、主に土地区画整理事業によって作られた公園、集合住宅団地周辺の公園などで、どのように整備されたものが犯罪が発生しやすく、また、どういったものが安全なものかについて、具体的事例を紹介しつつ指摘しています。
同じ市役所で整備した同じ敷地内の公園と図書館が隣接しているにもかかわらず、植栽された高木などで窓がさえぎられていて、公園で遊んでいる子どもたちに職員の目が行き届かないという役所仕事の典型例のような公園は、やはり犯罪が多発しているようです。逆に、市長のリーダーシップでそういった垣根の無い施設整備をしている公園では、犯罪はほとんど発生していないということを実証しています。
また、駅前周辺のビル街と言えば、人通りが多く、犯罪が少ないと思いがちですが、現実には駅周辺は犯罪多発地帯であることを指摘しています。その理由は、犯行後に群集の中へ紛れ込むことができるからだということです。
さらに、学校施設については、敷地内での完結性を求めて、閉鎖性を高めていると指摘され、通学路が長大な校舎、生垣やブロック塀の障壁が続く場合が多く、特に下校時に犯罪の危険性が高いと言われています。そして、小学生などが犯罪被害に遭うのは変質者が多いようですね。イメージとしてはそういうものを抱いていましたが、そういう問題も実証されています。 この著書は、法律書ではなく、むしろ行政マンが街づくり事業に従事するとき、犯罪防止という観点からどのような整備が望ましいのか、ヒントを与えてくれるものだと思います。事務職だけでなく、技術職の人たちにも読んでほしいですね。
石井小夜子・坪井節子・平湯真人 著 「少年法・少年犯罪をどう見たらいいのか」 (明石書店)これは少年問題に取り組んでいる弁護士の共著であり、改正少年法を徹底的に批判する立場で論じられています。正直言って、「こういう弁護士がいるから、犯罪被害者の地位が軽んじられてきたのではないか」という弁護士不審を増幅させる内容であると思いました。
とにかく今までやってきたことは正しい、改正少年法は犯罪抑止に役立たないということばかりを強調し、犯罪被害者の救済論は「申し訳程度」に述べているだけにしか感じません。犯罪被害者への2次的被害ということは頻繁に問題になっていますが、そうした事実に対して、ほとんど反省が感じられない。犯罪被害者への人権蹂躙行為の責任の一端は弁護士にもあるということも、もっと認識するべきだと思います。
石川正興・曽根威彦・高橋則夫・田口守一・守山 正 著 「少年非行と法」 (成文堂)これは2000年6月に早稲田大学法学部が「少年非行と法」というテーマで公開講座を開催され、その内容を著書にしたものです。講演記録に加筆・補正を加えているものですが、内容的には話し言葉であり、分かりやすいと思います。少年法に対する姿勢が学者によってもかなりの差があるのだと感じましたね。例えば、守山教授は少年犯罪が凶悪化しているという問題に対して、少年問題に従事している弁護士にありがちな「頭ごなしに否定」をするのではなく、人々が不安感を持っている以上は除去すべきであると主張されています。一方、例えば、著名な刑事訴訟法学者でもある田口教授は改正少年法に対しては徹底的に批判的立場に立脚しています。
長期の懲役刑に服役すれば、社会に出たとき電車の切符を自動販売機で購入することもできなくなるから、決して甘いものではないという説明にはあきれました。それはそういう凶悪な犯罪をしたから長期の懲役刑になったのであって、そのような状態になるのは副次的効果としてはありうることでしょう。それを殊更強調して刑罰は厳しいと言うのは誤解を与えるのではと思います。
井上博道 著 「裁かれる少年たち」 (大月書店)現役の家庭裁判所調査官である著者が、やはり改正少年法を批判する立場から問題点を論じたものです。ただ、家裁調査官ならではの実際の実務がどのようになされているのかという点について述べられているのは理解に役立ちました。特に、捜査段階での取調べについては、冤罪の温床になるとまではいかなくても、やはり問題があるように思いました。
佐々木 知子 著 「少年法は誰の味方か」 (角川書店)著者は元東京地検検事で、現在は参議院議員です。少年犯罪に関する著書では、これが最も私の有する問題意識と共通すると感じました。もちろん、レベルの差はありますけど。また、私が読了した少年法関係の書籍では、唯一、改正少年法について肯定的な立場から論じられています。また、現在の刑法に定めている刑がいかに軽いかという問題についても指摘されています。
ただ、この本を読む場合、少年犯罪の残酷さ、残虐さを強調するためだったのかもしれませんが、余りにも露骨な描写がなされているのには読んでいて躊躇しました。
桑原知子・辻村徳治 編 「家裁調査官レポート」 (日本評論社)現役の家裁調査官の経験談をまとめたものです。少年事件にせよ、家事事件にせよ、それぞれ様々な人間模様があるということを強調することで、自分たちの仕事の存在感を表現しようとしているような印象でした。理論的な面で特に学ぶべき点は無いようです。どちらかと言えば物語風ですので、読みやすさという点ではお勧めです。
神野直彦・金子 勝 共著 「財政崩壊を食い止める」 (岩波書店)国の借金残高が600兆円を超える状況で、どのようにして財政を再建するのかという問題は、以前から議論されてきました。これは地方自治体の借金についても同様ですね。この著書での結論は、返済不可能 ということです。そして、それを前提に債務管理型国家というものを形成していくべきであるという立場です。
木村 收 著 「地方分権改革と地方税」 (ぎょうせい)2000年4月から施行された地方分権一括法に対して、なぜか私は冷めた見方しかできていませんでした。その理由の一つが課税権という財政基盤の基礎については、分権実施後もほとんど大差がないということから、どれほどの変化が期待できるのか懐疑的だったからです。
著者の木村教授は元・大阪市職員で税務行政に長年携わってこられた税法のスペシャリストです。分権実施後も地方税法を中心とする国の制約が大きいため、自治体が独自課税を実施する余地は極めて限られているという問題意識は共通するものがあります。法律的な観点からよりも、むしろ財政学的な観点からの議論が中心のものです。分権後の地方税制度の概要を理解するには必読でしょう。
四宮 啓 著 「O.J シンプソンはなぜ無罪になったか」(現代人文社)1995年10月3日、元フットボールの黒人スター選手、O.J シンプソンの殺人事件について無罪の評決がなされました。この事件では一般にシンプソンが黒人であったため、白人との人種差別が生んだ冤罪であることを弁護側が強調して無罪を勝ち取ったものだという理解がされています。
しかし、アメリカ陪審制度というのは、そんなにいい加減なものではない、ということを実証したものがこの本です。著者の四宮弁護士は、この事件の訴訟をつぶさに観察し、陪審員が事実認定をきっちりと行った結果、疑わしきは被告人の利益にという原則から無罪にしたものであることをあからさまにしています。日本で陪審員制度を導入すべきであるという意見に対して、反論する側は、陪審員は感情的な判断をするので、事実認定や判決、量刑が適正になされない恐れがあるというような理由を述べてきました。しかし、それが誤った認識であるということを、この事件を通して証明しています。